第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(6)
リュカは返り灯の下へ寄った。
外へ向いた口は一つに絞れた。
次は、その一つを落とさないことだった。
その一つが、風で大きく振られた。
二本の門柱をつなぐ横木の中央から、返り灯が鉄輪で吊られていた。
火の入った硝子の腹が横へ振られ、底が夜へ向く。
戻るたび、鉄輪が横木の金具へ当たって、かん、と細い音を立てた。
紐も擦れていた。
吹き返しのたびに、同じ箇所を削り、同じ音を返した。
ハリムが思わず外へ足を出しかけた。
「出るな」
ギードの声が先に飛んだ。
ハリムは敷居で踏みとどまる。
その横で、ギード自身が柱へ手をかけた。
外へ出るためではない。
門の内側には、横木へ手が届く短い踏み段が打ってある。
油を足す時に使う、宿の者しか知らない足場だ。
ギードはそこへ足を掛けた。
「親父さん」
ハリムが声を上げる。
「外へは出ん」
言いながら、ギードはもう一段上がる。
内側の柱に腹を寄せ、片手で横木をつかむ。
返り灯はそのすぐ先で揺れていた。
下から見ているだけで、肝が冷える高さだった。
エルマが息をのむ。
「無茶しないで」
「下ろさない」
ギードは横木にしがみついたまま言った。
「下ろしたら、別の灯になる」
ギードは、吊ったまま守るしかないところまでは自分でわかっていた。
風がもう一度来る。
返り灯が横へ払われ、鉄輪が甲高く鳴った。
紐の撚りが、暗がりで白く毛羽立つ。
リュカは広間の隅を振り返った。
「ハリム、革紐。濡らしてこい」
ハリムが走る。
手提げ灯に巻いてあった予備の革紐を外し、水桶へ沈める。
絞らずに戻ってきた。
濡れた革の匂いが、油の匂いに混じる。
「結ぶな。鉄輪の口へ噛ませろ」
リュカはそう言ってから、門柱の根元へ寄った。
返り灯を吊るす麻紐は、二本を撚って太くしてある。
だが上の結び目のすぐ下、鉄輪の口に触れるところだけが細い。
今夜だけの傷ではない。
油を足すたび、風の強い夜ごとに、少しずつ擦れてきた傷だ。
ギードもそれに気づき、横木に手を掛けたまま短く舌打ちした。
「替え時を過ぎてたか」
「今さら言うなよ」
エルマの声は責める響きではなかった。
自分にも向けた声だった。
この家の者は皆、今夜まで同じものを先送りにしてきたのだ。
窓の灯も、擦れた紐も、言えば済むことを言わずに。
返り灯がまた揺れる。
今度は戻り方が鈍い。
鉄輪の片側が金具に噛み、灯が斜めのまま戻りきらない。
硝子の腹が横木の角へ寄り、火皿の油が片側へ寄った。
細くなった紐が、そこで一度だけ白く伸びた。
「触るな」
下からリュカが言う。
「触れば暴れる」
「落ちるか」
「落とさない」
「そのまま持たせる」
「持つか、あれで」
「持たせる」
ギードは濡れた革紐を受け取り、金具と鉄輪のあいだへ押し込んだ。
それだけでは足りない。
リュカは門柱へ手を置いた。
木が風を受けて細かく震えている。
その震えは横木へ上がり、横木から金具へ、金具から鉄輪へ伝わっていた。
灯だけではない。
門ごと鳴っている。
リュカは目を閉じた。
指先にあったのは、木のささくれと、長年の油が染みたざらつきだけだ。
そのざらつきの奥で、門の震えが細く続いている。
縫うのは大きな裂け目ではない。
金具の口のわずかなずれと、ほどけかけた撚りの緩み。
夜が明けるまで持たせるだけなら、まだ間に合う。
門柱の木目に沿って、爪の先ほどの冷たさが走る。
冷たさは指先でほどけ、金具の方へ吸われていった。
リュカは息をひとつ止めた。
何をしたのか、自分から言うつもりはなかった。
横木の上の金具が、見えないところでひとつ、かち、と座り直す。
毛羽立っていた紐の先が寄り、濡れた革が鉄輪の遊びを吸った。
派手なことは起きなかった。
火は大きくもならず、風も止まらない。
ただ、次の揺れで違いが出た。
返り灯が横へ払われ、鉄輪が鳴る。
けれど今度は、鳴ったあとに妙な噛み方をしない。
紐も、さっきのような嫌な音を立てない。
振られた分だけ戻り、戻った分だけ、またまっすぐに下がる。
もう一度風が来る。
返り灯は大きく揺れたが、横木の真下へ戻った。
「……いま、何をした」
ギードが下を見ずに聞くと、リュカは門柱から手を離した。
「門が鳴る場所を、少し黙らせた」
「黙らせた?」
「明けたら紐を替えろ。金具も見ろ」
答えにはなっていない。
だがギードは、それ以上聞かなかった。
いまは落ち着いた返り灯を、手放さないことの方が先だった。
ギードはゆっくり足を下ろし、踏み段から広間へ戻った。
床へ足が着いた時、エルマがはじめて息を吐いた。
ハリムもつられて肩を下げる。
返り灯はまだ風に揺れている。
けれどもう、さっきまでのような嫌な音ではない。
横木の中央で、高い火がひとつだけ夜に残った。
その明かりを見上げたまま、エルマが言う。
「これで……見つけられるかしら」
誰が、とは言わなかった。
産婆のことでもあり、言いそびれた名前のことでもある。
リュカは答えなかった。
答えの代わりに、門の外を見た。
平原は黒い。
風で草が寝る音だけがしている。
だが、その黒の底で、今度は火が一つ揺れずに残っていた。
低くない。
ふらつかない。
門の上の返り灯だけを拾い、こちらへ近づいてくる。
ハリムが身を乗り出す。
「来てる」
今度は誰も手提げ灯に手を伸ばさない。
誰も門の外へ出ない。
ギードも、踏み段へ戻らない。
エルマも窓を振り返らない。
返り灯ひとつだけを高く残した門へ、火はぶれずに近づく。
それでも着くまでは、誰も着いたと言わない。
広間の呼吸は浅く、返り灯の金具と遠い蹄と草を払う風だけが、順に耳へ届いた。
エルマは二階と一階を往復するたび、窓へ向く一拍を飲み込んだ。
ギードは内側から動かず、ハリムは空になった鉤の下で親指をこすっていた。
やがて、馬の鼻息が先に聞こえた。
次に、車輪ではない、細い車そりのような軋み。
それから女の声がした。
「風割りか」
ギードが門の内側から答える。
「そうだ。中へ」
声は落ち着いていた。
迎えに出る声ではなく、帰る先で待つ声だった。
火が門をくぐった。
馬の首の脇に吊った、小さな火だった。
その後ろで、風除けを深く被った女が手綱を引いている。
産婆だった。
産婆は、階段へ向かう前にだけ馬の鼻面を一度撫でた。
馬の汗の匂いが入ってきて、ハリムの肩からようやく力が抜けた。
自分が迎えに出なくても、着くものは着く。
女は門を入るなり、一度だけ平原を振り返った。
それから門の上の返り灯を見上げる。
濡れた手袋の指が、手綱を握ったまましばらくほどけなかった。
「途中で、宿が三つも四つも見えた」
低い声だった。
笑い話にするには、まだ息が整っていない。
手綱をハリムへ渡しながら、女はもう一度、返り灯を見上げた。
「……でも最後は、あれ一つだけになった。だから着けた」
誰もすぐには返事をしなかった。
エルマが顔を伏せる。
ギードは門柱へ置いた手を、まだ離さない。
上から、ミラの短い息が落ちてくる。
産婆は顔を上げ、余計なことを聞かずに言った。
「二階だね」
エルマがうなずいた。
産婆は裾についた草を払い、迷わず階段へ向かった。
返り灯は、門の上でまだひとつだけ揺れていた。




