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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第七話 望まれた贋作を返す霊峰(1)

 結論から言う。

 白い肩から戻った者の手は、たいてい早い。

 文句も迷いも、荷を見る前の一拍も、雪の向こうへ置いてくる。


 グレイリッジの宿へ着いた時、リュカは最初に雪ではなく、薪の積み方を見た。


 冬の入口だった。

 下の道には、まだ土が見えていた。踏むと乾いた音がするし、轍の底にも黒い地面がのぞく。けれど奥の高い峰だけは、もう白くなっていた。

 旅人の地図では、そこだけ霊峰の印がつく。

 宿の者はその斜面を、白い肩と呼ぶ。晴れた日でもそこだけ雪が残る。遠くから見ると、誰かが荷を下ろし、背中を丸めて待っているように見えた。


 麓には、もう使わない夏道が一本ある。

 雪のない季節なら近い。荷車も、人も、そちらを通る方が早い。だが初冬になると、昼にぬかるみ、夜に薄く凍る。踏み跡だけが残って、いちばん足を取る道になる。

 それでも毎年、何人かはまだ捨てきれずにそちらへ入る。

 近いはずだった道を、遠回りより遅く帰る。

 この辺りでは、季節の変わり目に古い手順へしがみつくと、荷より先に脚がだめになると言われていた。


 風は冷たい。だが旅人を引き返させるほどではない。歩ける季節だし、荷も通る。だからこそ、その宿の静けさが妙だった。


 リュカの腹も、そこで小さく鳴った。

 朝に干し肉をひと切れ噛んだきりだった。宿に着いたら食事と寝床を借り、その礼に荷運びの手伝いでもするつもりでいた。

 だが入口へ着く前から、この宿はもう、礼だけで済む場所ではなくなっていた。


 戸口へ立っても、すぐに声はかからなかった。

 リュカが木戸を二度叩くと、受付の机の脇にいた娘がようやく顔だけ向ける。


「泊まりか」


「ああ。一晩と、食事を頼みたい」


「部屋は空いてる。食事はあとだ」


 娘の目は、言い終わる前にもう老人の脚へ戻っていた。


「礼は」


「水でも薪でも運ぶ」


「じゃあ先に入って」


 娘は入口脇の木箱を顎で示した。


「それを一本、中へ。終わったら鍋を開ける」


 木箱は見た目より重かった。

 乾燥させた豆と塩袋がきっちり詰まっている。

 持ち上げた時の揺れがほとんどなく、肩へ乗る重みも片側へ寄らない。詰めた人間が、運ぶ人間の腰の位置まで考えたのだとすぐ分かる。


 リュカは箱を抱えて中へ入った。

 土間と板敷きの境に泥はなく、濡れた靴の跡も浅い。客の外套を掛ける木釘には番号札が下がり、濡れたものと乾いたものが火からの距離ごとに分けられていた。

 壁際の長椅子には、繕い待ちの手袋が三組だけ置かれている。左右も、大きさも、持ち主の癖が消えたみたいに揃っていた。


 鍋の匂いはした。

 麦と乾燥肉、玉ねぎを煮た匂いだ。

 そこへ湿った革と馬の汗が薄く重なる。宿としては普通の匂いなのに、その匂いの中へ入っても、人が少し気を抜いたあとの熱が残っていない。


 箱を置く場所は言われなくても見えた。

 入口から三歩の壁際、同じ大きさの木箱が二つだけ並んでいる。空いた一つぶんへ差し込むと、最初からそこにあったみたいに収まった。

 便利だな、と一瞬だけ思う。

 その思い方まで、この宿に似合いすぎているのが嫌だった。


 ちょうどその時、外からもう一人、御者らしい男が入ってきた。肩へ雪を少しだけ乗せ、片手に手綱、もう片方に小さな油紙包みを持っている。


「部屋、空くか」


 トーラが即座に答える。


「二つある」


「馬は」


「奥の柵」


 早い返事だ。だが御者はそこで足を止めた。


「奥のどっちだ」


 トーラの視線が一瞬だけ泳ぐ。

 いつもなら、こういう細いところは別の誰かが口を挟むのだろう。


 ロアンが振り向いた。


「栗毛なら左。脚をかばう方だろ」


 御者は目を上げる。


「見たのか」


「見えた」


 それだけで済む。

 御者は礼も言わずに頷き、今度は迷わず奥へ入っていく。


 リュカはその背を見た。

 案内は的確だ。だが案内の前に、一度も人の顔色を見なかった。

 疲れているか、腹が減っているか、今すぐ火のそばへ座らせるべきか。この宿の整い方は、そういう寄り道のなさでできていた。


 入口の脇の薪が、長さごとに揃いすぎている。

 荷置き場のロープは、よりの向きまできれいに並んでいる。

 厩舎の水入れは口をそろえて伏せてあり、受付の机の紙は一枚も斜めにずれていない。


 人が暮らしている宿は、たいていどこかが少し乱れる。

 誰かが急いで置いた木の器が一つ、階段の途中にひっくり返っていたり、濡れた手で持ったせいで帳簿の端に指跡がついていたりする。

 そういう小さな乱れがあるものだ。

 この宿には、それがなかった。


 人がちゃんと働いたあとの整い方ではなく、人の癖まで削って整えたみたいな景色だった。


 入口の脇では、若い男が一人しゃがみこんでいた。

 箱の角へロープを掛け直している。

 肩は広いが、指にはまだ若さが残っている。

 結び目を締めるたび、箱もロープもほとんど音を立てない。

 手つきが妙に良い。


「ベルク、そこは二重にしとけ」


 低い声が飛ぶ。


 リュカはその声の方を見た。


 老人だった。

 背は高くない。右脚だけ、わずかに外へ逃がすように立っている。だが動きは軽かった。受付の机の脇を回る足も、暖炉のそばへ寄る手も、年寄りにしては静かすぎる。


「はい」


 ベルクが答える。


「二重にして、結び目は内へ」


「そうだ」


 老人はそれだけ言って、箱の横へ回った。

 ロープのたるみを指で確かめ、箱の角をひと目見る。

 もう直すところがないとわかると、次の木箱へ移る。

 迷いがない。

 怒鳴りもしない。

 ためらいもしない。


 その様子を、受付の机の脇から睨むように見ている娘がいた。トーラだった。


 年は二十を少し越えたくらいだろう。

 上着の前をきちんと留めているが、きちんとしすぎて似合っていない。

 もともとはもっと大股で歩き、もっと荒く袖をまくる性分なのかもしれなかった。

 今は両手を組み、客へ向けた視線もすぐ外し、その老人の足ばかり見ていた。


 宿の奥から、年配の女が水差しを抱えて出てきた。老人を見るなり、ほっとしたような顔になる。


「ロアン、今日はほんとによく動くね」


 老人――ロアンは、女へ向いて軽くうなずいた。


「手が空いてるだけだ」


「空いてるだけで、そんなに片づくもの? 山が効いたんだね」


 女はそう言って笑う。ベルクも振り向いた。


「ほんとですよ。朝から一度も怒鳴ってません」


「怒鳴らなくていいなら怒鳴らない」


 ロアンは穏やかに答えた。その穏やかさに、周りの者は皆ほっとしたらしかった。空気が少しゆるむ。


 台所の棚の方では、包丁の持ち手の向きまできれいに揃っていた。

 鍋の下へ入れる薪も、太いものと細いものに分けられている。

 台所の女はその棚を見て、感心したように息をついた。


「これも、あなたが?」


「手が空いてたからな」


「手が空いてても、そこまでやるかねえ」


「やれば片づく」


 それだけ言って、ロアンは次の箱へ移る。

 箱の角を見ても、そこで終わった。

 前のロアンなら、その前にひとこと多かったはずだ。

 どうして刃の向きをそろえない、持ち手を濡れたままにするな、薪は湿る前に裏返せ。

 そういう小言がひとつか二つ混じって、そのあとでようやく手が動く。

 その小言の間に、相手の手元や息の上がり方も見る。

 いまは、手だけが先へ行く。


 厩舎の方から、別の若い作業員が半ば駆け足でやってきた。片手に干し草の束を抱えている。


「ロアンさん、栗毛の左前が――」


 そこまで言っただけで、ロアンは顔を上げた。


「鼻先、白く乾いてるだろ」


「……見たんですか」


「朝のうちに見た。干し草を厚くしろ」


 若い作業員は頷いて、また駆け戻る。

 その背へ、台所の女が笑い混じりに言う。


「気が利きすぎて、こっちの仕事がなくなっちまうよ」


「なくならない」

 ロアンは平然としている。


「残るやつには残る」


 その言葉のあとで、本当ならもう一つ来るはずの文句が来なかった。

 干し草を抱えたまま走るな。床へこぼして、どうせあとで誰かが拾う。そういう一刺しがいつものロアンにはあるのだろうと、今のやり取りだけでも想像できた。

 女もベルクも、そこで少しだけ待つ顔をした。

 待って、何も来ないのでそのまま動き出す。

 待ち外れの顔だけが残る。


 受付の机の端では、字の下手な使いの男が、紙を持ったまま所在なげに立っていた。

 どの控えへ何を書き足せばいいか分からず、いつもは二度三度と聞きに来る男だ。

 ロアンはその紙を受け取ると、ひと目見て余白の位置を変え、さらさらと書き込んだ。

 字はまっすぐで、迷いもない。


「ほら」

 そう言って返す。


 男は感心したように紙を見た。


「読みやすい……」


 トーラの目がそこで動いた。

 男は紙を少し離し、もう一度見た。今度は誰にも聞かずに済みそうだった。

 嘘ではない。だからトーラは、すぐに言い返せなかった。


 ベルクは荷の控え板を束ねながら、半ば照れ隠しのように言った。


「怒鳴られないだけで、朝の腹の痛みが違うんだよな」

 台所の女が吹き出す。


「そこまで?」


「そこまでだよ。ロアン、前は朝から機嫌悪かったろ」


「機嫌じゃない」

 ロアンは鼻を鳴らす。


「おまえらの手順が悪いだけだ」


「ほら、それだよ」


 そのやり取りに、周りは笑う。

 トーラだけが笑わなかった。


 笑いながらも、皆どこか浮き足立っていた。

 褒めていいのか、喜んでいいのか、自分でも決めきれない顔だ。

 それでも朝の仕事が早く進み、怒鳴り声も飛ばず、紙も馬具もすぐ片づく。その楽さへ、身体が先に寄っていく。

 トーラだけが、そこへ乗れなかった。


 リュカはまだ鍋をもらっていないのに、腹の鳴り方が少し変わっていた。

 空腹の音ではなく、嫌なものを前にした時の薄い締まり方だ。

 この宿は助かっている。

 助かっているからこそ、変だと口に出しにくい。

 そういう場の重さが、戸口から暖炉の前まで薄く張っていた。


 ロアンが黙ったまま受付の机の紙の端を揃える。

 端だけがそろった。インクのにじみは、そのまま見逃された。

 いつものロアンなら、そこで一度は文句をつける。誰が乾かないうちに重ねたのか、ついでに昔の失敗まで引っ張り出す。


 トーラの顔がこわばった。


「……違う」


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