第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(9)
朝、子は目を開けるなり「なんか、昨日より減ってる」と言った。
腹のことだった。
父が吹き出し、母が鍋の蓋を取る。
顔を洗われて「冷たい」と文句を言い、焼いたパンの欠片を見て、子は少し笑った。
朝飯を食べ終えると、父が扉の留め木を外した。
「向こうに行くなら、昼前だ」
父が言う。
「俺も行く」
「三人で」
母が言い足す。
子はそれを聞いて、ほっとしたように肩を落とす。
膝に置いた手が、ゆっくり開いた。
昼前、母はテーブルの端に置いてあった薬包みを見た。
去年の薬だった。
橋から戻った子の手に、まだ握られていたものだ。
紙はしわになり、中身はもう薬ではない。
包み紙には、子の指の跡だけが残っている。
子もそれを見ていた。
「それ、どうするの」
「持っていこう」
「ばあちゃんに?」
部屋の中が一瞬だけ止まる。
父が扉の留め木に手をかけたまま、こちらを見た。
母は薬包みを持ち、子の前にしゃがむ。
「ばあちゃんには、もう飲ませられない」
子の顔から、朝飯の気配がすっと消えた。
「何で」
母は少し黙ってから言った。
「冬に、向こうで眠った」
それだけ言った。
子はすぐには理解しなかった。
それから、薬包みへ目を落とす。
「俺が届けなかったから?」
父が一歩近づいた。
「違う」
父は迷わなかった。
昨夜、橋の外で名前を呼んだ時より、ずっと早く声が出た。
「向こうの人が医者を呼んだ。薬も飲んだ。おまえが悪いんじゃない」
子は父を見た。
信じたいのに、すぐにはうなずけない。
薬包みの紙が、子の指の中で小さく鳴った。
母が薬包みを子の手にのせる。
「でも、持っていこう。遅くなったって、言いに行こう」
子は包みを持った。
母は子の左側に立ち、父は右側に立つ。
手を引くかどうかで、母の指が少し迷った。
子はそれを見て、自分から手を出した。
「今日だけ」
小さく言う。
「今日だけでいい」
母は何も言わず、その手を握った。
父も反対側から、子の肩に軽く手を置く。
三人の影が、橋の石の上に並んだ。
昼前の橋は短かった。
それでも子は真ん中で一度止まった。
母はすぐに名前を呼ばなかった。
手を握ったまま、子の横顔を見る。
子は橋の石を見下ろし、片方の足を少し上げた。
足元の石は、ただ冷たいだけだった。
「靴、ここで落としたの?」
父が答える。
「そうだ」
「見つかった?」
「見つかった」
「捨てた?」
父は首を振った。
「家にある」
子は少し驚いた顔をした。
でも、なくなってはいないと分かった。
母がそこで、静かに言った。
「ノル」
叱るでも、急かすでもない。
ただ、こちらを向けるための声だった。
子は顔を上げた。
「うん」
それだけ返して、また歩き出す。
リュカは少し離れて、後ろを歩いた。
橋はもう沈まない。
墓地の入り口で、子は足を止めた。
昨日まで、自分が向かっていたはずの場所だ。
けれど昼に見る墓地は、橋の中で見えた道とは違った。
母は迷わず一つの墓の前へ行く。
この一年のあいだに置かれた石だった。
子はその前に立ち、薬包みを握ったまま黙った。
石には、子の知らない日付が刻まれていた。
「ばあちゃん、ここ?」
「うん」
「家じゃなくて?」
「うん」
子は頷かなかった。
ただ、目だけが石の文字を追った。
「怒ってるかな。遅いって」
母はしゃがみ、子の肩に手を置いた。
「怒ってたら、まず、手を洗えって言うよ」
「それから、飯を食えって言う」
父が続けると、子の口元が少し揺れ、墓の前に薬包みを置いた。
「遅くなった。ごめん」
母は薬包みの横に、朝のパンを少し置いた。
父は墓の周りの草を二、三本抜く。
子も一本抜こうとして、父の手助けを断った。
「自分でやる」
何度か引っぱって、ようやく一本抜く。土がはねて、指が汚れた。
爪の間に土が入る。
「汚れた」
「洗えばいい」
母が言う。
帰りの橋で、子は止まらなかった。
渡り終えてから、自分で振り返った。
「ほんとにここだった?」
子が聞く。
母は頷いた。
「ここだった」
子はもう一度橋を見た。
「夕方は、一人で渡らない」
父が大きく息を吐いた。
「そうしてくれ」
母は何も言わず、子の髪についた土を払った。
その手を、子は払わなかった。
家に戻ったあと、リュカが腰を上げると、子がようやく気づいたように顔を上げた。
「行くの」
「行く」
「また来る?」
リュカは考えてから首を振った。
「三人で渡れるなら、来ない」
子は首をかしげたが、すぐ朝飯の残りに目を戻した。
父が小さな包みを差し出した。
黒パンが二切れと、干し果物が一つ。
「道で食え」
リュカが受け取ると、父は包みを渡した手を一度握り、何も言わずに下ろした。
母は入口まで送ってきて、短く言った。
「……行きな」
橋のたもとでは、弟が昨夜鉄を掛けた杭の横に、小さな板を打っていた。
夕暮れに、子を一人で渡すな。
呼ぶ時は、名前で呼べ。
弟は釘の頭をもう一度叩き、少し離れて字を見た。
線は曲がり、「名前で」のところだけ妙に強い。
横の杭に鉄は戻さなかった。
弟はそれを見張り所の袋へ入れた。
子が入口から顔を出し、首を伸ばした。
「あれ、何」
「橋の決まりだ」
弟が答える。
「誰が決めたの」
弟は少し困った顔をした。
母が家の中から出てきて、代わりに言う。
「昨日、決まった」
「昨日?」
「そう」
子は納得できないまま板を眺める。
「名前で呼べって、誰を」
母は子の髪を指で直し、板を見た。
「そこにいる子を」
「戻れ、じゃだめなの」
母はすぐには答えなかった。
「振り向かない時がある」
「じゃあ、呼べばいい」
母は笑い、すぐ顔を伏せた。
「うん」
通りかかった近所の母親が、板に目をやってから、橋へ駆け出しかけた子を名前で呼ぶ。
子は振り返り、返事をしてから、その手を取った。
川の方から風が上がり、板の二行が少し鳴った。
家の中から声がした。
「ノル、パン焦げるよ」
「今行く」
子は板を見ずに、入口の奥へ引っ込んだ。
その返事が橋の上まで届いてから、リュカは橋を離れた。




