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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
32/37

第五話 妖精に目を奪われる村(2)

 貯蔵庫の入口脇に、平たい石を四つ並べた。

 一つ目は豆。

 二つ目も豆。

 三つ目は麦。

 四つ目はカブ。


 炭で小さく印をつける。

 穀物袋を運び終えたら、その石を裏返す。

 誰が悪いかを探す石ではない。

 まだ終わっていない仕事を、誰にでも見える場所へ出しておくためだった。

 終わったものから、石を裏返していく。


 カーラは石の前にしゃがみ、指についた炭を袖でぬぐった。

 土は冷たい。

 まだ朝露が引いていない。

 こういう土に穀物袋をこすれば、それだけで冬の鍋に響く。


「その石、何に使うの」


 村長の姪が桶を持ったまま聞いた。

 貯蔵庫へ入る前に、靴裏の泥を落とすための桶だ。

 桶の縁から水がこぼれ、土に黒い丸を作っていた。


「残ってる仕事の石」


「記録帳じゃだめなの」


「記録帳は私しか見ない」


「石にしたら、みんな戻るの?」


「忘れたふりはしにくくなる」


 姪は桶を抱え直した。

 それでも足先は広場に向いていた。


「台より先に、貯蔵庫」


「これも?」


「貯蔵庫の前へ。中へ入る前に泥を落とす」


「台は」


「あと」


 姪はしばらくカーラを見ていた。

 戻るかと思ったところで、広場の鍋係が声を上げた。


「その桶、こっちに持ってきて」


「すぐ戻ってくる」


 姪はそう言って、広場へ行った。


 すぐ戻る。

 その言葉が出るたび、貯蔵庫の前から一人減る。

 カーラは追わなかった。

 追えば、また「記録係が朝から怖い」と言われるだけだ。


 代わりに、カーラは石をもう一つ置いた。

 桶、と炭で書いた。

 水を貯蔵庫の前へ持ってくる仕事も、まだ戻っていない。

 だから、桶も残りに入れた。


 ユラがその石を見て、口の端を上げた。


「桶まで石を置くのか」


「まだ戻ってきてない」


「見ればわかるだろ」


「見えてるだけじゃ、みんな戻らない」


 ユラは返事に困って、穀物袋の縄を爪で弾いた。

 乾いた軽い音がした。

 袋は湿っていない。

 まだ間に合う。


「豆から運ぶ」


 カーラが言った。


「二人で持つ」


「一人で持てる」


「力の話じゃない」


 カーラは袋の底と、まだ湿った土を指した。


「底を泥に擦らずに運べるか」


 ユラは肩を回した。

 自分一人で足りると言いたげに、肩を少し張っていた。

 だが、袋に泥がつけば、その力では冬の鍋は濃くならない。


「ナモ、こっちへ来て」


 カーラは近くにいた男に声をかけた。

 ナモは板を担いでいた。

 飾り台に使う横木だった。


「それ置いて、豆を持って」


 ナモは足を止めた。

 だが板は下ろさなかった。


「これ、村長に頼まれてる」


「今は豆が先」


 カーラは笑わなかった。

 笑えば角は立たない。

 だが、そのぶん石は裏返らない。


「ナモ、豆を持って」


 もう一度呼んだ。


 ナモはようやく板を下ろした。

 不満そうだったが、豆袋の反対側に手をかけた。

 ユラもしぶしぶしゃがんだ。


「腰を落として」


「わかってる」


「袋の真ん中じゃない。縄の下」


「わかってるって」


「見てから言って」


 ユラは舌打ちした。

 それでも手を置き直した。


 二人は豆袋を持ち上げた。

 袋は地面を離れた。

 けれど二歩目でナモの足がぬかるみに沈み、袋が少し傾いた。


「そこで止まって」


 カーラが言った。


「止まるな。そのまま行け」


 ユラが言った。


「止まって。袋がねじれる」


 カーラは強く言った。


 ナモが止まった。

 ユラだけが進もうとして、袋がねじれた。

 麻の縄がぎしりと鳴った。


 カーラの心臓が跳ねた。

 袋の端から豆が三粒こぼれた。

 土に落ち、黒い湿りを吸った。


 たった三粒だ。

 だが、この村はいつも、そういう小さなこぼれを笑って見逃してきた。

 見逃した分だけ、夜の鍋はすぐに底を見せる。


「袋を下ろして」


「三粒だけだろ」


 カーラは手を差し出したまま、もう一度言った。


「袋を下ろして」


 ユラは黙った。

 ナモが先に袋を下ろした。

 カーラは膝をついて、三粒を拾った。


 洗えば食べられる。

 食べられるが、もう保存用の豆ではない。

 今日の鍋に回す豆だ。


 朝のひとすくいで見た軽さが、カーラの喉にまた戻ってきた。


 カーラはそれを手のひらに乗せたまま、広場に顔を向けた。

 村長も見ていた。

 見てはいたが、まだ台のそばに立っていた。


「それだけか」


 村長が言った。


 言ってから、村長は口元を引いた。

 それだけ。

 この村は、何度もそう言ってきた。

 それだけで済ませた分だけ、冬の鍋から減っていく。


 カーラは手のひらを閉じた。


「そこから始まる」


 広場が静かになりかけた。

 だが、北畑の端でまた子どもの声が上がった。


「白いの、動いた!」


 人がいっせいにそちらを向いた。

 ナモの手の中で、豆袋の縄が一瞬ゆるんだ。

 ユラの肩も、遅れて北へ向いた。


「今は見るな」


 カーラが言った。


「でも、今のは本当に――」


「見たいなら、袋を置いてから」


 ナモは唇を噛んだ。

 ユラは笑おうとして、笑えなかった。

 こぼれた三粒が、カーラの手のひらにあるからだ。


 それでも、皆はまた北を見ようとする。

 白いカボチャの葉の裏が風で返ったのか、何か小さいものが畝を抜けたのか、遠目ではわからない。

 わからないから、見たい。

 見たいから、手が止まる。

 その手の止まり方に、皆が「妖精」という名前をつけてきた。


 カーラは石を一つ裏返しかけて、やめた。

 豆袋はまだ入っていない。

 終わっていないものを、終わったことにはしない。


 村長の妹が家の壁際から戻ってきた。

 布は置いてある。

 空いた両手を腰の前で握り、広場と豆袋を見比べていた。


「私が片側を持つ」


 妹が言った。


 ユラが驚いて顔を上げた。


「これ、重いぞ」


「片側だけなら持てる」


「泥がつくだろ」


「だから持つんだろ」


 妹はそう言って、豆袋の端に手を入れた。

 爪の間に土が入っても、手を引っ込めなかった。


 カーラは妹の指先を見た。

 村長の妹は、広場の見え方を整える人だ。

 布を出し、束を直し、買い手の前で村人たちの受け答えまで整える。

 その人が豆袋に触ると、広場の何人かが困ったような顔をした。

 束を飾っていた人が、泥の前にしゃがんだからだ。


「腰を落として」


 カーラが言った。


「わかってる」


 妹は笑って、それから言い直した。


「見てから言うよ」


 その小さな言い直しで、ようやく一つ目の豆袋が地面を離れた。

 だが入口はまだ遠い。

 途中で北畑へ振り返る人も、広場の台を気にする人もいた。

 最後まで誰が残るのかは、まだ決まっていなかった。


 貯蔵庫の前の土は、朝露と人の足でぬかるみ始めていた。

 板は広場に持っていかれたままだ。

 カーラの石は、まだ一つも裏返っていない。


 それでも台は進んだ。

 村長の甥が脚を立て、子どもたちが縄をほどき、鍋係が北畑の束を指して「これが一番きれいに見えるね」と言う。

 そのたびカーラは貯蔵庫の前から呼んだ。


「貯蔵庫が先」


 だが誰も止まらない。

 止まらないまま、声だけがこちらに返ってくる。


「すぐやるから」


「一度乗せるだけ」


「買い手は台を見てから貯蔵庫も見るだろ」


 その返事の軽さが、貯蔵庫の上の鉄より、カーラには腹立たしかった。


「ユラ、こっち」


「今度は何だよ」


「そっちを見る前に、これ押して」


「今やるのか?」


「今やるしかない」


 ユラは穀物袋から足を下ろした。

 貯蔵庫の前へ来た。

 カーラが扉を押さえ、ユラが上の留め金を持った。


「肩を入れるよ」


「落ちても、手を離したらだめ」


 カーラが扉に肩を入れた。

 ユラが留め金を押し下ろした。


 今度は落ちた。

 鉄の先が、受け穴にすとんと入った。

 音も、さっきより深かった。


「ほら、入った」


 ユラが笑った。


「これで閉まった」


「まだ。押さえて」


「大丈夫だって」


 カーラが言い終える前に、広場で子どもの高い声が上がった。


「白いの、いた!」


「また通った!」


 つられて、大人の誰かが笑った。


「ほらな。今日はよく通る」


 その一言に重なって、鉄の先が、かつ、と鳴った。

 落ちきっていたはずの留め金が、穴の底からほんの少し浮いた。

 爪ひとつ分だけ、戻った。


「手を離すな!」


 カーラが言うと、ユラが慌てて押さえた。

 押さえたまま、顔をしかめた。


「……いま、戻ったか?」


 カーラの背筋がぞくりとした。

 毎年、見てきた。

 だが、人の目の前で、朝の明るみの中で見ると、やはり体の奥まで冷えた。


 村の入口の方から、乾いた土をきちんと踏む音がした。

 急ぐ足ではない。

 旅人の歩き方だった。


 貯蔵庫と広場のあいだで、旅支度の男が一人、荷を背負ったまま立ち止まった。

 誰もまだ、その男だけは妖精の方を見ないのだと知らなかった。


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