第七話 望まれた贋作を返す霊峰(9)
ベルクは厩舎へ行き、台所の女は鍋を洗っている。火は低く、灰の下に赤だけが残っていた。
ロアンは持ち手を膝へ置き、何度か親指で腹をなでたあとで言った。
「何をそんなに見てる」
トーラは持ち手を見ていた。いや、そこに残った削り屑の散り方を見ていた。ばらばらな木屑の落ち方が、いまは妙にありがたい。
「別に」
「別にじゃない顔だ」
「ロアン、そういう言い方ばっかり」
ロアンは鼻を鳴らした。咳払いをひとつしてから、少しだけ真面目な声になる。
「おまえ、怒ってるのか」
「怒ってた」
「今は」
「……怒ってるだけじゃない」
トーラは火を見る。
火は小さい。だから、あまり上手く嘘がつけない。
「向こうへ行ったの、脚のせいだけじゃないでしょ」
ロアンは黙った。すぐ否定しないところまで、ロアンだった。
「脚もある」
「それだけじゃない」
「入口でな」
トーラが視線を戻す。
「何それ」
「おまえら、俺を見る前に荷を見る」
「そんなことない」
「ある。遅れた分を、先に数える」
「数えるよ。困るもん」
「だから、少しでも減ればと思った」
「何が」
「……入口で待つ、あれだ」
トーラはすぐに言い返せなかった。
否定したいのに、完全にはできない。
遅れた荷を見て、先に舌打ちした朝が自分にもあった。ロアンの膝の調子より、次の荷の順番を先に考えた日もあった。
文句が少ないだけで、
今日は入口が静かだと思った朝もあった。
その静けさが何を抜いたあとなのか、
あの夜までは見えていなかった。
「私も見てた」
ぽつりと出る。
「入口で、まず荷を見る日、あった」
ロアンは答えない。
責めるでもなく、慰めるでもなく、火を見たまま黙っている。
その黙り方がいちばん堪えた。
「でも」
トーラは続ける。
「見てるうちに、そうやって待つのもロアンだって分かったんだよ」
「遅いのを見慣れただけだろ」
「違う」
トーラは首を振る。
「待ってる間に、あんたが何を見るかも分かったんだ」
ロアンの指が、膝の上で少し止まる。
ロアンはそこまで言って、膝へ手を置いた。
膝にかけた重さを逃がす動きまで不器用だった。言葉を避ける時と同じだ。
「馬鹿だよ」
「知ってる」
「だったらなんで」
「行く前は、そこまで考えてない」
「考えてよ」
「無理だ」
「無理で済ませるな」
トーラは珍しく、そこで一歩も引かなかった。
「脚が痛いなら、荷を減らせって言えばいい。入口が嫌なら、嫌だって言えばいい。消える方を選ぶな」
ロアンは少し顔をしかめる。
「そんなに素直に言えるか」
「言え」
「おまえ、簡単に言うな」
「簡単じゃないから言ってる」
その言い方で、ロアンは口を閉じた。
閉じてから、鼻で短く息を吐く。反論の代わりみたいな、妙に人間くさい間だった。
それから火を見たまま、
低く言う。
「向こうじゃ、誰も止めなかった」
「何を」
「早く済む方だ。聞かないでも分かるなら、
そのままでいいって顔ばかりだった」
トーラは息を呑む。
「楽だった?」
「少しはな」
ロアンは認める。
「でも、あれで戻っても、
入口の内側に座る場所がない」
その言い方が、妙にロアンで、トーラはそれ以上強くは言えなくなった。
自分の中にも、遅いと数えた朝があった。
「ロアン」
「何だ」
「遅いの、嫌だよ」
「知ってる」
「でも、いなくなるのはもっと嫌」
ロアンは火を見たまま、しばらく黙っていた。それから、視線をそらしたまま言った。
「次は、荷を減らす」
「うん」
「それで、遅く帰る」
「帰ってくるならいい」
「……帰るさ」
言い切るまでに、ほんの少し間があった。
それが見栄ではなく、本気でそうするつもりの間だとトーラには分かった。
「その代わり、入口で荷だけ見てたら怒る」
トーラはそこで、ようやく笑った。
「怒られる前に見るよ」
「何を」
「ロアンを」
ロアンはそこでようやく笑った。喉の奥で小さく笑って、すぐ咳払いになる。
その間の悪さに、トーラも少し笑った。
火の赤が小さく揺れた。
さっきまでなら、その揺れにトーラは肩を固くしていただろう。今はもう、ただ揺れとして見られる。
揺れても、人が人のまま残る夜へ戻ったのだと、そこでようやく身体が納得した。
リュカは荷紐を締めながら、入口脇の板を見た。
先に人。
雑な字だった。急いで書いたのに、急がせないための字になっている。
「その板、増やしすぎるな」
トーラが振り向く。
「増やしたくなる時もあると思う」
「ある」
「そのたびに長くしたら、また字だけを見る」
トーラは板へ視線を戻し、少しだけ笑った。
「たしかに」
「足りないくらいでいい。足りない分は、人の顔を見るしかない」
リュカが荷をまとめると、木の椅子がひとつ鳴った。
「行くの」
「行く」
トーラは入口までついてきた。外へ半歩出て、でもそれ以上は来ない。
入口の脇には荷置き台がある。天板の浅い傷を、トーラが指でなぞった。
「……これで足りるかな」
リュカは白い肩を見た。
「山は残る」
それから、荷置き台を見る。
「でも、先に手が止まる場所も残った」
リュカがそう言った時、坂の下から荷車の軋みが聞こえた。
昼を越えてから着く予定の行商が、一台だけ早く来たらしい。痩せた栗毛が鼻を鳴らし、御者が荷台の縄を叩きながら入口へ寄せてくる。
御者は低い荷置き台を見るなり、妙な顔をした。
「何だ、これ」
トーラは半歩だけ振り返る。
「先に置く場所」
「何を」
「決めるための」
御者は笑いかけて、でも笑いきらない。荷台の上には布包みが二つ、木箱が一つ、藁に巻いた細い筒が二本ある。
いつもの癖なら、いちばん軽い布包みから下ろしていただろう。
御者はその手を止め、代わりに自分の荷を見比べた。
「今日じゅう戻るのは、これか」
誰に言うでもない独り言だった。
トーラは何も急かさない。
御者は少し考えて、藁巻きの細い筒だけを荷置き台へ下ろした。
「橋向こうの鍛冶屋。先に渡すやつだ」
トーラはうなずく。
その横でリュカは、荷置き台の天板がまた一つ小さく鳴るのを聞いた。
仕組みはまだ新しい。けれど、もう人の手で使われ始めていた。
入口の内側から、ロアンの声が飛ぶ。
「栗毛の脚はどうした」
御者が少し身を乗り出す。
「朝よりましだ」
「まし、じゃ分からん。熱は」
御者はそこで言葉を探した。
探してから、自分の馬を見に行く顔になる。
「……見てくる」
それを聞いて、トーラは荷置き台に置かれた筒を指で軽く押した。
先に荷が動く前に、人が一回戻る。
そういう入口にしたかったのだと、やっと目で分かる。
御者は荷台へ戻りかけて、ふとロアンの咳払いの音へ振り向いた。
「あんたんとこの年寄り、口は悪そうだな」
トーラは少しだけ笑う。
「前からだよ」
「それなら安心だ」
御者はそう言って肩をすくめ、今度こそ栗毛を引いて坂の方へ戻った。
荷置き台に置かれた細い筒だけが先に目に入る。その向こうに、宿の人間の顔がある。
入口の使い方がほんの少し変わったのを、リュカは外から見ていた。
御者は戻りかけてから、
ちゃんと栗毛の前脚のところへしゃがみこんだ。
鼻先だけ見て済ませず、
球節へ指を当てて熱を確かめる。
それから荷台へ戻る。
その順番を見て、
トーラは荷置き台の角をもう一度だけ撫でた。
トーラはその背を見送ってから、板へ目を落とす。
先に人。
短すぎるくらい短い。
でも、長い説明より先に、今のやり取りがもう一度それを教えていた。
入口の内側で、ロアンの咳払いがひとつ鳴る。すぐあとにベルクへの文句が続き、台所の女の笑いが重なる。
トーラはその音を背中で聞きながら、小さく言った。
「……なくさない」
何を、とは言わない。
リュカも聞かなかった。
白い肩は向こうにある。消えはしない。
トーラは荷置き台を軽く叩いてから、入口の内側へ戻った。
戸が閉まる直前、ロアンの咳払いがもうひとつ鳴った。




