第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(5)
それでも、誰もすぐには返り灯へ手を出さなかった。
先に戻ってきたのは、体に染みついた動きだった。
火を内へ引いても、夜の癖まではすぐ引けない。
ハリムは一度、門脇へ手をやった。
指が空をつかんで止まる。
さっきまで手提げ灯の柄があった場所には、空の鉤だけが冷たく残っている。
若い顔が少し赤くなったが、ギードもリュカも何も言わない。
口で叱るより、空の鉤を見せる方が早い夜だった。
エルマは二階へ上がる前に、階段裏の棚をもう一度だけ見た。
路側の窓から引いた火が、古い革輪と木の匙の柄だけを照らしている。
外へ届かなくなったぶん、油と古い革の匂いが近い。
「戻したくなったら、上からでも言って」
「言うな」
「言わないで済むなら、最初から置かない」
エルマはそう返して上がった。
戻したくなること自体は、互いにもうわかっているのだ。
ギードは門の内側に立ったまま、返り灯の揺れと二階の息を交互に追っていた。
自分の置き場を決めきれない人間の立ち方だった。
「座ったらどうだ」
リュカが言う。
「座ると立ち上がるのが遅れる」
「何に遅れる」
「何にでもだ」
ギードはぶっきらぼうに答えたが、声は荒くない。
どこから呼ばれても遅れたくない者の声だった。
その時、外で風が一段低く鳴った。
平原の風には、草の上を滑る音と、地べたを削る音がある。
今のは後者だった。
門の敷居まで、冷えた土の匂いが押し寄せる。
ハリムが思わず門の外へ顔を出す。
「覗くだけにしろ」
ギードがすぐ言う。
「足は出すな」
「わかってます」
そう答えたものの、ハリムの爪先は敷居の木を押していた。
若い者は、目だけで足を止めるのがいちばん難しい。
リュカは門柱へ手を置いた。
ハリムが出るなら、その腕が先に触れる位置だった。
平原の向こうに、一瞬だけ火が浮いた。
人が手に持つより低く、馬に吊るすには揺れが細かい。
窪地へ入ったのか、草の波に隠れたのか、すぐ消える。
だが今度は、寄らない。
門の上の返り灯へまっすぐ来るとも言い切れない。
ただ、小窓へも、厩の隙間へも、空の鉤が残る門脇へも流れなかった。
「まだいる?」
二階から落ちてきたエルマの声に、ギードが敷居の内側から答える。
「消えてない。だがまだ遠い」
「流れない?」
その問いに、ギードはすぐ答えなかった。
遠くの火が消えたあたりを、息を止めて待つ。
「……いまのところは」
エルマの返事はない。
階段の板が一度だけ鳴る。
壁へ手をついた音だった。
ハリムが喉の奥で言う。
「窓の方へ流れない」
リュカは頷かない。
まだ早い。
平原の夜で怖いのは、最後の数十歩だった。
遠いうちは素直でも、近づくほど足は近い明かりを拾う。
ギードはようやく湯の鍋のそばへ戻った。
薪をつかむ手が固い。
今度は火を弱くしすぎる。
ハリムが無言で一本差し戻す。
上ではミラの息が荒くなった。
エルマの声が、その波の間に低く入る。
言葉は聞こえない。
急かしていないことだけはわかる。
急がせれば済む場面ではない。
広間の奥の小さな火は、棚の前だけを照らしている。
油の匂いは残っている。
だが、外の草へは届かない。
待つことと呼ぶことは違う。
棚の火に触れないこと、敷居を越えないことから、家の者たちはそれを覚え始めていた。
風がまた回る。
返り灯が高いところで鳴る。
ギードもハリムも、同時に顔を上げる。
それでも、誰も手提げ灯には手を伸ばさない。
そのあとも、手癖は何度か戻った。
二階からミラの低い息が落ちるたび、エルマは棚の火へ指を寄せかけ、触れずに階段を上がった。
平原の向こうで火が二つに割れた時、ハリムは「もう一つあります」と口にし、ギードの体も半歩だけ外へ傾いた。
リュカが黙って返り灯を指すと、二人は足だけを敷居の内へ戻した。
湯を替えに下りたエルマも、路側の窓へ歩きかけて止まった。
窓板へ置きかけた手を握り、何もない壁へ向き直った。
火を内へ引くというのは、窓へ向かう歩みまで家の中へ戻すことだった。
やがて外の火がもう一度浮いた。
今度は少し高い。
風に沈まず、浮いた分だけ門の上の返り灯へ詰めてくる。
ハリムがつぶやく。
「来る」
ギードは答えない。
答えないが、門柱を押さえていた指から力が抜ける。
そこで初めて、返り灯が別の音を立てた。
高いところで金具が擦れる。
細く、嫌な音だった。




