第七話 望まれた贋作を返す霊峰(4)
「昼はまだまし」
トーラが言った。
「灯がつくと、もっと揃う」
リュカは暖炉ではなく、倉庫の作業灯を見た。
「灯を一つ落とせ」
ベルクが急いでランプの芯をつまんだ。
倉庫の影は薄くなる。だが削っていた男は止まらない。手元の持ち手を抱え、暖炉の明るみへ半歩寄った。
受付の男も、紙を抱えて明かりの濃い方へ移る。ロープの女は火に背を向けても、指だけは同じ速さで動いた。
「火を消せば」
トーラが言いかける。
「凍えるだけだ」
リュカは短く返した。
人も馬も、冬の入口の山道で火なしに朝までは持たない。
ベルクはランプの芯から手を離せずにいた。消せば暗い。消さなければ、あれが働く。
台所の女が、鍋つかみを外しながら言う。
「名前を呼んだら」
ベルクが振り向く。
「何て」
「誰の仕事か、本人の手元へ戻すみたいに」
ベルクはすぐ受付の男へ向き直った。
「おい、ハルト。もう帳面はいい。寝ろ」
男は筆を止めない。
ベルクはもう一歩寄る。
「昨日おまえ、自分でインクこぼしただろ。覚えてるか」
返事はない。
ただ、行の頭を揃えて書き直す手だけが続く。
倉庫の方でも、台所の女が名を呼んだ。
「エッダ、柄は朝でいい」
削っていた女は顔を上げず、刃を返す。
自分の名に、自分の顔がついていないみたいだった。
トーラは受付の机から木札を三枚取り、石筆で書いた。
帳面 朝
ロープ 朝
持ち手 朝
その札を、それぞれの膝元へ置く。
「今じゃない」
言いながら置く。言い聞かせたい相手が、人なのか自分なのか、少し曖昧な声だった。
暖炉の女は札を一度見た。
見て、膝の横へ丁寧に避ける。
それだけで、またロープを編み始めた。
「読めてるのに」
ベルクが呻く。
トーラは三枚の札を拾い直した。
袖で文字をこすり、今度は仕事ではなく名を書いた。
ハルト。
エッダ。
ロアン。
ベルクも黙って手伝い、
それぞれの手元へ戻していく。
「仕事じゃなくて、本人の方」
トーラは小さく言った。
だが札はまた避けられた。
名前は読まれている。
読まれているのに、手はその名前へ戻らない。
リュカは壁際で、それを見ていた。
火が人を照らしているのではない。火明かりの中だけ、何かが形を保っている。揺れるたび、影が少し遅れてついてくる。白い息も、出るはずの口からほとんど上がらない。
明かりの下にあるのは、迷いだけ抜け落ちた人の形だ。
ベルクは衝立をもう半歩寄せた。暖炉の前の明るみが狭くなる。
すると帳面の男が椅子ごと受付の灯へ寄り、倉庫の女が削り屑を抱えたまま暖炉へ近づく。
灯の濃いところへ集まるのではない。仕事がいちばんうまく見える明るさを嗅ぎ分けている。
トーラはその動きを追いながら、低く言った。
「皆、こうやって慣れていった」
ベルクが顔を上げる。
「何に」
「夜の方へ」
その言い方が、広間の空気をさらに冷やした。
ベルクは受付の扉を開け、外気を入れた。
夜気が床を這い、暖炉の火が一度だけ身をすくめる。普通なら、誰かが肩をすぼめ、誰かが戸を閉めろと文句を言う。
今いる四人は、誰も何も言わない。
「寒くしてもだめか」
ベルクの声には、半ば祈りみたいなものが混じっていた。
台所の女が、客用の毛布を抱えて寝台の方へ引いた。
「じゃあ、寝る場所を先に作る」
暖炉のそばにいる影たちが、そこへ寄るなら人に近い。そんな望み方だった。
だが受付の男は毛布にも寝台にも目を向けない。帳面の角を指で揃え、椅子の脚を半歩だけ引いただけで、また数字へ戻る。
トーラはロープの女の前へしゃがみこんだ。
「エッダ」
返事はない。
「三目ごとに引っ張るでしょ」
女の指は動く。
引っ張らない。均一な力で編み続ける。
「ほら」
トーラの声が少し割れた。
「そこ、いつもなら一回きつくする」
それでも、手は止まらない。
ベルクは足元の削り屑を、手の甲でわざと払った。
膝のまわりが空けば、少しは人に戻る。ベルクはそう思いたかった。
だが倉庫の女は散った屑を追わない。
代わりに床へ落ちた長い木片を拾い、
火口へ入る長さに折り始めた。
空いた手を、空いたままにしない。
そのことが、ベルクにはたまらなく嫌だった。
ベルクは倉庫の女の刃を取り上げようとして、途中でやめた。刃をなくせば別の役に立つものを探すだけだと、さっき見たばかりだった。
「どうしろってんだよ」
誰にともなく出た声だった。
ベルクはロアンの膝の持ち手を見た。
それから革ベルトを見て、帳面を見て、ロープを見た。
仕事の名前も、人の名前も通らない。
けれどトーラがさっき言った三目ごとの引きだけは、
まだ部屋のどこかに残っていた。
リュカは暖炉の縁へ視線を落としたまま言う。
「仕事の順じゃない。本人の順が消えてる」
ベルクはその言葉を、すぐには理解できなかった。
だが分からないままでも、嫌な意味だけは分かる。
宿の仕事が速くなるほど、その人であるための寄り道が落ちていく。
トーラは暖炉の灰かきを取り、火床をわざと少し崩した。
火が一瞬だけ鈍り、部屋の影が深くなる。
暖炉の前の女は、そこで初めて手を止めた。
「ほら」
ベルクが息を詰める。
だが女は立ち上がると、勝手に火床の木を組み直し始めた。誰に頼まれたわけでもない。火を長く持たせる並べ方を、迷いなく選ぶ。
受付の男も同じだった。暗くなった帳面を持って、暖炉の女の背へ回り込み、火の向きを借りて続きを書こうとする。
「手が空いてる方が埋めるのか」
ベルクの声には、吐き気みたいなものが混じっていた。
「そうやって、宿が自分で回り始める」
トーラは答える。
「人じゃなくても回る方へ」
ベルクはたまらず暖炉の前へ出た。ロアンの膝の上の持ち手へ手を伸ばす。
「もういい。朝でいいだろ」
だがロアンは顔も上げず、持ち手だけを明るい方へ半歩寄せた。
ベルクの手は空を切る。いつものロアンなら、ここでひとこと飛ぶ。今はそれもない。
怒鳴らないくせに、手だけが仕事の方へ逃げる。
その静けさの方が、ベルクにはよほど本物から遠く見えた。
「ロアン」
ベルクがもう一度呼ぶ。
返事はない。呼ばれた名だけが、そこで冷えた。
トーラは上着を取った。
ベルクがぎょっとする。
「どこ行く」
「山」
短い。
「待てよ」
「待てない」
入口へ向かう。火明かりの向こうに、本物のロアンはどこにもいない。それなら、向こうへ行くしかない。
トーラの指が戸の掛け金へかかった。冷えた鉄が、かすかに鳴る。
ベルクも二歩追い、戸の前へ腕を出した。
「今、おまえまで向こうへ行ったら」
そこで言葉が止まる。
誰が戻ってきて、誰が戻ってこないのか、ベルク自身まだ口にできない。
「どけ」
トーラは言った。
ベルクは腕を下ろせずにいた。
「俺だって、あれがロアンじゃないのは分かる」
やっと出たのは、そんな言葉だった。
「でも今、おまえまで向こうに取られたら、朝に戻ってくる顔をどこで待つんだよ」
トーラは答えなかった。
答えないまま、掛け金へかけた指だけが強くなる。
リュカがそこで初めて声を出した。
「今行くな」
トーラが振り向く。
「じゃあ見てろって?」
「戻ってくるのが、おまえじゃなくなる」
入口のところで、トーラの足が止まる。
掛け金の冷たさが、指へじわりと移る。
いま戸を開ければ、
夜気より先に向こうの理屈が入ってきそうだった。
トーラはその光景を見たまま、低く言った。
「……あんなの、ロアンじゃない」
その一言だけは、説明ではなく、傷の音だった。




