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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第七話 望まれた贋作を返す霊峰(5)

 リュカは裁縫箱へ手を伸ばした。布袋の口を直すための、太めの針が一本ある。糸は通さないまま抜き取り、火のそばへ持ってくる。


 ベルクが眉をひそめた。


「……何する気だ」


 リュカは答えず、暖炉の縁へ膝をついた。


「トーラ」


 返事はない。


「ロアンが飛ばさないところを言え」


 トーラが振り向く。意味がわからない顔だった。


「飛ばさないところ?」


「順番でも、癖でもいい。あいつが、いつも先にすることだ」


 トーラは暖炉の向こうのロアンを見る。見て、すぐには口を開けない。言葉にするのが嫌なのだ。でももう、引かないわけにはいかない夜だった。


「……どの馬のか、先に聞く」


 リュカの針先が、火の手前を横切った。


 火は変わらない。ただ、床へ落ちた影の縁が、ほんの少しだけ縮む。


 ロアンの手が止まった。


「どの馬のだ」


 ベルクの肩がぴくりと跳ねる。


「く、栗毛の」


 そこでロアンは黙った。黙り方がまだ違う。けれど暖炉のそばに座るロアンの手が少しだけ迷い、その迷いが残っていること自体が、夜のあいだ初めてのことだった。


 ロープを編んでいた女の手が、そこで一度だけ逆へ回った。編み目がほどける。

 受付の奥でも、羽ペンの先が一度だけ紙を外れた。まっすぐだった数字の列に、小さな滲みがひとつ落ちる。


「もう一つ」


 リュカが言う。


 トーラの喉が鳴る。


「……座る前に、右膝に触る」


 針の影が、暖炉の縁をまたいだ。受付の明かりの下にいた男の羽ペンが止まり、倉庫の作業灯の下で削り屑が一枚、変な角度で落ちた。


 ロアンの左手が、遅れて右膝へ落ちる。置き方がぎこちない。それでも、そのぎこちなさの方がさっきまでより人に近い。


 ベルクが、そこで初めて口を挟んだ。


「……革を持つ前に、一回、爪で端をしごく」


 自分でも驚いたような声だった。

 いつも怒鳴られている側でも、覚えている癖はある。


 リュカはそちらを見ず、針先だけをわずかに返した。

 ロアンの親指が、革の切れ目を探るみたいに一度だけ動く。

 その動きに合わせて、倉庫の女の刃も半拍遅れた。


「もう一つ」


 トーラは一歩だけ暖炉へ寄った。


「怒る前に、咳払いをする」


 台所の女も、そこでようやく声を出した。


「帳面の男は、書く前に指を拭くよ」


 皆がそちらを見る。

 台所の女は少し怯んだが、それでも続ける。


「いつも袖で拭いてからじゃないと、紙を汚すって怒るから」


 受付の男の手が、羽ペンを落としたあとで、空を拭うみたいに一度だけ袖へ寄った。


 ベルクが息を呑む。

 戻ってくるのはロアンだけではないのだと、その時ようやく腹に落ちた。


 倉庫の女も、そこで削りかけの柄を持ち直した。

 いつもなら刃を返す前に、木目へ爪を立てて向きを確かめる。そうしないと割れる、と昼間ベルクが聞いたことがある。

 今、その爪が一度だけ柄の腹を撫でた。

 小さすぎる仕草だ。けれど、その一度で人は戻った。


 トーラはそれを見て、泣きそうな顔のまま息を吸う。

 奪われていたのは、役に立たないところではない。

 役に立つ前に、その人でいるための小さな手つきだった。


 その瞬間だった。


 暖炉のそばのロアンの喉が、何もないのに一度だけ鳴った。小さな、乾いた咳払いだった。


 ベルクが思わず一歩下がる。受付の男はそこで羽ペンを落とした。ロープの女は、編みかけのロープを見下ろしたまま動かない。


 トーラの顔がぐしゃりと歪む。


「……それだよ」


 ほとんど声になっていない。


「それなのに、違う」


 リュカはようやく針先を火の真正面へ差し入れた。


 糸はない。

 かわりに針先の前で、火の端が細く逃げた。

 炎は揺れていないのに、床の影だけが半拍遅れる。

 暖炉の赤。

 受付の灯。

 倉庫の作業灯。

 三つの明かりの影が、同じ方へわずかに引かれていた。


 トーラの言葉だけではない。

 ベルクの手。

 台所の女の声。

 床に落ちた木屑。

 そのたび、影の端が針先へ少し寄った。


 どの馬のかを聞く。

 座る前に膝へ触る。

 怒る前に咳払いをする。

 書く前に指を拭く。

 木目へ爪を立てる。


 手数にもならない寄り道だけが、手元から抜け落ちていた。


 火の前にいた四人は、その止まり方だけを失っていた。

 だから早く、だから違う。


 リュカは針を持つ指へ力を集めた。

 拾うのは、手が止まる前に逃げる影だけでいい。

 火は消さなくていい。

 明かりも、夜も、宿に残す。


 ベルクは息を殺して見ていたし、トーラは泣く前の顔のまま立っていた。

 台所の女は鍋つかみを握りしめたまま、いつ手放したらいいか分からない顔をしていた。

 誰も動かない。ここで誰かが余計に動くと、その動きまで向こうへ持っていかれそうだった。

 ベルクは拳を開いたり閉じたりした。

 自分の息まで急げば、その急ぎも火の向こうへ真似されそうだった。


 広間の音が一つずつ遅れた。

 鍋の底の鳴り。火の芯がはぜる音。誰かの喉が鳴りかけて止まる気配。

 音は鳴ってから、火の前でいったん止まる。

 止まって、遅れて、こちらへ届く。

 リュカはその止まったところへ、針先を入れた。


 針先で影の端を押さえ、指先で引く。


 火の端が細くよじれ、赤い芯が針先へ寄る。

 火の向こうで、四人の手だけが先へ出ようとする。

 人なら途中でこぼすはずのため息も、迷いも、いら立ちも落ちない。

 文句も、気まずさも、遅れる足音もない。

 それがいちばん宿らしくなかった。


 リュカは火の端へ、針先を斜めに入れた。

 縫うのではなく、ほどける方向を探る。

 きつく引けば火ごと消える。

 弱ければ、あの早い手だけが残る。

 火は残す。

 明かりも残す。

 手だけ先へ行く癖を外す。


 針先の角度が決まった瞬間、トーラの肩からほんの少しだけ力が抜けた。

 暖炉の前で、ロアンの指が一拍だけ遅れる。

 爪が革の端を探し、喉の奥で咳払いが戻る。


 かち、と小さな音がした。


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