第七話 望まれた贋作を返す霊峰(2)
小さい声だった。それでも水差しを抱えた女の手は止まった。
「何がだい」
トーラはロアンを見たまま言う。
「あれはロアンじゃない」
場がしんとした。
ベルクが笑いかけて、途中でやめる。冗談だと決めつけるには、トーラの顔が固すぎた。
「またそれかよ」
ベルクは苦笑した。
「ロアンだろ。脚だって前より動くし、手も早いし、怒鳴らない。前よりましじゃないか」
トーラはベルクを見た。疲れた目だった。
「今の言い方、宿の都合ばっかりだ」
ベルクは手元の革紐を見た。
朝なら三度は結び直す留め具が、今日は一度で棚へ戻っている。
「だって……馬具が一度で済んだ。帳面も止まらなかった」
言いながら、自分でも気づく。
見ていたのはロアンではなく、棚へ戻った物の早さだった。
トーラはそれを見ていた。
「分かってるよ。皆、助かってる」
低く言う。その声が責めているのはベルクではない。宿全体だった。
ベルクは黙らずに済まなかった。
言い返せば言い返すほど、自分が何を楽だと思っているか見えてしまう。
それでも、楽だったのは本当だ。
「今朝だって、客を二組通して、馬を三頭出した」
ベルクは受付の机を指した。
乾ききっていない紙が、いつもならロアンの文句で止まる場所にある。
「前なら、ここで怒られる。栗毛に余分を食わせるかでも止まる。朝はいつも、そうやって細かく引っかかってた」
「引っかかってたんじゃない」
トーラはすぐ返した。
「見てたんだよ」
「同じだろ」
「違う」
トーラは台所の方を顎で示す。
「鍋の蓋がずれてたら、先に言う。
馬が汗をひききってなかったら、先に触る。使いが紙を持つ手を震わせてたら、字の前にそっちを見る。あの人の遅さは、そういう遅さだった」
ベルクは口を開きかけて、閉じた。
心当たりがある顔だった。
ロアンはそのやり取りを黙って聞いていた。ベルクを庇うでも、トーラを叱るでもない。どちらにも寄らない静けさが、一番気味が悪かった。
トーラは、老人の右脚を見た。歩き始めだけ少し遅れるはずの脚だ。今はただ、静かに軽い。その軽さが、うれしくない。
前の冬、ベルクが荷を急がせた日もそうだった。ロアンは皆より一拍遅れて入口に立ち、その遅れの中で、荷車の陰にいた使いの震える手を見つけた。
荷札より先に、人を見る間があった。
その日、ベルクは荷札しか見ていなかった。
雪が深くなる前に出したい荷が二つあったし、御者は片方だけ先に通せと怒鳴っていた。ロアンが遅いのだと本気で思っていた。
ところがロアンは、入口の柱の影にいた使いの手を取って、荷札より先に火のそばへ座らせた。
濡れた手袋の中で指が白くなっていた。
あと少し気づくのが遅ければ、荷は出ても、その使いの手は朝まで使いものにならなかった。
ベルクはその場面を思い出して、舌の根が少し重くなる。
ベルクが切れかけた革ベルトを持ってきた。馬具の留め具だ。雪の湿り気を吸って、端が毛羽立っている。
「ロアン、これ」
ロアンは受付の机の脇で帳簿を閉じ、革ベルトを受け取った。受け取るなり暖炉のそばへ寄り、膝へ置く。針を取る手つきに迷いがない。
トーラがそこで言った。
「待って」
ロアンの手が止まる。
「何だ」
「……どの馬のか、聞かないの」
ベルクがきょとんとした。
「え?」
トーラはベルクを見ない。ロアンだけを見ている。
「ロアンは、いつも先に聞く」
ロアンは革ベルトを持ったまま、少しだけ首を傾けた。
「見ればわかる」
静かな声だった。
トーラの眉がぴくりと動く。
「わかってても聞く」
「同じことだ」
「同じじゃない」
暖炉のそばがしんとする。外で馬が鼻を鳴らした。ベルクが困ったように笑う。
「トーラ、そこまで言わなくても。早い方が助かるだろ」
トーラはやっとベルクを見た。
「早いのが嫌なんじゃない」
それから、またロアンへ向き直る。
「黒い荷馬のか、栗毛の横腹のか、ロアンはいつも先に聞く。見れば分かる時でも聞く。あの人は、馬の癖を先に思い出してからじゃないと針を入れない」
台所の女が、小さく息を吐いた。
「そう言われると、確かにそうだね」
誰へともなく言う。
「鍋でも同じだったよ。焦げてる匂いがしても、あの人はすぐ蓋を開けない。誰が火を見てた、誰が水を足した、そこを先に聞いてくる。こっちは文句だと思ってたけど」
「文句だよ」
トーラは即座に返す。
「でも、文句の前に、人の手順を見てた」
ベルクが革ベルトへ視線を落とす。
いま膝の上にあるそれは、持ち主の馬も、締める人間の癖も問われないまま、ただ早く直されようとしていた。
ロアンは何も言わない。言わないまま、針を持ち直す。
針先が革へ向かう。鼻で笑う音も、「おまえは結びが雑だ」も来ない。
その順番が抜けたところで、トーラの肩が冷えた。
厩舎の方から、さっきの若い使いがまた顔を出した。
干し草の束はなく、今度は手袋を片方だけ持っている。誰の落とし物か迷っている顔だ。
「ロアンさん、これ」
そこで言葉が止まる。
いつもなら、誰のだ、どこで拾った、濡れてないか、そこまで聞き返される。
今のロアンは顔を上げるだけだった。
「干し場へ」
若い使いは頷いて去る。
それで正しいのかどうか、自分でも分からない歩き方だった。
トーラはその背を見て、低く言う。
「あれもそうだよ」
ベルクが眉を寄せる。
「何が」
「前なら、誰の手袋か先に聞く。濡れ方を見て、戻る先まで決める」
「そこまでしなくても回るだろ」
「回るよ」
トーラは認める。
「でも、それで見落とされるものがある」
ベルクは手袋を見た。
指先だけ濡れている。落としたのではなく、誰かが水桶のふちを握った跡だった。
「……干し場だけじゃ、足りないか」
「足りない」
トーラはきっぱり返す。
「減らせる荷は減らせばいい。置き場が悪いなら直せばいい。でも、人の癖まで削ってよくなったみたいな顔で戻ってきたら、私は嫌だ」
その言い方で、台所の女ももう笑わなかった。
嫌だ、という言葉の単純さが、かえって本気だった。
受付の奥で、紙を持った使いの男が小さく言う。
「でも、俺は今朝助かった」
誰も笑わないので、男は続きを出す。
「間違えた欄を、怒られずに直せたから」
トーラはそちらを見る。
「怒られたくないのは分かる」
静かな言い方だった。
「でも、怒られないまま違う欄へ書いてたら、あんたが次に困る」
男は紙を見下ろした。
そこには、今朝ロアンがまっすぐすぎる字で直した行がある。
読みやすい。だが、その読みやすさのせいで、自分がどこで迷ったのかまで消えていた。
「……ましになったじゃないか」
トーラは首を振った。
「違う」




