第五話 妖精に目を奪われる村(1)
結論から言う。
石造りの貯蔵庫の扉が閉まりきらない朝は、昼を待たずに鍋の底が見える。
この村では、そういう時にかぎって誰かが「また妖精が通った」と言った。
夜明け前の炊事場では、まだ少しはごまかしが利く。
暗いうちは湯気が先に立つし、冷えた体は塩気だけでもだまされる。
だが、空が白み始めるころには、鍋の薄さは隠せなくなる。
すくった時の重さも、器に注がれる音の軽さも、並んだ人たちの耳へそのまま入る。
カーラはその朝、炊事場で最初のひとすくいを見た。
豆は浮いている。
浮いているが、沈みが浅い。
鍋の前にいた年配の女性が一度だけ底をさらい、黙ってもう一度かき回した。
それだけで、今朝の鍋の具合はわかった。
「もう底が見えるね」
薄いとも足りないとも言わない。
底が近い、とだけ言う。
この村では、そうやって言い方をずらし、どうにか角を立てずにやり過ごしてきた。
スープを受け取った若い母親が笑う。
笑うが、そのあと手が止まる。
カーラはそこまで見て、鍋を離れた。
鍋を見ていても濃くはならない。
見に行くべきは、貯蔵庫の扉だった。
外へ出ると、広場の朝はもう始まっていた。
北畑の方から来た子どもが二人、白いカボチャの形を両手で真似して笑っている。
村長の妹は、まだ束ねきっていない麦の穂を抱えて広場を横切っていた。
使いの少年は村の入口と広場を行き来して、「まだ」と叫ぶ。
昼前に西の商人が来る。
だから皆、貯蔵庫より先に広場を整えたがる。
貯蔵庫の前にも人はいた。
だが、誰も腰を据えない。
穀物袋の縄を握っていた人も、板を担いでいた人も、使いの少年が「まだ」と言うたび広場を見る。
貯蔵庫のそばに立ったまま、先に台の方を気にしてしまう。
そういう朝は、たいてい最後の確認が抜ける。
去年、商人は北畑の束に高い値をつけかけた。
村長も若い男たちも、もう売れた気で笑った。
その間に皆は広場へ集まり、貯蔵庫へ戻すのが遅れた。
空が曇り、束の内側に湿りが回った。
冬に入るころには、二束ぶん色が鈍っていた。
帰りぎわ、商人は貯蔵庫の扉の下の黒ずみを見た。
乾いた草に貼りついた豆の皮を二粒つぶし、その場で値を下げた。
「食べる分はある。だが、最後の詰めが甘い」
村長はその言葉を忘れていない。
だから今年こそは、先に北畑の束を見せたかった。
貯蔵庫の前の黒ずみより、朝の光を受けた穂先を先に見せたい。
カーラの見方は逆だった。
値が落ちたのは、穂先を見せそこねたからではない。
扉の下を見られたからだ。
村ではいつも、そこをごまかしてきた。
村長の妹が、束を抱えたまま小さく言った。
「今朝は、誰の名前も出さないでおいて」
カーラは足を止めなかった。
「出したくて出すんじゃない」
「わかってる」
「だったら、どうして」
「今朝は、まだ伏せておいて」
妹はこちらを見ず、広場の方を向いたままだった。
その横顔だけで、カーラには何を言いたいのかわかった。
昔、一度だけ広場の真ん中で人の名前を出した。
その日は、火小屋の前で誰も声を張らず、夕方まで目を伏せて歩いた。
妹は、あの朝を覚えている。
火小屋で、火種にかぶせる灰が半分足りなかった朝だった。
火事にはならなかった。
だから皆、笑って流そうとした。
「また妖精が通った」
その時だけは、カーラが先に言った。
「違う。トーマが最後の灰をかぶせてない」
正しかった。
実際に最後の灰をかぶせる役はトーマだったし、半端なところで妻に呼ばれ、入口を離れたのも皆が見ていた。
だが、正しかったからといって、その朝が収まるわけではなかった。
トーマの妻はその日じゅう、カーラを見なかった。
年配の女性たちは「そこまで言わなくても」と小さく言い合った。
夕方になって、村長もカーラに言った。
「トーマだった。それはそうだ。だが、あそこで名前を出せば、次は誰も火の前に立たなくなる」
その一言は、カーラにずっと刺さっている。
名前を言えば村が痛む。
言わなければ冬が痛む。
皆はその隙間を、「妖精」で埋めてきた。
「今朝は、まだ誰の名前もいらない」
カーラは歩きながら答えた。
「先に扉を閉める」
北畑の端で、また子どもの声が上がった。
「白いの、いた」
「また通った」
大人の誰かが笑って受けた。
「今日は北だな」
それだけで、広場にいた人たちがいっせいに北畑へ向いた。
妖精が本当にいるかどうかは、カーラにはどうでもよかった。
嫌なのは、その一言が出た途端、誰の手がどこで止まったのか見えなくなることだ。
扉を確かめてもいないうちに、もう「仕方ない朝」になってしまう。
貯蔵庫の扉は、一見、閉まっていた。
朝の冷えが石の表面に残るうちに、カーラは貯蔵庫の前の土に膝をついた。
扉は両開きで、留め具は二つあった。
腰の高さの太い止め棒と、肩の高さの細い鉄の留め金だ。
下の止め棒が受けに入っていれば、遠目には閉まって見える。
だが、上の鉄の留め金まで穴に落ちて、初めて本当に閉まる。
カーラは右の扉を引き寄せ、左の扉に肩を入れた。
扉が石枠に当たり、鈍い音を立てる。
下の止め棒を押し込む。
これは入る。
いつも入る。
ひっかかるのは、その上だ。
細い鉄の留め金を受け金に乗せる。
指を離す。
かち、と鳴った。
鳴ったのに、落ちきらない。
鉄の先が穴の縁に触れたまま、爪ひとつ分だけ浮いている。
そのわずかな隙間から、扉の上の合わせ目へ朝の湿りが入り込む。
「……また戻った」
カーラは低く言って、もう一度肩で押した。
押す。
留め金を落とす。
指を離す。
やはり戻る。
その時、扉の下の石のくぼみから、乾いた豆がひとつ転がり出た。
昨日のこぼれ残りではない。
さっきまで見えていなかった豆だ。
カーラは拾わず、靴先で止めた。
たった一粒だ。
だが、この村の冬はいつも、そういう一粒を笑って見逃してきた。
貯蔵庫の前には、まだ入っていない穀物袋が四つあった。
豆の袋が二つ。
麦が一つ。
干しカブが一つ。
昼までに中へ入れ、扉を閉め、夕方まで様子を見る。
そこまでして、ようやく冬を越せる状態になる。
今夜から、風は湿り雪まじりに変わる。
貯蔵庫を閉める日は、飾る日ではない。
けれど広場からは、木製のハンマーの軽い音が聞こえていた。
飾り台を組む音だ。
北畑の束は、見栄えがいい。
朝いちばんの光を先に受けるぶん、穂先も皮の色もよく見える。
遠くから来る商人は、そこを見ただけで「今年はいい」と言う。
それを村長も知っている。
だから毎年、貯蔵庫を閉める前に一度だけ、北畑の束を先に見せたがる。
一度だけ。
その一度だけが、長い。
広場では、村長の甥が台の脚を立て、年配の女性が北畑の束をひとつ抱えて来ていた。
束の真ん中を手のひらで押さえ、穂先のそろいを直している。
貯蔵庫へ入れる前なら、根元の縄を締め直す。
いま女性が触っているのは、買い手に見せる穂先だった。
「その束、先に貯蔵庫へ入れよう」
カーラが言った。
女性は立ち止まったが、すぐには向きを変えなかった。
束を抱えたまま、広場を見た。
飾り台の脚を見た。
村長の顔を見た。
「一度、飾り台に載せるだけだよ」
「載せたら、商人が来るまで下ろせなくなる」
「来たらすぐ下ろすよ」
「来る前に誰かが触る。縄がゆるむ」
カーラは、女性の腕の中で揺れる穂先を見た。
「誰かが粒を比べだしたら、『こっちも』って次の束まで出る」
女性は言い返せずに笑った。
悪気のない笑いほど、人を戻りにくくする。
カーラは、その笑いがいちばん厄介だと思っている。
村長が広場から声を張った。
村長が欲しがっているのは、商人が村へ入って最初に口にする値だった。
カーラが見ているのは、そのあとの値下げだった。
「昼前に馬が二頭来る。西の商人だ。北畑の束が飾り台に出ていれば、最初の値が違う」
「そのあと商人は貯蔵庫も見ます。開いたままなら、帰りぎわに下げられます」
カーラは扉に肩を当てたまま返した。
村長は聞こえないふりをした。
聞いてしまえば、広場のにぎわいと貯蔵庫の前の冷えのどちらを取るか、その場で選ばなければならない。
穀物袋のそばにいた若い男のユラが、カーラを見て笑った。
「閉まらない?」
「下は入ってる」
「上はどうだ」
「上が落ちない」
「またそこか」
ユラはそう言って、穀物袋の縄に足をかけた。
手伝う気はある。
だが、手より先に口が動く。
「妖精が通ったな」
広場から、別の笑い声が返った。
「北畑を先に見せろって言ってるんだろ」
カーラはそこで、ようやく顔を上げた。
台の脚はもう二本立っていた。
子どもまで台の方へ集まり始めている。
商人が来る前から、もう今年の見せ場を作り始めている。
使いの少年が、馬の首を撫でながら広場と貯蔵庫を見比べていた。
どちらにも走らず、手綱を握ったまま立っている。
やがて、ぽつりと言った。
「うちの雇い主は、閉まった貯蔵庫を見て値を変えるよ」
村長の妹が少年を見た。
「何て言ったの」
「束には見た目で値をつける。最後は中身で決めるって」
少年は肩をすくめただけだった。
自分で決めた話ではないらしく、手綱を握り直した。
カーラは初めて、妹の手元に目を落とした。
飾り台に掛ける覆い布だった。
けれど布の端には、まだ家の奥の棚の埃がついている。
妹も、朝いちばんから広場だけを見ていたわけではない。
家の中と外のあいだで、何を先に出すか迷っていた。
「布はあとでいい」
カーラは、さっきより少し声を低くした。
「濡れないところに置いといて。買い手に見せる時に持ってくればいい」
妹はしばらく動かなかった。
それから、ようやく向きを変えた。
広場ではなく、村長の家の壁際に布を置いた。
「一度だけだよ」
布の端を握ったまま言った。
「それでいい」
カーラはそれ以上、何も言わなかった。
今朝は、広場の人たちを言い負かす朝ではない。
必要なのは、一人でも貯蔵庫の前へ戻すことだった。
だからカーラは、名前を飲み込んだまま粘った。
それで人は戻るのか。
それとも、また誰かが「妖精」と言って、止まった手を見えなくするのか。




