第七話 望まれた贋作を返す霊峰(7)
ベルクが顔を上げる。トーラはもう立っていた。
白い肩の下り口に影がひとつ見えた。次に、もうひとつ。
一歩ごとに間がある。足を置く場所を迷い、肩が少しぶれる。人の歩き方だった。
影は少しずつ近づいてくる。先頭の一人が、坂の石につま先を取られた。小さく舌打ちをする声が、朝の薄い空気を抜ける。
トーラの指が、手に持った柄へ食い込む。その舌打ちを、知っていた。
風向きが変わる。
雪の匂いと、濡れた毛織物の匂いが一緒に下りてくる。夜のあいだ山へ取られていた人間の匂いだった。きれいすぎる火の前にはなかった、生きた体温の残り方だ。
さらに近づく。顔はまだ見えない。けれど歩き方が見える。右の脚を少し庇っている。次の一歩の前に、わずかに膝へ手が落ちる。
トーラはもう待てなかった。入口を出る。今度は誰も止めない。
山から下りてきた老人は、入口の前まで来ると、まず不機嫌そうに眉を寄せた。
「何だ、この山は」
第一声がそれだった。
トーラの肩から、一気に力が抜ける。
老人――ロアンは、入口の段差で一度つまずきかけた。右膝へ手を当てるのが、いつもより一拍遅い。
「途中で、どこからどこまで歩いたか抜けてる。それに、冷えが脚の芯まで入った。火、まだあるか」
トーラは答えない。代わりに、一歩だけ寄って肘をつかむ。
「遅い」
ロアンが怪訝そうに見る。
「いつも通り」
ロアンは鼻で笑いかけて、咳に変えた。
「早く帰ったら、それはそれで文句を言うだろ」
後ろから、他の者たちも下りてくる。裾を踏んで舌打ちする者がいて、荷を取り違えかけて怒られる者がいる。声の高さも、歩幅も、少しずつ合わない。
受付の男は、入口の柱を見て眉を寄せた。
「これ、昨日から曲がってたか」
曲がってはいない。ただ、そう言いたくなるだけの人間臭い不満が戻ってきていた。
ロープの女は、広間へ入る前に自分の袖口を嗅いだ。
「なんだい、この煙くささ」
「宿だよ」
台所の女が半ば泣き笑いで返す。
倉庫の男は、削り屑の残った床を見るなり舌打ちした。
「誰だ、刃を出したままにしたの」
ベルクはその小言を聞いて、胸の奥が少しだけゆるむ。
昨夜の静けさには、こういう無駄な文句が一つもなかった。
宿の者たちは、一瞬だけ黙った。
ロアンはベルクへ目を向ける。
「おい、おまえ。馬具の革、持ってきてみろ」
ベルクがはっとする。昨夜の途中のまま残してあった革ベルトを持っていく。
ロアンは受け取りかけて、指を止めた。
「……どの馬のだ」
ベルクの目が丸くなる。
「……栗毛のです」
「栗毛のなら、そこが先に切れる。締め方に変な癖がある」
そう言って受け取る。針を取ろうとして、また止まる。厩舎の方へ顔を向けた。
「栗毛、鼻先は」
ベルクが、そこでとうとう笑った。泣きそうな顔で。
「冷えてます」
「なら先に干し草を足せ。革は逃げない」
トーラはそのやり取りを聞いていた。聞いて、それから初めて手を離した。
ロアンが眉を寄せる。
「何だ、朝から人の腕なんか掴んで」
「別に」
「別にじゃない顔だ」
ロアンは暖炉のそばへ行き、腰を下ろしかける。その前に、やっぱり右膝をさする。それから火を見て、少しだけ顔をしかめる。
「火、弱いな」
トーラはそこで、ようやく言った。
「欠けてるんじゃない」
誰に向けたともつかない声だった。
「あれで、ロアンなんだよ」
宿の者たちは、それを聞いてまた少し黙った。昨夜の手早さを、誰も全く忘れてはいない。けれどその手早さの中へ、今朝戻ってきたこの人たちはいなかった。
受付の男が、気まずそうに喉を鳴らす。
「……字、また汚くなるな」
ロアンが即座に睨んだ。
「読めるだろ」
「読めます」
返事のあとで、受付の男は少し笑った。
読めればいい、という雑さも含めて、戻ってきた方が自分たちの宿だと、皆まだうまく言葉にできないまま分かり始めていた。
ベルクは一瞬だけ、昨夜のロアンならもう革ベルトを縫い終えていた、と思った。
その瞬間、トーラの視線が来た。
ロアンは暖炉へ手をかざした。
「で、食事はあるのか」
トーラが鼻で笑う。
「ある」
「それなら先に出せ。山の話はそのあとだ」
少し荒くて、少し遅くて、いちいち余分がある。そういう声は、朝の宿にはちょうどよかった。
台所の女は、返事の代わりに器を二つ多く出した。
戻ってきた全員が、腹が減っているのかどうか、自分でも分からない顔をしていたからだ。
受付の男は椅子へ座る前に、机の端を二度撫でた。
「なんでこんなにきれいなんだ」
「おまえが書いてたからだろ」
ベルクが言うと、男は嫌そうに顔をしかめる。
「俺でも、ここまで気味悪くはしない」
その言い方に、倉庫の女がうなずいた。
自分で削ったはずの持ち手をつまみ上げ、嫌そうに眉を寄せる。
「削りすぎだ。握ると逃げる」
ロアンが横から奪うように受け取り、ひと目だけ見て鼻を鳴らす。
「当たり前だ。木目を殺してる」
その乱暴さに、倉庫の女の肩がかえって少し下りた。
トーラはその様子を見ていた。
夜のあいだ消えていたのは、速さや静けさだけではない。
こういう細かい不満の言い合いも一緒に消えていたのだと、朝になってから分かる。
戻ってきた者の一人が、器を持ったまま戸口へ振り返った。
「俺、どこまで行ってた」
誰も答えられない。
山へ入ったことは知っている。戻ってきたことも知っている。その間が、皆の頭の中で白く抜けている。
ロアンが器の縁から顔も上げずに言う。
「戻ったなら、それで十分だ」
荒い答えだった。
けれど、その雑さでやっと朝が前へ進む。
ベルクは器を配る手伝いをしながら、戻った人間の顔を一人ずつ見た。
受付の男はまだ少し青い。倉庫の女は刃を持つ手だけが妙に慎重で、ロープの女は自分の編み目を何度も数え直している。
完全に元通りではない。
それでも、昨夜の揃いすぎた静けさよりずっとましだった。
台所の女は、戻ってきた者の前へそれぞれ違う添え物を置いた。
塩を足す者、湯を足す者、黙って器を抱える者。昨夜の誰かなら、そんな無駄はなかっただろう。
でも朝の宿には、そういう無駄が要る。
ロープの女が、器へ口をつける前に匂いを嗅いで言った。
「薄い」
「戻って一口目で文句言うんじゃないよ」
台所の女が返す。
「戻ったから言うんだよ」
その答えに、また小さく笑いが広がる。
トーラはロアンの器へ黒胡椒をひと振り多く落とした。
ロアンはそれに気づいて、何か言いかける。
言いかけて、やめた。
文句を一つ飲み込む。その小さな引っかかりまで、ちゃんとロアンだった。
戻ってきた受付の男は、器を持ったままトーラへ聞いた。
「昨夜、俺、何か書いてたか」
「書いてた」
「変なこと、残ってるか」
トーラは少し迷ってから答える。
「一行だけ」
「読むなよ」
その言い方に、ベルクが吹き出した。
受付の男も、少し遅れて笑う。
消えている間のことは分からない。分からないままでも、読まれたくない一行があると思えるなら、もう十分に人だった。
ベルクはその一行を読みたくなったが、同じくらい読みたくなかった。
役に立つことばかりが並んでいたら嫌だし、逆にあまりに本物らしい文句が並んでいても、それはそれで胸に残る。
だから結局、引き出しの方を見ない。
見ないまま、器の中の麦をかき混ぜた。




