第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(7)
ハリムが受け取った馬は、見た目より神経を使っていた。
鼻息は荒くないが、耳が何度も返り灯へ向く。
ハリムは厩へ引きながら、湿った首筋を何度も撫でた。
「こいつも迷ったんでしょうか」
誰に聞くともなく漏らす。
リュカは答えない。
夜の平原で何が起きていたかを、いちばんまっすぐ覚えているのは馬の方かもしれない。
産婆は二階へ上がるなり、もう何も聞かなかった。
手を洗い、湯の位置を確かめ、ミラの息をひとつ聞いただけで布の数を言い当てる。
その動きだけで、家の慌ただしさが役目ごとに分かれた。
エルマはそのまま二階へ上がった。
ハリムは馬を引いて厩へ入れる。
ギードは門の内側に立ったまま、しばらく動かなかった。
門を閉めたわけではない。
それでもギードは、敷居の外へ一歩も出なかった。
リュカは広間へ戻り、置きっぱなしになっていた椀を取り上げた。
煮込みはすっかりぬるくなっていたが、豆の味は残っている。
匙を持つ指先には、門柱の冷えがまだ残っていた。
夜はまだ長い。
広間の奥、階段裏の棚では、小さな灯がまだ燃えていた。
外から見えない火は、古い革輪と木の匙の柄だけを照らしている。
産婆が上がってからの家には、夜の後半だけにある静けさが満ちた。
湯は鳴る。
木の匙は当たる。
階段は踏まれる。
音は減っていない。
それなのに、どれも役目を持って聞こえた。
ハリムは居場所を決めきれず、桶を動かしては戻した。
ギードも湯の鍋と門のあいだを狭く歩き、返り灯が鳴るたび顔を上げた。
夜半を少し過ぎたころ、風がまた回った。
返り灯が高いところで鳴る。
けれどもう、嫌な音ではない。
鉄輪は振られても横木の下へ戻り、紐もさっきのような擦れ方をしない。
ギードがふいに言った。
「去年も、ああしていればよかったのか」
誰へともなく落とした声だった。
ハリムが目を伏せる。
リュカはすぐには答えない。
去年のことに、今夜の答えをそのまま当てることはできない。
代わりに、上から産婆の声が落ちてきた。
「下で悔むなら、湯を切らすな」
低く、よく通る声だった。
ハリムが桶を取り、ギードが湯の鍋を見に行く。
それからの時間は、長いようでいて、細かい仕事で刻まれていった。
湯を足す。
布を絞る。
灰を寄せる。
二階から呼ばれれば運び、呼ばれなければ待つ。
ミラは一度だけ、大きく泣きそうな声を出した。
その時、エルマが二階で何か囁いた。
言葉は下まで降りてこない。
ただ、そのあとでミラの息が少しだけ揃った。
ギードは鍋の前に立っているくせに、何度も火加減を見誤った。
湯が強く鳴りすぎたり、逆に静かになりすぎたりする。
ハリムが黙って灰を寄せ直し、薪を一本抜く。
誰も、自分の手つきをいつものようには信用できない。
リュカはそれを黙って見ていた。
返り灯の綻びを一か所縫ったのは、あの灯が落ちれば話そのものが終わるからだ。
そこから先は、この家の者たちが越える夜だった。
下にいる者は音だけで長さを量る。
桶の重さ、布を絞る回数、産婆が階段の上で足を止める間。
ギードはそれを数えるように立っていた。
父親というより、門番に近い顔だった。
明け方の手前、空の色がまだ変わらないうちに、上の空気がふっと変わった。
痛みの声が、切れる。
別の緊張が階段を伝って降りてくる。
エルマの声がしない。
産婆の声だけが、短く、早く、必要なことだけを落とした。
「もう一枚。そこはいい。そのまま」
ギードの肩が上がる。
ハリムが桶を持つ手に力を入れる。
誰も階段へ寄らない。
そして、泣き声がした。
最初は、咳払いほどの細さだった。
次に、もう少し長く伸びる。
夜の終わりかけの家で、ほかのどんな音より遠くまで通った。
ハリムが顔を上げる。
ギードは動かない。
動かなかったが、鍋の縁に置いた手の力だけが抜けた。
指の下で、鍋が小さく鳴った。
産婆がしばらくして階段の上へ姿を見せた。
袖をまくった腕のまま、下を見下ろす。
「女の子だよ」
大声ではなかったが、広間の隅々まで届いた。
エルマはそのあとでようやく泣いた。
声は出さず、階段の途中で手すりに顔を伏せ、肩だけを震わせる。
ギードは泣かなかった。
鍋の前に立ったまま、一度だけ目を閉じた。
それから門の方へ向き直り、返り灯を見上げる。
まだ高いところで揺れている。
夜が終わるまで、役目を放さない火だった。
赤子の声が落ち着くと、産婆は湯の温度と布の乾かし方だけを短く伝えた。
湯、布、乾かす場所。
言われるたび、ギードは鍋へ、ハリムは布へ、迷わず戻った。




