第五話 妖精に目を奪われる村(3)
若く見えたが、足の運びは落ち着いていた。
北畑の笑い声を聞き、広場の飾り台を見て、それから貯蔵庫の入口に目を向けた。
最後に、扉へ肩を入れているカーラを見た。
そこでリュカは足を止めた。
カーラが何を押さえているのか、もうわかっていた。
男は何も言わずに近づいてきて、貯蔵庫の扉の上の合わせ目を見た。
爪ひとつ分の白い筋。
そこに指先をかざし、入り込む湿りを確かめた。
リュカは、貯蔵庫の前の土を見た。
扉の近くまで来た足跡はいくつもある。
だが、その多くは入口の手前で踵を深く沈め、広場の方へ向き直っていた。
最後のひと押しを誰かに残して戻った足だ。
広場から貯蔵庫へ戻ろうとした跡もある。
けれどそちらは浅く、入口へ届く前に歩幅が細っていた。
足は貯蔵庫へ向いている。
それでも目が、途中で広場へ戻っている。
土には、そんな迷いまで残っていた。
広場で、また誰かが笑った。
「旅の人、気をつけて。今日は妖精が通る日だ」
リュカはすぐには振り返らなかった。
入口の白い筋を見たまま、口を開いた。
「結論から言う。この扉が閉まらないのは、妖精のせいじゃない」
リュカは笑わなかった。
乾いた板を指ではじく時みたいに、言葉を短く切った。
違う、と言うだけなら簡単だ。
難しいのは、その先だった。
誰の手がどこで止まったかを、そのまま口に出すのは骨が折れる。
親類どうし、隣どうし、昔から顔を知った人ばかりの村だ。
悪気でやっている人ばかりではない。
だからこそ、名前をまっすぐ出しにくい。
リュカは土の上に並んだ石を見た。
豆。
豆。
麦。
カブ。
桶。
炭の字はにじみ、どれもまだ裏返っていない。
「何が残ってるかは見える」
リュカが言った。
カーラは返事をしなかった。
石は並んでいる。
だが、石を見ても、広場へ行きかけた人は戻ってこない。
リュカは次に、カーラの手のひらを見た。
さっき拾った豆が三粒、まだそこにある。
泥はついているが、潰れてはいない。
「その豆は、どうする」
「今日の鍋に回す」
「戻さないのか」
「戻せることにしたら、また落とす」
リュカはうなずいた。
答えを褒めるでもなく、ただ入口へ目を移した。
貯蔵庫の入口。
上の留め金。
下のくぼみ。
広場へ戻る足跡。
北畑へ向いた首。
それから、広場にいた子どもへ目を向けた。
さっき北畑を指して騒いでいた小さい方の子が、自分を指さした。
リュカは北畑を顎で示した。
「さっき何を見た」
「白いのを見た」
「どこを通った」
「畝の向こう」
「その時、誰の手が止まった」
子どもはきょとんとした。
妖精の話を聞かれると思ったのか、子どもは少し身を乗り出した。
白いものの耳だとか、尻尾だとか、葉の陰の光だとか、そういう話ならいくらでもできる。
だが、誰の手が止まったかは見ていなかった。
「そこまでは見てない」
「じゃあ、次に見たらそっちを見るな」
「妖精を見ないの?」
「手を見るんだ」
子どもはますますわからない顔をした。
リュカはそれ以上説明しなかった。
広場へ向き直った。
「妖精がいたかどうかは、あとで見ればいい。いま見るのは、止まった手だ」
カーラが言い続けてきた「止めるな」とは、向きが違った。
止まることを先に見ろ、と言っている。
村長が眉を寄せた。
「子どもに大人の粗を探させる気か」
「粗じゃない」
リュカは貯蔵庫の扉に目を戻した。
「誰の手がどこで止まったかだ。そこが見えなければ、呼び戻せない」
村長は返せなかった。
カーラも返さなかった。
石を並べるだけでは、広場を見ている人たちを呼び戻せなかったのだ。
小さい子はまだ納得していない顔で、北畑と大人たちを見比べていた。
それでも、さっきより低いところを見るようになった。
穂先ではなく、手元。
畑の白いものではなく、束を縛る縄。
見る場所が変わっていた。
リュカはそれを見届けてから、カーラに聞いた。
「扉を閉める役は、いつも誰が決めてる」
「決めてない」
「最後に残った人がやるのか」
「そうしてきた」
「だから最後に誰も残らない」
短いのに、カーラは言い返せなかった。
たしかにそうだった。
最後に残った人がやる。
誰もがそう思っている朝ほど、最後には誰も残らない。
カーラは石の横に、もう一本、細い枝を立てた。
枝の先を削り、炭で黒くする。
そこに書いた。
最後
字は小さい。
だが、置いた瞬間、広場の何人かが顔をしかめた。
物の残りを示す石とは違う。
誰が持つかを決める枝だった。
「その枝、誰が持つんだ」
ユラが言った。
ユラは枝をあごで指した。
軽く聞いたつもりらしい。
だが、誰も笑わなかった。
答えを出すと、逃げ道が一つ減るからだ。
カーラは枝を見た。
自分が持てば早い。
だが自分が持てば、また記録係だけが悪者になる朝になる。
リュカが言った。
「村長が持て」
広場の何人かが村長の手元を見て、村長は口を閉じた。
「なぜ俺が持つ」
「貯蔵庫より先に、飾り台を立てさせたから」
「それは別だろ」
「別じゃない。飾り台へ回した分、こっちの手が減った」
リュカは広場の飾り台を指さし、それから浮いた留め金を指さした。
村長は、指された順に二つを見た。
村長は枝を見た。
カーラを見た。
村長の妹を見た。
そして広場の飾り台を見た。
さっきまで自分が北畑の束を見せようとしていた飾り台は、片脚を傾けたまま残っていた。
村長は枝を握る指に力を入れた。
「……閉めるまで持てばいいのか」
「閉まるまで持って」
カーラが答えた。
村長は枝を取った。
ただの細い枝だ。
村長は枝を握ったまま、すぐには指を開かなかった。
この朝、初めて広場にいた人たちが貯蔵庫の前を見た。
リュカはそこで初めて広場を向いた。
「妖精のせいにしておけば、最後まで押さえる手を決めずに済む」
広場で、木のハンマーの音が止まった。
カーラはその横顔を見た。
腹の立つ朝は何度もあった。
だが、あの言い訳を広場の真ん中でそう切った者は、この村にはいなかった。
村長が鼻で笑った。
「旅人が、扉一枚見ただけで偉そうな口をきく」
リュカは広場を見ないまま答えた。
「扉一枚じゃない」
「何を言ってる」
「貯蔵庫を開けたまま、外の飾り台を立ててる」
広場で、笑いかけた口が閉じた。
村長は言い返しかけたが、先に貯蔵庫の扉へ目を戻した。
上の留め金が、まだ爪ひとつ分だけ浮いていた。
リュカはカーラを見た。
「何本残ってる」
「穀物袋が四つ。豆二つ、麦一つ、カブ一つ」
「閉まりそうか」
「下は入る。上が戻る」
「戻るのはいつからだ」
「毎年少しずつ。去年からは目に見えて」
リュカはうなずいた。
広場の飾り台。
北畑の束。
貯蔵庫前の穀物袋。
その下の湿った土。
村人の立ち位置。
それらを順に見てから、短く聞いた。
「宿はあるか」
カーラは一瞬、口をつぐんだ。
この状況でそれを聞くのかと思った。
「宿屋はない。村長の家に空き部屋ならある」
「飯は出るか」
「鍋でよければ」
「なら、飯の前に閉める」
リュカはそれだけ言って、飾り台の脚元へ歩いた。
天板の下で、脚を締めている木のくさびを靴先で探った。
新しい木で、まだ深く入っていない。
これを抜けば、台は壊れず、天板だけ外せる。
村長が声を上げた。
「何をする気だ」
リュカは振り向かなかった。
「飾り台の板を、先にこっちで使う」
そのまま、くさびを蹴った。
そのひと蹴りで、飾り台が片側へがくりと傾いた。




