表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
30/36

第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(9)

 門の外では、朝の平原が広がっている。

 道は一本しかなかった。


 飯を終えるころには、朝の光が門の敷居まで入っていた。


 ギードは黙って立ち上がると、厩の脇へ行った。

 昨夜、板の扉を半分だけ引いた時に外しておいた細い板の切れ端が残っている。

 ギードはそれを一本選び、腰の短刀で表を削る。

 古い泥と木屑がめくれ、白い木肌が出る。


 ハリムが見ていて聞いた。


「何書くんです」


「忘れるから残す」


 ギードはそれだけ言って、刃を走らせた。


 板をならし終えると、今度は門脇へ行く。

 昨夜まで手提げ灯を掛けていた鉤が、門の内側の柱に打ってあった。

 ギードは釘抜き代わりの細い鉄具を差し込み、鉤をぐっと起こした。

 錆びた釘が一本、きい、と鳴って抜ける。


 エルマが広間の奥からその音を聞いて顔を上げた。

 止めなかった。


 ギードは抜いた鉤を、階段裏の棚の脇へ持っていった。

 路側の窓から引いた小さな灯が置いてある、あの棚だ。

 そこの柱へ鉤を打ち直す。

 これで手提げ灯は、外へ出る前に必ず家の奥で手に取ることになる。


 ハリムが少しだけ目を丸くする。


「そこへ移すんですか」


「門の前にあると、手が先に伸びる」


 釘を打ちながらギードが言う。


「先に伸びる手は、たいていろくなことをしない」


 鉤を打ち終えると、ギードはさっきの板を持って門へ戻った。

 外側ではなく、内側の柱だ。

 昨夜まで手提げ灯が掛かっていた場所の、すぐ上だった。


 ハリムが不思議そうに聞く。


「外へ見せなくていいんですか」


 ギードは板を柱へ当てたまま、鼻を鳴らした。


「外へ知らせる文じゃない。こっちの手を止める文だ」


 それから、短刀の先で板へ字を刻み始めた。

 深くも細くもない。

 急いで決めた形の字だった。


 刻み終えた溝へ、煤を指でこすり込む。

 字が黒く浮く。


 門をくぐるたび、外へ出る前に目に入る文だった。


 ハリムが、声に出して読んだ。


「夜は迎えに出るな」


 そこで一度切れる。

 もう一行ある。


「待つ灯は内へ置け」


 広間が静かになる。


 長い決まりではない。

 けれど昨夜の重さは、その二行に残った。


 ギードは板を柱へ当て直し、釘を二本だけ打った。

 乾いた音が、朝の門に短く響く。

 その音を、エルマは壁のくぼみの前で聞いていた。


 壁のくぼみには、路側の窓から引いた小さな皿が置いてある。

 火は落としてあるが、皿の縁にはまだ油の匂いが残っている。


 エルマは門の板を見て、すぐには何も言わなかった。

 やがて、その皿へ一滴だけ新しい油を落とす。

 昼のうちは灯さない。

 夜になったら、ここで灯す。

 そこはもう迷っていなかった。


「これでいいのね」


 小さく言ったのは、エルマだった。


 ギードは釘の頭を指で押さえてから振り向く。


「昨夜は、それで産婆が着いた」


「次もそうとは限らない」


「限らなくても、増やすよりましだ」


 言ってから、ギードは首を振った。


「……いや」


 言い直す。


「ましじゃないな。これでやる」


 リュカは黙って聞いていた。

 ギードは礼も説明も足さない。


 ギードはしばらくその二行を見ていた。

 夜になれば、門の内側でまず自分の字に触れる。


 エルマは黙って、壁のくぼみの皿へ油を一滴落とす。

 油は皿の底で丸く残り、火のない朝にだけ光った。


 二階から、ミラのかすれた声が落ちてきた。


「そこ?」


「そこよ」


「この子にも、そこって教えて」


 ハリムが新しい鉤へ手提げ灯を掛けてみる。

 階段裏の棚の脇、壁のくぼみのすぐ下だ。

 手提げ灯と小さな皿が、家の内側へ並ぶ。

 外からは見えない。

 けれど家の者が手を伸ばせば、すぐ触れられる。


 産婆も少し遅れて下りてきた。

 手を洗い直し、袖を整え、粥を受け取る。

 昨夜の道のことは聞かず、匙を置いた時にだけ言った。


「子が生まれる家は、灯を増やす。病人の家もそうだ」


 産婆は椀の縁を指で拭った。


「鈴を枕元へ寄せる家もある。戸口を開けて待つ家もある」


 ギードが顔を上げる。


「ここだけじゃないのか」


「心配な家は、似たことをする」


 産婆は壁のくぼみの皿を見た。


「あの皿は、そこにしたんだろ」


 それきり、産婆は粥へ戻った。

 今朝は土地の怪異より、産後の血の気と湯の温度が先だった。

 エルマは台所へ戻り、鍋の底をさらって薄い粥をつくった。


 ギードは門と台所のあいだをもう行き来しない。

 返り灯の紐と金具を脇へ置き、削りかけの新しい棒木を持って座る。

 昼のうちに直すと言ったことを、もう始めている。


 ハリムは馬に水をやり、桶を洗い、空いた手で門の内側の柱を何度も撫でた。

 柱に打たれた板の縁に、指がまだ慣れていない。

 夜になれば、親指があの刻み目に触れる。


 朝の光がもう少し高くなると、二階から産婆が赤子を抱いて下りてきた。

 布を替える、ほんの短い間だった。


 エルマは小さな顔を見て、壁のくぼみの皿へ目を移し、そっと布の端を直した。

 待っていた者が一人戻らないままでも、待たずにいられない者がまた一人増える。

 ギードは赤子の顔をまっすぐには見ない。

 まず手を洗い、返り灯の金具を脇へ寄せ、ようやく二歩だけ近づいてのぞく。


「目はミラだな」


 それだけ言う。

 リュカは荷を背負った。


 門の外へ出る前に、リュカは一度だけ二階を見上げた。

 板の扉の隙間は朝の明るさで淡くなっている。

 夜のあいだ灯を細くしていた木の筋も、今はただの板目だ。

 だが夜は、ささやかな違いだけで人を落とす。


 朝のうちに手で触れたことだけが、夜まで残る。

 紐を替え、鉤を移し、板へ二行残す。

 リュカは、そうした手間の残る宿が嫌いではなかった。


 門を出ても、リュカはすぐには歩き出さなかった。

 朝の平原は、夜の話など知らない顔をしている。

 だから振り返った。

 門の内側の板、階段裏の手提げ灯と皿、外された返り灯の紐。

 夜の真ん中で決めたことが、朝の仕事になっているか確かめる。


 風割り継場は、いまは小さい。

 小さいが、昨夜より弱くはなかった。


 門を出る時、内側の柱の板がもう一度目に入った。

 昨夜なら、誰かが反射で手提げ灯へ伸ばした場所だ。

 今はそこに二行だけある。


 夜は迎えに出るな

 待つ灯は内へ置け


 明るい朝の中で、風割り継場はただの小さな宿に戻っていた。

 門は一つ、宿の建物は一つ、厩は一つ。

 けれど階段裏の棚には、手提げ灯と小さな皿が並んでいる。

 どちらも、もう道の方は向いていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ