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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第七話 望まれた贋作を返す霊峰(6)

 最初にほどけたのは、受付の男だった。肩の線が薄くなり、羽ペンを持つ指が先に夜へ戻る。書きかけの一行だけを紙へ残して、その場から気配ごと消える。


 次に、ロープの女が消えた。編みかけのロープだけが残って、女の輪郭は吐く息みたいにほどけて消える。


 倉庫の男も同じだった。床に残ったのは、削りかけの木の持ち手だけだ。


 ロアンが最後だった。


 トーラはそこで、暖炉の前へもう一歩出た。手は伸ばさない。伸ばしたら、本当に呼んでしまいそうだった。


 ロアンは持ち手を持ったまま、こちらを見る。眉間に、昼にはなかったしわが寄る。


「……困らせるな」


 小さく言った。


 そのしわだけは、一瞬ロアンのものだった。


 トーラの目から、そこで初めて涙が落ちた。


「困ってるよ」


 吐き出すみたいに言う。


「ましになんかならなくていい。遅くていい。脚が痛くて、口が悪くて、話が長くていい。ロアンでいて」


 ロアンの目が伏せる。伏せる前に、一拍だけ遅れた。その遅れを見て、トーラは肩を震わせる。


 けれど次の瞬間、輪郭が薄くなる。


 指先から。袖口から。火の明るみに沿っていた肩の線から。


 持ち手を握る手がほどけ、削りかけの木だけが床へ落ちた。


 暖炉の向こうに、もうロアンはいない。


 残ったのは、


 書きかけの帳簿

 半分まで編んだロープ

 削りかけの持ち手

 まっすぐすぎる結び目の革ベルト


 役に立つ途中のものだけだった。


 消える前に、三つとも少しだけ乱れた。

 数字の列は最後の一文字だけ傾き、ロープは一目だけ逆へかかり、持ち手の腹には浅い削り傷がひとつ残る。

 その不揃いさが見えた時、ベルクはぞっとするより先に、少しだけ息がつけた。

 役に立たないぶんが戻ってきている。


 トーラはその場で動けなかった。暖炉の向こうの空いた場所を見たまま、涙を拭いもしない。


「……終わったのか」


 ベルクがようやく聞く。


 リュカは針を裁縫箱へ戻した。


「今夜の分はな」


 トーラが顔を上げる。


「今夜の分」


「本物はまだ向こうだ」


 三人は、そのまま火の前に残った。


 ベルクはまず入口の掛け金を確かめた。閉めるためではなく、誰かが無言でまた出ていかないようにするためだった。

 次に厩舎へ回り、戸を半開きにして馬の鼻先を見た。馬は落ち着かない。耳だけ山の方へ向けたまま、干し草を噛む音がいつもより浅い。

 広間へ戻ると、トーラはまだ暖炉の前に立っていた。


「座れよ」


 言ってから、ベルクは自分で座る場所を失くした顔になる。

 暖炉の向こうの空きだけが、人ひとりぶん、いやにきれいに残っていた。


 トーラはそこを見ないまま答える。


「立ってる」


「朝までもたないぞ」


「もつ」


 短い返事だった。

 もたせるしかない時の声だった。


 火は低く、床には途中のものだけが残っていた。帳簿の半端な一行。ほどけたロープ。削りかけの持ち手。あと三目だけ開いた革ベルト。

 ベルクが革ベルトへ手を伸ばしかけ、触れる前にやめた。

 端の固いところだけが、

 まださっきの指に寄せられた形を残している。

 それを見るのがいやで、見るのをやめきれなかった。


「拾った方がいいか」


 トーラは答えない。

 暖炉の向こうの空いた場所には、さっきまで誰かがいた形だけが残っている。片づけてしまえば、その形まで消えそうだった。


 誰も山の名を口にしなかった。

 リュカだけが、火明かりの外を見ている。夜明け前の暗さの中でも、白い肩だけは見えた。あの白さは、人を呼ぶ。


「……あの山、嫌いだ」


「俺もだよ」


 ベルクの返事は小さかった。

 トーラは上着の紐を握り、もう入口を見なかった。


 しばらくして、台所の女が鍋を温め直しに来た。

 火を足す手つきまで小さかった。誰かを起こしたくないというより、暖炉の向こうの空きを乱したくないように見えた。


「飲むかい」


 木杓子を持ったまま聞く。


 トーラは首を振る。

 ベルクは頷きかけて、やめる。

 リュカだけが薄く湯をもらった。熱いものを飲むためではない。指先を動かし続けるためだった。


 台所の女は鍋を戻す前に、床へ残った帳面とロープと持ち手を順に見た。


「片づけないのかい」


「今は」


 ベルクが答えかける。

 でもその先が出ない。

 片づければ朝が来るわけではないし、残せば戻ってくる保証もない。


 台所の女はそれ以上聞かなかった。

 代わりに古い布を一枚だけ持ってきて、革ベルトのそばへ置く。


「冷えすぎると割れる」


 それだけ言って、奥へ戻った。


 トーラはしばらくして、受付の机へ行った。

 紙を一枚引き出し、石筆を取る。何かを書きかけ、すぐ消す。また書いて、また消す。

 ベルクは遠くから見ていた。

 読まない方がいい字だと、ベルクにも分かった。


 最後に残ったのは、三行だけだった。

 昼までに戻らない荷は、次へ回す。

 帰って来られる分で行く。

 急がせない。


 トーラはその紙を折りもせず、机の引き出しへそのまま戻した。


「それで足りるか」


 ベルクが聞くと、トーラは首を振った。


「足りないよ」


 でも、と続ける。


「今夜はこれしか書けない」


 その声で、ベルクはようやく自分も同じだけ山を嫌っているのだと分かった。


 夜明け前の時間は、やけに長かった。

 戸口の下から冷えが入り、床板の節が白く乾いていく。

 火が落ちる音、馬が鼻を鳴らす音、板壁の向こうで雪が崩れる音。どれも入口へ人影を作りそうで、結局ただの音で終わる。

 ベルクはそのたび顔を上げる。

 上げて、何もないのを確認する。

 その繰り返しで肩が固まった。

 厩舎の鎖が触れるたびにも立ちかけた。

 風で戸板が鳴るたびにも、

 今度こそ足音が混じる気がした。

 違うと分かるたびに、

 座り直す動きだけが重くなる。

 トーラは一度も座らない。

 ただ、爪の先だけが持ち手の浅い傷をなぞり続ける。

 削り跡の角が少しずつ丸くなっても、

 手を止めなかった。


 リュカは一度だけ外へ出た。

 戸を細く開けて、白い肩の下り口を見る。

 夜明け前の青さの中で、山だけがまだ夜のままだった。踏み跡は見えない。雪がうっすら乗って、昨日までの人の通りを全部薄くしている。


 戸を閉める時、トーラが聞いた。


「見えた」


「まだだ」


 それだけだ。

 期待させもしないし、突き放しもしない。いまはそれでよかった。トーラも、それでいいという顔だった。


 ベルクは暖炉の脇へ座り込んだまま、ぽつりと言う。


「俺、前から思ってたんだよ」


 誰も急かさない。


「ロアンが、もう少しだけ黙っててくれたらって」


 トーラは顔を上げる。


「朝から怒鳴られるの、腹立つし。聞くこと多いし。こっちは急いでんのに、なんでそこで止めるんだって」


 ベルクは膝へ肘を置いた。


「だから、今朝みたいなの見た時、ちょっと助かったんだ」


 言ってしまってから、自分で顔をしかめる。


「助かったって思った俺が、いちばん嫌だ」


 トーラはすぐには責めなかった。

 しばらくしてから、小さく言う。


「私も、楽な朝だなって思ったよ」


 ベルクが顔を上げる。


「でも、二回目にはもう嫌だった」


 その声は、責めるより正直だった。

 ベルクはそこで初めて、少しだけ楽になる。

 自分だけが間違った方へ寄ったわけではない。皆で少しずつ望んでしまった。そのことが、ベルクにもようやく見えた。


 トーラは暖炉の前の床へしゃがみこんだ。

 誰もいなくなったはずの場所へ、掌だけをそっと置く。熱はまだ残っている。人の体温ではなく、火のそばに長くいた物のぬくもりだ。

 それでも、何も残っていないよりましだった。


「朝までに冷える」


 ベルクが言う。


「冷えていい」


 トーラは掌を離さない。


「ここにいたって分かるなら」


 ベルクは返せなかった。


 リュカはそれを見て、暖炉の薪を一本だけ足した。

 多くは要らない。火を高くしすぎると、また何かを呼びそうだった。今ほしいのは、寒さで人の気持ちが折れないぶんだけの赤さだった。


 窓の外がようやく薄み始めるころ、広間の色が少しずつ戻った。

 夜のあいだは火と影しかなかった場所へ、板壁のくすんだ茶色や、帳面の紙の黄ばみが戻ってくる。

 それでも入口の向こうはまだ白い。

 白い肩だけが、朝の色へまじらずに残っていた。


 トーラはそれを見ようとしない。

 見たら先に山の方へ足が向くと分かっているからだ。

 代わりに、床へ残った削りかけの持ち手を拾い上げる。膝へ置いて、親指で木目をなぞる。

 ロアンが戻ったら、最初にこれを見せるつもりなのか、それとも逆に見せたくないのか、自分でも決めていない顔だった。

 持ち手の腹には、最後の一刃だけ浅く残っている。

 ロアンならここで一度木屑を払って、

 握る人の親指が当たる方を確かめる。

 トーラはその止まり方を知っている顔で、

 そこばかり撫でた。


「それ、渡すのか」


 ベルクが聞く。


 トーラは少し考えてから答える。


「向こうで握ってたから」


「それだけで」


「それだけで」


 短い言葉だった。

 でも、それで待てた。


 ベルクは火を見たまま、

 朝いちばんに何を言うつもりなのか考えた。

 悪かった、か。

 戻ったな、か。

 どちらも違う気がして、

 まだ決められないまま朝が薄くなる。


 三人は朝を待った。


 最初に気づいたのは、厩舎の馬だった。鼻を鳴らし、耳を山へ向ける。


「……来る」


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