表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
PR
47/60

第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(8)

 子は首をかしげたが、すぐその手を取った。

 去年の夕暮れのままの軽さだった。


 こちら側で、母がまた、ノル、と呼ぶ。

 去年のみ込んだ名前だ。

 今夜はもうのみ込まない。

 その声が、向こうの夕暮れとこちらの夜のあいだに、細い道を残す。


 リュカはその声を目印に、子を引いて戻る。


 橋はすぐに狭くなった。


 さっきまで墓地側へ続いていた道が、町側へ戻ろうとした途端、浅い段差になる。

 手すりの影が肩に触れる。


 子は薬包みを抱え、もう片方の手でリュカにつかまっている。

 一歩ごとに、祖母の戸口、父の声、橋に残した片方の靴が、まだ足に絡みつく。


「母さん、怒ってるかな」


 子が聞いた。


「怒ってる」


「それ、さっきも言った」


「帰ったら二回聞け」


 子は小さく鼻をすすった。


「父さんは」


 その問いには、リュカはすぐ答えなかった。

 外の夜に耳を澄ます。

 母の声は続いている。

 その奥で、父が息を止めている。

 何か言いたくて、何も言えず、戸口と橋の間に立っている。


「聞こえるか」


 リュカが言うと、子は首をかしげる。


「何が」


「黙ってる声」


「そんなの聞こえない」


「だろうな」


 リュカは糸を強く引いた。

 指からにじんだ血が、白い布に少しつく。

 その赤が橋の夕暮れに吸われかけ、すぐこちら側の夜に戻る。


 外で、父がついに声を出した。


「ノル」


 母の声よりずっと下手だった。

 呼び慣れていない。

 家の中で何度も聞いていたはずの名なのに、外へ出すと喉に引っかかる。

 それでも父はもう一度呼んだ。


「ノル」


 子が目を見開く。


「父さん?」


 橋の石が一枚、本物に戻る間も、父の声は続く。


「一人で行けるって言って、悪かった」


 その言葉はきれいに届かなかった。

 橋の内側では、ところどころ欠けて聞こえる。

 それでも、悪かった、だけは子の耳に残った。


「何で」


 子が立ち止まりかける。


「止まるな」


 リュカが引く。


「父さんが謝ってる」


「聞きながら歩け」


 子は困りながらも歩いた。


 父の声はそれ以上うまく続かなかった。

 息を詰める音だけが、橋の外から届く。

 橋が用意した去年の父の声は明るく、子を一人で向こうへ行かせる。

 今の声はつまずく。

 つまずくぶん、去年ではない。


 その声の後ろで、弟も小さく言った。


「鉄は外した」


 子には何のことか分からない。

 それでも橋の中で、行く手を塞いでいた硬さがひとつ外れた。


 入る時よりずっと狭い。

 肩のあたりが影に引っかかり、橋の石の継ぎ目が一度だけ深く沈む。

 けれど母の声がある。

 その声が子の足を一歩ずつこちらに寄せる。


 途中で、子が一度だけ立ち止まった。


「靴」


 片足の感覚に、今さら気づいたのだろう。

 去年橋に残った片方の靴を探して、足元を見る。

 その視線につられて、橋の影がまた深くなる。

 なくしたものを探す目は、すぐ過去に戻される。


「あとだ」


 リュカは短く言った。


「でも」


「あとで叱られろ」


 子はその言い方に少しむっとした。

 むっとできるだけ、こちらに近い。


 向こう側から、母の声が続く。


 ノル。


 細く、同じ高さで、何度も。

 泣きも怒りもせず、母はただ呼び続けた。

 去年飲み込んだ一声を、細く引き延ばしていた。


 橋の外で、父が息を止めている気配がする。

 弟が石段の下で人を止めている足音もする。

 その全部が遠い。

 ここで頼れるのは、白い布の糸と、名前だけだった。

 糸が手すりの欠けに擦れ、指の間でさらに細く裂けた。


 次の一歩で、子の足が町側の石の上に乗った。


 川音がいきなり近くなる。

 風が手すりのあいだを抜ける。

 去年の夕暮れがそこでようやく夜に沈みきる。


 母はその瞬間、初めて橋に一歩出た。


 去年出られなかった一歩だった。


 子の肩をつかみ、そのまま抱き寄せる。

 泣き声は出ない。

 出ないまま、何度も背をさすって、そこにいる重みを確かめる。


 弟は石段の下でしばらく動けなかった。

 ようやく長く息を吐き、橋には上がらないまま、誰も近づけないようそこに立つ。


 リュカはすぐ手すりに戻る。

 広げた裂け目が爪の先ほど残っている。

 今度は広げない。寄せる。


 手すりの欠け。

 橋の石の継ぎ目。

 川の音。

 母が抱いた子の重み。

 それらを一つずつ拾い、ずれた影と色をそこへ戻していく。


 最後に糸をひと引きすると、風が一度だけ手すりを鳴らした。

 それきりだった。


 橋は、ただの石橋に戻った。


 子が母の肩から顔を上げた。


「……腹へった」


 その一言で、母はようやく笑った。

 短く息が漏れるような、弱い笑いだった。


「帰ったら、先に手を洗いな」


 いつもの言い方だった。子は素直にうなずく。


 石段の下で、年寄りがゆっくり立ち上がった。

 娘は支えようとした手を止め、橋の上の子を見る。


「……その子か」


 誰も答えないまま、娘は顔を伏せた。


「すまなかった」


 母は子の背をさすったまま答えた。


「今はいい」


 弟が橋の前で道をあける。

 二人は橋の真ん中を一度見て、それから母の顔をうかがった。


「行っていいのか」


 年寄りが弟に聞く。


 弟は腰へ伸びかけた手を下ろし、橋を示した。


「今なら渡れる」


 年寄りはうなずき、娘に支えられて渡った。

 今度は、真ん中で何も沈まなかった。


     *


 家の中へ入ると、父が明かりを持って戸口の内側に立っていた。


 母の肩越しに子の顔を見た時、すぐには何も言えなかった。

 明かりを少し持ち上げ、前に出る。

 最初に子の肩に触れ、次に母の背へ手を回した。


 子は二人の顔を見比べ、まばたきをした。

 父も母もここにいる。

 腹も減っている。


「……ほんとに腹へった」


 父が顔を伏せて笑った。

 母も笑う。息だけが先に出たような、弱い笑いだった。


 父が戸口の脇からバケツを寄せ、母が濡らした布を絞る。

 子は火のそばにしゃがみ込みかけ、母に「先に足」とにらまれて、しぶしぶバケツの前に座った。


「冷たい」


「我慢しな」


「腹へってるんだよ」


「それとこれとは別だ」


 火を起こし直す。

 母が煮込みをよそい、黒パンを割る。

 子は「食べていい?」と聞き、うなずかれるとすぐスプーンを取った。


 一口目で舌を焼きかけ、二口目でむせそうになり、三口目でようやく落ち着く。

 母が背をさすり、父が自分のパンを少しちぎって寄せる。

 子は何の遠慮もなくそちらに手を伸ばした。


「ばあちゃん、薬飲んだかな」


 母の手が少し止まる。


「明日、見に行くよ」


 父が言う。


「三人で行こう」


 母が続ける。

 子は安心したように、また深皿に顔を戻した。


 食べ終わるころには、子のまぶたはもう重かった。

 スプーンを置いたままこくりと首が落ちる。

 父があわてて深皿を取り、母が肩に手を添える。


「寝な」


 子は半分だけ目を開けた。


「まだ起きてる」


「起きてないよ」


 父が言う。


「目が半分閉じてる」


 子は言い返そうとして、それも面倒になったらしい。

 素直に立ち上がり、母に手を引かれて寝台へ行く。

 横になる前に、ふと二人を見た。


「何だい」


 母が聞くと、子は少し迷って、それから言った。


「二人とも、いる?」


 父がそこで息を詰める。

 母は答えるより先に、子の髪に手をやった。


「いるよ」


 それだけでよかった。


 子はもう一度だけうなずいて、目を閉じた。

 今度はすぐ眠った。


 夜中に一度だけ目を覚ました。


「俺、どのくらい遅れた」


 父が「一年」と答えると、子は柱の傷を指でなぞった。


「伸びてない」


「あんたは橋にいた」と母が言い、父が「みんなはここにいた」と続ける。


「じゃあ、俺の誕生日」


「来た。干し果物も置いた」


「食べた?」


「俺が食べた」


「来年、二つにしよう」


 母がそう言うと、子は「来年?」と聞き返し、それから「ばあちゃんは」とだけ言った。


「明日、会いに行こう」


 寝台へ戻る途中、子は片方だけ残っていた靴を見つけた。


「新しいの、ある?」


「ある」


「色、同じ?」


「少し違う」


「絶対変だ」


 母が名前を呼ぶと、子は小さく返事をして、そのまま眠った。


 父と母はしばらく寝顔を見ていた。


「小さいままだな」


「今日から、大きくなるよ」


 母は糸の一本抜けた白い布を棚に戻し、父は火を少し落とした。


 外ではただの夜の音がして、橋のことはもう口にしなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ