表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
PR
55/60

第七話 望まれた贋作を返す霊峰(7)

 ベルクが顔を上げる。トーラはもう立っていた。


 白い肩の下り口に影がひとつ見えた。次に、もうひとつ。


 一歩ごとに間がある。足を置く場所を迷い、肩が少しぶれる。人の歩き方だった。


 影は少しずつ近づいてくる。先頭の一人が、坂の石につま先を取られた。小さく舌打ちをする声が、朝の薄い空気を抜ける。


 トーラの指が、手に持った柄へ食い込む。その舌打ちを、知っていた。


 風向きが変わる。

 雪の匂いと、濡れた毛織物の匂いが一緒に下りてくる。夜のあいだ山へ取られていた人間の匂いだった。きれいすぎる火の前にはなかった、生きた体温の残り方だ。


 さらに近づく。顔はまだ見えない。けれど歩き方が見える。右の脚を少し庇っている。次の一歩の前に、わずかに膝へ手が落ちる。


 トーラはもう待てなかった。入口を出る。今度は誰も止めない。


 山から下りてきた老人は、入口の前まで来ると、まず不機嫌そうに眉を寄せた。


「何だ、この山は」


 第一声がそれだった。


 トーラの肩から、一気に力が抜ける。


 老人――ロアンは、入口の段差で一度つまずきかけた。右膝へ手を当てるのが、いつもより一拍遅い。


「途中で、どこからどこまで歩いたか抜けてる。それに、冷えが脚の芯まで入った。火、まだあるか」


 トーラは答えない。代わりに、一歩だけ寄って肘をつかむ。


「遅い」


 ロアンが怪訝そうに見る。


「いつも通り」


 ロアンは鼻で笑いかけて、咳に変えた。


「早く帰ったら、それはそれで文句を言うだろ」


 後ろから、他の者たちも下りてくる。裾を踏んで舌打ちする者がいて、荷を取り違えかけて怒られる者がいる。声の高さも、歩幅も、少しずつ合わない。


 受付の男は、入口の柱を見て眉を寄せた。


「これ、昨日から曲がってたか」


 曲がってはいない。ただ、そう言いたくなるだけの人間臭い不満が戻ってきていた。


 ロープの女は、広間へ入る前に自分の袖口を嗅いだ。


「なんだい、この煙くささ」


「宿だよ」


 台所の女が半ば泣き笑いで返す。


 倉庫の男は、削り屑の残った床を見るなり舌打ちした。


「誰だ、刃を出したままにしたの」


 ベルクはその小言を聞いて、胸の奥が少しだけゆるむ。

 昨夜の静けさには、こういう無駄な文句が一つもなかった。


 宿の者たちは、一瞬だけ黙った。


 ロアンはベルクへ目を向ける。


「おい、おまえ。馬具の革、持ってきてみろ」


 ベルクがはっとする。昨夜の途中のまま残してあった革ベルトを持っていく。


 ロアンは受け取りかけて、指を止めた。


「……どの馬のだ」


 ベルクの目が丸くなる。


「……栗毛のです」


「栗毛のなら、そこが先に切れる。締め方に変な癖がある」


 そう言って受け取る。針を取ろうとして、また止まる。厩舎の方へ顔を向けた。


「栗毛、鼻先は」


 ベルクが、そこでとうとう笑った。泣きそうな顔で。


「冷えてます」


「なら先に干し草を足せ。革は逃げない」


 トーラはそのやり取りを聞いていた。聞いて、それから初めて手を離した。


 ロアンが眉を寄せる。


「何だ、朝から人の腕なんか掴んで」


「別に」


「別にじゃない顔だ」


 ロアンは暖炉のそばへ行き、腰を下ろしかける。その前に、やっぱり右膝をさする。それから火を見て、少しだけ顔をしかめる。


「火、弱いな」


 トーラはそこで、ようやく言った。


「欠けてるんじゃない」


 誰に向けたともつかない声だった。


「あれで、ロアンなんだよ」


 宿の者たちは、それを聞いてまた少し黙った。昨夜の手早さを、誰も全く忘れてはいない。けれどその手早さの中へ、今朝戻ってきたこの人たちはいなかった。


 受付の男が、気まずそうに喉を鳴らす。


「……字、また汚くなるな」


 ロアンが即座に睨んだ。


「読めるだろ」


「読めます」


 返事のあとで、受付の男は少し笑った。

 読めればいい、という雑さも含めて、戻ってきた方が自分たちの宿だと、皆まだうまく言葉にできないまま分かり始めていた。


 ベルクは一瞬だけ、昨夜のロアンならもう革ベルトを縫い終えていた、と思った。

 その瞬間、トーラの視線が来た。


 ロアンは暖炉へ手をかざした。


「で、食事はあるのか」


 トーラが鼻で笑う。


「ある」


「それなら先に出せ。山の話はそのあとだ」


 少し荒くて、少し遅くて、いちいち余分がある。そういう声は、朝の宿にはちょうどよかった。


 台所の女は、返事の代わりに器を二つ多く出した。

 戻ってきた全員が、腹が減っているのかどうか、自分でも分からない顔をしていたからだ。


 受付の男は椅子へ座る前に、机の端を二度撫でた。


「なんでこんなにきれいなんだ」


「おまえが書いてたからだろ」


 ベルクが言うと、男は嫌そうに顔をしかめる。


「俺でも、ここまで気味悪くはしない」


 その言い方に、倉庫の女がうなずいた。

 自分で削ったはずの持ち手をつまみ上げ、嫌そうに眉を寄せる。


「削りすぎだ。握ると逃げる」


 ロアンが横から奪うように受け取り、ひと目だけ見て鼻を鳴らす。


「当たり前だ。木目を殺してる」


 その乱暴さに、倉庫の女の肩がかえって少し下りた。


 トーラはその様子を見ていた。

 夜のあいだ消えていたのは、速さや静けさだけではない。

 こういう細かい不満の言い合いも一緒に消えていたのだと、朝になってから分かる。


 戻ってきた者の一人が、器を持ったまま戸口へ振り返った。


「俺、どこまで行ってた」


 誰も答えられない。

 山へ入ったことは知っている。戻ってきたことも知っている。その間が、皆の頭の中で白く抜けている。


 ロアンが器の縁から顔も上げずに言う。


「戻ったなら、それで十分だ」


 荒い答えだった。

 けれど、その雑さでやっと朝が前へ進む。


 ベルクは器を配る手伝いをしながら、戻った人間の顔を一人ずつ見た。

 受付の男はまだ少し青い。倉庫の女は刃を持つ手だけが妙に慎重で、ロープの女は自分の編み目を何度も数え直している。

 完全に元通りではない。

 それでも、昨夜の揃いすぎた静けさよりずっとましだった。


 台所の女は、戻ってきた者の前へそれぞれ違う添え物を置いた。

 塩を足す者、湯を足す者、黙って器を抱える者。昨夜の誰かなら、そんな無駄はなかっただろう。

 でも朝の宿には、そういう無駄が要る。


 ロープの女が、器へ口をつける前に匂いを嗅いで言った。


「薄い」


「戻って一口目で文句言うんじゃないよ」


 台所の女が返す。


「戻ったから言うんだよ」


 その答えに、また小さく笑いが広がる。


 トーラはロアンの器へ黒胡椒をひと振り多く落とした。

 ロアンはそれに気づいて、何か言いかける。

 言いかけて、やめた。

 文句を一つ飲み込む。その小さな引っかかりまで、ちゃんとロアンだった。


 戻ってきた受付の男は、器を持ったままトーラへ聞いた。


「昨夜、俺、何か書いてたか」


「書いてた」


「変なこと、残ってるか」


 トーラは少し迷ってから答える。


「一行だけ」


「読むなよ」


 その言い方に、ベルクが吹き出した。

 受付の男も、少し遅れて笑う。

 消えている間のことは分からない。分からないままでも、読まれたくない一行があると思えるなら、もう十分に人だった。


 ベルクはその一行を読みたくなったが、同じくらい読みたくなかった。

 役に立つことばかりが並んでいたら嫌だし、逆にあまりに本物らしい文句が並んでいても、それはそれで胸に残る。

 だから結局、引き出しの方を見ない。

 見ないまま、器の中の麦をかき混ぜた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ