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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第七話 望まれた贋作を返す霊峰(8)

 朝になっても、昨夜の続きは残った。


 清書された帳簿は見やすいが、あとで効く書き足しがない。ロープは揃いすぎて手に馴染まない。持ち手は握ると滑る。革ベルトは目が詰まりすぎて、寒さで裂けそうだった。


 ロアンは持ち手を削り直しながら、鼻を鳴らした。


「きれいにしすぎだ。手の中で逃げる」


 受付の机の紙を持ち上げ、行の外へまたひと言だけ足す。


 黒馬、鼻先白い。夜は冷える。


 汚い字だ。少し右へ流れ、点が一つ余分についている。

 けれど、その汚さまで含めて、この宿の紙だった。


 戻ってきた者たちは、まだどこか寝ぼけていた。歩きながら何度か立ち止まり、自分が入口の内側にいることを確かめるように周りを見る。


 台所の女は、一人ずつ見てから麦のスープを温め直した。


「まず食べな。泣くのはそのあとでも間に合う」


 誰にともなくそう言い、木の器を並べていく。

 ロアンには少し多めに、ベルクには少し薄めに、受付の男には冷まし気味に。同じ器は一つもなかった。夜の明かりの下では、そこまで消えていた。


 ロアンは器を受け取ってから、すぐには食べない。縁へ指を当て、熱さを見る。ふつうの熱さだと分かると、そこでようやく一口すすった。


「ぬるい」


 第一声が文句なのを聞いて、台所の女は笑う。


「戻って一口目がそれ?」


「冷えた脚に、ぬるいスープは効かない」


 ベルクが「膝で食うのか」と口を挟み、ロアンが「おまえは口を閉じて食え」と返す。

 台所の女が吹き出し、受付の男まで少し遅れて笑う。

 火の前に、やっと人らしい間が戻る。


 トーラは受付の机の引き出しを開け、夜明け前に書いた三行の紙を見た。


 昼までに戻らない荷は、次へ回す

 帰って来られる分で行く

 急がせない


 増やさない。

 紙はそれで閉じた。


 代わりに、入口の内側へ低い荷置き台を引いた。ひとつしか置けない広さの台だ。


 もともとは、割れた水甕を避けておくために使っていた古い台だった。

 高さが半端で、荷を載せるには低い。だから皆、壁際へ追いやっていた。

 トーラはそれを引きずり出し、ぐらつく脚へ布切れを噛ませる。ベルクが釘を打とうとすると、ロアンが暖炉の前から止めた。


「釘はまだ早い」


「早い?」


「今いる場所が違ったら、また動かす」


 トーラはそこで頷いた。

 決めつけないための仮置きだった。


「そこか」


 ロアンが見て言う。


「先に見える方がいい」


「そうだな」


 返事はそれだけだった。


 昨夜のあとでは、その短さで足りた。

 ベルクは入口と暖炉の間を二度歩き、客の荷がどこへ置かれるかを自分の足で確かめる。台所の女は器を運ぶ動線にぶつからない位置かを見た。

 トーラは低い台の前に立ち、実際に荷を下ろす真似をしてから、半歩だけ左へずらした。


「そこだね」


 台所の女が言う。

 トーラは返事の代わりに、天板の埃を袖で払った。


 昼前、見張り小屋へランプの芯を運ぶ若い使いが入口を入ってきた。

 背に炭袋、腕に防水布の包み。急いでいる。広間へ足を入れた瞬間、まず低い荷置き台を見る。


 ベルクが顎で示した。


「どっちが今夜」


 使いは戸惑い、すぐ荷を見比べた。背の炭袋と腕の包み。自分から防水布の方を荷置き台へ下ろす。

 炭袋まで下ろしかけて、台の端が小さく鳴った。二つは載らない。使いは慌てて炭袋を背負い直し、防水布の包みを少し奥へ押した。

 ベルクが手を出しかけたが、途中で止める。

 それを見てから、台所の女が薄い板の入った箱を寄せた。


「行き先」


「上の見張り小屋。ランプの芯」


 トーラが薄い板へ黒い石筆で短く書く。


 上の見張り小屋 ランプ芯


 字は少し流れ、端がかすれる。

 使いはその板を見てから、背の炭袋を抱え直した。出る前より少し遅い。だが、その遅さがよかった。


 ロアンは暖炉の前から言う。


「戻りは」


「昼過ぎ」


「それなら、ランプの芯は明日だ」


 使いは荷置き台の包みを見た。

 置いていく荷がある。若い使いはそれを一度見てから、頭を下げた。


「戻ります」


 ロアンは鼻を鳴らす。


「それなら上等だ」


 荷置き台の天板には、最初の浅い傷がついた。

 ベルクはその傷を見て、少しだけ黙った。

 今度は、早い方がいいとは言わなかった。


 昼前、粉挽き小屋へ塩袋を届ける若い女が来た。

 背に塩袋、腕に油紙の小包。急ぎ足で土間へ入り、両方置きかけて低い台に気づく。


「どっちから」


 ベルクが聞く。


 女は小包を見て、塩袋を見た。答える前に、トーラが何も言わず石筆を持つ。

 女はその手元を見てから、油紙の方を台へ置いた。


「粉挽き小屋。帳面の返し」


 トーラが板へ書く。

 粉挽き小屋 帳面返し


 ロアンはそれを横目に見て、鼻を鳴らした。


「塩袋は」


「夕方までに戻る」


「なら背負って行け」


 女は一瞬むっとした顔をしたが、すぐ塩袋の紐を握り直した。


「……わかった」


 そのむっとした間に、ベルクはほっとする。

 昨夜の誰かなら、聞き返しもせず、いちばん早い置き方にしていただろう。


 粉挽き小屋へ出る女の背を見送ってから、台所の女が言った。


「入口で一回止まるだけで、顔が見えるね」


 トーラは板の文字を指でなぞり、うなずいた。


「荷だけ先に通らなくなる」


 昼を回るころには、置き方の癖も見えてきた。

 急ぐ者ほど、先に軽い方を台へ置く。戻りの遅い者ほど、逆に重い荷を置いてしまいそうになる。ベルクはそれを見ながら、入口脇の壁へ細い線を二本引いた。


「今日じゅう」


「明日でもいい」


 線だけだ。文字にすると、すぐそれだけを見る者が出る。

 トーラはその線を見て、文句を言わなかった。


 午後、御者が一人、穀物袋を背負って入ってきた。

 荷置き台を見る。壁の二本線を見る。ベルクの顔を見る。


「どっちだ」


「おまえが決める」


 御者は嫌そうに鼻を鳴らしたが、その場で袋を下ろし、結び目へ手をやった。ほどく前に、ふと止まる。


「……栗毛、脚が鈍い」


 ロアンが暖炉の前から返す。


「それなら穀物は明日だ。今は蹄を見ろ」


 御者はそこで舌打ちした。


「結局、先にそっちか」


「嫌なら帰れ」


 ロアンの返事は荒い。

 御者も荒く鼻で笑う。


「帰るかよ」


 そのやり取りを聞いて、台所の女が小さく言った。


「文句がある方が落ち着くね」


 トーラも少しだけ笑った。


 夕方までに、荷置き台の上には細い傷が三本増えた。

 板へ書く文字も増えたが、どれも長くはしなかった。

 上の見張り小屋。

 粉挽き小屋。

 黒馬、爪先。

 書き足すのは、荷そのものではなく、その荷の向こうにいる相手を思い出すための言葉ばかりだった。


 ベルクは、板の文字を見てから荷を持つ癖がついた。

 前なら荷札だけで足りた。今は足りない。足りないと分かってから、一度相手の顔を思い出す。

 それだけで、手の速さが少し落ちる。

 でも、その落ち方が今は怖くなかった。


 台所の女は夕方の鍋をかき混ぜながら、入口の方を見た。


「夜になる前に、置きっぱなしがあるかだけ見るよ」


 トーラはうなずく。


「灯の下に仕事を残さない」


 ロアンは暖炉の前から、そこへ一つだけ足した。


「残すなら、誰のか書け」


 ベルクが振り返る。


「荷札で足りるだろ」


「足りない」


 ロアンは短く言う。


「荷札は荷しか見ない」


 トーラはその言葉を、すぐ板へ写した。

 荷札は荷しか見ない。


 書いてから、少しだけ笑う。


「長い」


「削れ」


 結局、板にはこう残った。


 先に人。


 乱暴なくらい短い。

 でも、この宿にはそのくらいでよかった。


 ベルクはその字を見て、入口の柱へ背を預けた。

 前なら、こんな短い言葉で宿のやり方が変わるとは思わなかった。

 けれど昨夜を見たあとでは、長い決まりほど先に荷だけを見る気もした。

 短くて、毎回人の顔を思い出さないと使えないくらいが、ちょうどいい。


 日が傾き始めると、トーラは自分から入口の明かりを一段落とした。

 昨夜と同じ暗さにするためではない。暗くしても見えるところだけを残すためだ。

 荷置き台の上に何もないか、板へ書いた字がまだ読めるか、それだけを確かめる。


「今日じゅう」


 ベルクが壁の線を指す。


「明日でもいい」


 トーラが答える。


 今度はちゃんと間があった。

 言葉だけではなく、入口の前で一度荷を見比べる間だ。


 厩舎から戻ってきた若い使いが、そのやり取りを聞いて足を止めた。

 背には空の炭袋、腕には見張り小屋から返ってきたランプの芯箱。まず芯箱を台へ置き、それから炭袋を足元へ下ろす。


「これは終わり」


 自分でそう言う。


 ベルクはうなずき、トーラは板の文字を消した。

 終わった荷は、板から先に消す。

 残すべきものだけを明かりのそばへ残す。


 その小さな手順が、昨夜とはまるで逆だった。


 昼が傾くころ、暖炉の前に残ったのはトーラとロアンだけだった。


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