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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(8)

 エルマは一つも書き留めない。

 湯、布、乾かす場所を聞くたび、短く頷いた。

 去年から毎晩、同じ窓へ火を置き続けてきたエルマなら、今度は内へ置くことも続けられる。

 リュカは、その頷き方を見てそう思った。

 東の空が白むころ、風は少し落ちた。


 平原は、何事もなかった色へ戻っていく。

 草は草の色に戻り、道は一本だけ、朝の光の中へ伸びている。

 門は門、窓は窓、厩は厩でしかない。

 夜だけ、それぞれが別々の帰る先になっていたのだ。


 朝になると、昨夜の返り灯の傷は指でなぞれるほど小さく見えた。

 だからギードは、梯子を掛けた。

 暗くなる前に、紐と金具を確かめるためだ。


 ギードは門の横木に梯子を掛け、返り灯を下ろした。

 煤を拭きながら、紐の擦れたところを親指でなぞる。

 たしかに、替え時を過ぎていた。

 金具の口も少し痩せている。

 次の夜へ、そのまま渡せる傷ではなかった。


「昼のうちに替える」


 誰へともなく言う。


 ハリムがうなずく。


「金具も見ます」


「見ろ。紐は二重にしろ」


 それだけ言って、ギードは返り灯を脇に置いた。

 長い決まりより、今日やることが先にある。


 ハリムは、言われる前に草地の外れまで歩いていった。

 昨夜、最初の灯が横へ流れた方角だ。

 追うためではない。

 昼の土で、どれほどのずれだったのか確かめたかった。

 草は風で倒れている。

 倒れた草の上に、さらに浅く寝た筋が二、三本ある。


 轍と呼ぶには軽すぎるが、ただの風筋とも言い切れない。

 足で寄れば消えそうな程度の乱れだ。

 ハリムはその前でしゃがみ込み、土を指で押した。

 湿り気はある。

 だが蹄の深い跡はない。


 昨夜聞いた草の音と、今朝の浅い乱れは、ぴたりとは重ならなかった。

 ハリムは土を指から払い、何度か振り返りながら戻った。

 門脇の鉤が外れ、階段裏へ移っている。

 それだけで、昨夜のことが少し形になり始めていた。


 エルマはしばらく二階にいたが、やがて静かに下りてきた。

 顔色は悪く、目元に夜の疲れが残っていた。


 けれど手は止まっていない。

 水を替え、布をまとめ、鍋の残りを確かめる。


 戻りかけたところで、階段裏の棚の灯が目に入った。


 昨夜、路側の窓から引いた小さな火だ。

 油はほとんど尽きて、皿の縁だけが湿っていた。


 エルマはその前に立った。


 ギードも見ていた。

 ハリムも、鍋を洗うふりをしながら気配を窺っている。


 エルマはようやく皿を持ち上げた。

 そのままなら、いつもの癖で路側の窓へ向かってもおかしくない。

 だが彼女は窓の方へ半歩向き、そこで足を止めた。


 広間の奥にある、煤で少し黒ずんだ壁のくぼみへ歩く。

 外からは届かず、家の者だけが朝晩に通る場所だ。


 そこに皿を置き、残りの油を切った。

 新しい油はすぐには足さない。

 昨夜までの置き場から、今朝の置き場へ移しただけだった。


 ギードが聞く。


「そこにするのか」


 エルマは壁のくぼみに置いた火皿を見たまま答えた。


「窓には戻さない」


 言い切るまでに少し時間がかかったが、声は静かだった。


「待たなくなるわけじゃない」


「わかってる」


「手の届くところには置く」


「それでいい」


 ギードの返事も短かった。


 エルマはそこで、ようやく一度だけ窓を見た。

 路側の小窓は明るい朝を受けて、ただの板と硝子に戻っている。


 壁のくぼみに置いた火は、窓にあった時のように外の黒さへ伸びない。

 足元の板、壁の煤、ギードの荒れた指だけを淡く拾う。


 ロアンを待つ灯は、もう道を照らしていなかった。

 そのことが、一瞬だけひどく残酷だった。

 だがエルマは、火皿から目をそらさなかった。

 そらせばまた窓へ戻したくなるとわかっていたからだ。


「ロアンが帰ってきたら」


 小さく言った。


「今度は、こっちで待つ」


 ギードは何も言わなかった。

 止められないから黙るのではなく、同じ置き場を見て黙っていた。


 二階で赤子が短く泣く。

 エルマが顔を上げる。

 泣き声は細いが、家の中へまっすぐ通った。


 リュカはそれを聞いて、ようやく椀を取り直した。

 煮込みはまた温め直されていた。

 豆は崩れ、干し肉は塩が立っている。

 何度も温め直した煮込みの味だった。


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