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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第七話 望まれた贋作を返す霊峰(3)

「ロアンは、そんなふうにうまくならない」


 ベルクが顔をしかめる。


「うまくなって何が悪い」


「悪いって言ってない」


 トーラは短く返した。


「あれは、ロアンじゃないって言ってる」


 ロアンはそこで初めて顔を上げた。返事が早い。それだけで、また違う。


「おまえは、まだそう言うか」


 声までやさしい。


 トーラの肩が強ばる。


「そう言う」


 暖炉の火が、一度だけ揺れた。


 受付の明かりの下にいた男が顔を上げる。倉庫の作業灯のそばの女も、同じ瞬間に手を止めた。誰かが合図したわけではない。ただ火が揺れただけだ。


 ベルクがそれを見て、少しだけ口を閉じる。


 リュカは暖炉の向こうから、そのやり取りを見ていた。トーラが掴んでいるのは証拠ではない。いつもなら落ちるはずの、余計な一拍だ。


 紙のにじみを見逃した指。火が揺れた時だけそろう視線。革へ入る前に、何も聞かなかった針。

 どれも収まりがよすぎる。火の中で見ると、その分だけ人の輪郭が薄い。


 リュカはそこでようやく、トーラの言っていることを信じた。


 ただ、信じたからといって、すぐ魔法へ飛ぶつもりはなかった。

 宿にはまだ人の手で試せることが残っている。

 夜が灯に寄るなら、まず灯の置き方を変えるべきだし、仕事が火のそばへ集まるなら、仕事そのものを火から遠ざけてみるべきだ。


「半端な仕事を、いったん全部火から離せ」


 リュカが言うと、ベルクがすぐ動いた。

 暖炉の脇に積まれていた繕い待ちの革、切れたロープ、削りかけの持ち手を、入口近くの冷えた棚へ移す。台所の女も鍋敷きの山を持ち上げ、作業灯の届かない隅へ片づけた。


「これでどうだ」


 ベルクが息を切らして振り向く。

 その間にも、暖炉の前の女は空になった膝へ視線を落としただけで立ち上がらない。

 受付の男は、脇の帳簿がなくなると、古い帳面の余白を探して数字を書き始める。倉庫の男は削る物がなくなると、刃の角度だけを整え始めた。


 役に立つことなら、何でもいい。

 そういう手つきだった。


 トーラが台所の女へ言う。


「火のそば、閉めよう」


 台所の女は頷き、暖炉の前へ低い衝立を引いた。冬場に客の熱を逃がさないための古い板だ。火の真正面を半分だけ隠す。

 暖炉の女はそこで初めて立ち上がった。

 だが止まらない。衝立の脇へ回り、見えている分だけの火を拾って、また膝を折った。


「だめだ」


 ベルクの声が乾く。


 リュカは受付の明かりの下へ行った。帳面の上へ手をかざし、紙を二束に分ける。古い控えと今夜使う控えを離して、今夜の方だけを引き出しへしまった。

 男は引き出しの前で一度止まり、次に古い控えの方を引き寄せて書き始める。

 止まるのは一瞬だけだ。


 人間が迷う時の止まり方ではない。

 次に役に立つものを探しているだけだった。


 日が落ちると、宿は一度だけ普通の音を立てた。


 水入れが鳴る。

 鍋の蓋がずれる。

 厩舎で蹄が板を打つ。

 受付で紙の端がめくれる。


 昼の仕事が夜へ移る、その切り替わりの音だ。

 この宿の夜は、本来そこから少しずつゆるんでいく。

 火が入れば手が緩み、誰かが腰を下ろし、誰かがつまらない話を始める。

 明かりのそばとは、そういう場所だった。


 今夜は、その「つまらない話」が立ち上がらない。

 台所の女が一度だけ「昼の御者、また値切ったよ」と言いかけたが、暖炉の前の女は顔も上げない。受付の男も、笑うでも呆れるでもなく、ただ紙の端へ視線を落とす。

 笑いの受け皿が消えるだけで、広間の空気はこんなに冷えるのかとベルクは思う。


 普段なら、ここでロアンが「値切らせたのはおまえの秤だ」とか「御者よりおまえの声の方が高い」とか、余計な一言を挟むのだろう。

 その余計さがないと、話そのものが床へ落ちる。

 役に立たないやり取りは、役に立たないまま広間を温めていたのだと、その時になって初めて分かった。


 ベルクはその「ゆるむ前」を必死につなぎ止めようとした。

 濡れた外套を先に外へ干し、寝台の藁を叩き、火の前にあった椅子を二脚ほど客室の方へ引く。

 仕事を終えた身体が、そのまま休む流れへ押し込みたいのだ。


「もう終いだ」


 誰へともなく言う。


「ロープは朝。帳面も朝。柄も朝」


 言いながら、自分の声が空振りしているのが分かる。

 普通なら、こういう時に誰かが「そうだな」と返し、誰かが文句を言いながらも椅子へ沈む。今夜は返事がない。


 返事の代わりに、暖炉の火がもう少しだけ落ち着く。

 その落ち着き方が、かえって悪かった。

 人の眠気ではなく、仕事の続きが座り込んだみたいな静けさだった。


 最初に暖炉へ寄ってきたのは、昼にロープを編んでいた女だった。


 誰にも呼ばれていない。

 それでも、火が落ち着くのを待っていたみたいな足どりで、暖炉の前へ膝を折る。

 座る前に裾も払わない。

 寒さを確かめる手もない。

 足元の切れたロープを拾い、そのまま編み始める。


 明かりの下の手つきに、迷いがない。ロープを編むのが早すぎる。速いのに、急いでいるようには見えない。


 受付の明かりの下にも、別の男が来た。

 古い帳簿を開き、脇へ新しい紙を置く。

 数字を写す。羽ペンを上げる。尖った先にインクを足す。また写す。

 肩が動かない。首も鳴らない。

 人が字を書く時の、小さな迷いが一つもない。


 倉庫の作業灯の下にも、影が一つ立った。割れた柄を膝へ当て、削る。削り屑が同じ幅で落ちる。刃が止まらない。


 ベルクは、厩舎の見回りを終えたばかりの若い使いへ声をかけた。


「今夜はもういい。寝台へ行け」


 使いは怪訝そうな顔をしたが、トーラの顔を見て黙って頷く。広間を抜け、客室脇の寝台へ消えていく。

 その後ろ姿を、暖炉の女も受付の男も見送らない。

 人が一人減ったことに、何の引っかかりも持たない。


 トーラはそれを見て、余計に唇をかみしめた。


 ベルクは荷造り用のロープを抱えたまま、暖炉のそばへ来るでもなく、その三つの明かりの真ん中へ立ち尽くした。


「……もう始まってる」


 トーラが言う。


 火のそばにいるのに、誰も少しも緩まない。あくびをしない。座る場所を探さない。無駄話をしない。火に当たるより先に、役に立つことを始める。


 ロアンも同じだった。


 暖炉の前に座る。座る前に右膝へ手を置かない。火の具合も見ない。腰を下ろすと、すぐ次の破れ物を膝へ取る。


 ベルクがたまりかねて聞く。


「ロアン、寝ないんですか」


 ロアンは顔を上げる。返事が早い。


「まだ手が空いている」


 ただ、それだけ。


 ベルクはそれを聞いて、抱えていたロープを握り直した。火のまわりの静けさが、やっと腹に落ちた。


 台所の女が、鍋の横で小声を出す。


「これ、前にも二晩あったんだよ」


 リュカがそちらを見る。


「毎回同じか」


「少しずつ違う。でも、灯の下にいるやつが、皆よく働く。朝になると、山から戻った本物の方が、前より遅く見える」


「前より、じゃない」


 トーラが訂正する。


「戻った方が、前からそうなんだよ」


 鍋の蓋が、ふつ、と鳴った。

 その音にも、暖炉の前の女は目を上げない。

 いま必要なのは鍋ではなく、自分の膝の上のロープなのだと決めている手つきだった。


 火が一度、細くなった。


 風が通っただけだ。けれど、その瞬間。


 台所の女。

 受付の男。

 倉庫の男。

 ロアン。


 四人が、ほとんど同じ拍で顔を上げた。


 誰かが声をかけたわけではない。床が鳴ったわけでもない。ただ火が揺れただけだ。


 ベルクの腕からロープが半分落ちる。


 その落ちた音で、ようやく台所の女がこちらを見る。驚いてはいない。何を拾うべきかを待っていた。


「……気味悪い」


 今度は最後まで言えた。


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