第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(7)
空の色が違う。
さっきまでの夜ではなく、火の皿がまだ橋を渡っている。
人の声もある。
ただ、どの声も少し遠い。水の底から聞こえてくるみたいに、意味だけが遅れて届く。
短いはずの橋が、ここでは長い。
同じ五歩が何度も続き、手すりの欠けも石の継ぎ目も、少しずつ同じ場所へ戻ってくる。
白い布の糸が指に食い込む。
母の声が届くたび、橋の石が一つだけ本物に戻る。
声が途切れれば、また夕暮れに沈む。
道を開いたわけではない。
母の声が通った跡に、指先を差し込んでいるだけだ。
橋の上に、子が立っている。
薬包みを握ったまま、手すりの向こうを困ったように見ている。
日が落ちる前に使いを済ませて帰るつもりでいる。
自分だけが長く置き去りにされていたことを知らない。
子の前には、墓地の道が見えている。
向こう岸の市場の声も、祖母の家の戸口も、まだそこにある。
子は一歩、墓地側へ足を出しかけた。
「そっちじゃない」
リュカが言っても、子は振り向かない。
「薬を届けないと」
小さく、当たり前みたいに言った。
その声が危ない。
迷いがないから、そのまま橋の向こうへ踏み出す。
「戻るぞ」
「まだ届けてない」
「もう一年経ってる」
子はそこで初めてリュカを見た。
意味が分からない顔をする。
分からないまま、薬包みを胸に抱え直した。
「うそだ」
「嘘なら、俺も楽だ」
子は返事をしない。
薬包みの結び目を親指で押さえ、墓地側へ目を向ける。
そこには祖母の家へ続く道が、さっきよりもはっきり見えていた。
母の声が届くたび、墓地側の道だけがくっきりする。
子は薬包みを抱え直し、そちらへ足を寄せた。
橋の先に、戸口が見えた。
古い木の扉。
低い軒。
薬を待っている人の咳。
子にはもう、そこへ行く道にしか見えていなかった。
「ほら」
子が言った。
「ばあちゃんち、そこじゃん」
子の肩から、さっきまでの強ばりが少し抜けた。
「見るな」
リュカは言った。
「でも」
「見るな。
橋が、おまえの知ってるものを出してる」
子はむっとした。
「知らないくせに」
「知らない」
リュカは認めた。
「でも、その入口はおまえが見たがってる場所だ」
子は答えない。
唇を結び、薬包みをさらに強く抱えた。
夕飯前に用事を済ませたいだけの子に見える。
去年のままだから、こちらの一年が届かない。
橋の向こうで、母の声がまた届く。
ノル。
子の眉が動いた。
「その呼び方」
小さく言う。
「嫌いか」
「外で呼ぶなって言った」
怒っているようで、声は少し弱い。
その呼び名が家の中のものだと、体の方が覚えているのだろう。
「ここは外じゃない」
リュカは言った。
「橋の途中だ」
子は意味が分からない顔をした。
その顔の向こうで、別の声がした。
おまえなら、このくらい一人で行ける。
父の声だった。
去年の夕方、その背を押した声。
橋の奥で、少し遅れて響く。
水の底から拾い上げたみたいに、形だけがやけにはっきりしていた。
子の顔が明るくなる。
「父さんもそう言った」
足が一歩、墓地側へ動いた瞬間、リュカはその腕をつかんだ。
「それは去年の声だ」
「去年じゃない」
「去年だ」
橋の石が、足元で一枚ずつずれる。
今いた場所へ戻っているのか、先へ進んでいるのか分からない。
同じ手すりの欠けが三度通り過ぎる。
白い布の糸が指に食い込み、リュカの爪の横から血がにじんだ。
母の声が届く。
ノル。
今度は少し遠い。
墓地側の戸口から咳がする。
子はそちらを見てしまう。
「ばあちゃん、待ってる」
「待ってない」
リュカは言った。
子の顔がこわばる。
「何でそんなこと言うんだよ」
「待ってるなら、ここじゃない」
「じゃあどこ」
「帰って聞け」
子は怒りで目を赤くした。
大事な役目を取り上げられそうになって、本気で腹を立てていた。
「届けないと、だめなんだ」
「だめでも帰る」
「だめなら怒られる」
「怒られろ」
子は言葉を失った。
リュカはその隙に、一歩だけ町側へ引く。
橋の石がいやな音もなく沈み、二人の足元から夕暮れの色がはがれた。
ほんの少し、夜の冷たさが戻る。
子は薬包みを見下ろした。
「でも、これ」
布は白い。
さっき母の手にあった布と同じなのに、ここではまだ新しい。
結び目は斜めで、片端が長い。
去年、直されないまま橋に持ち込まれた形だ。
「ここ、母さんが結び直そうとした」
子はそう言ってから、自分でも初めて思い出したように結び目を見た。
「俺が、もういいって言った」
橋の向こうから、また声がした。
戻れ。
去年の母の声だ。
名前ではない。
短く、焦って、橋の上の子に届ききらなかった声。
それが今、夕暮れの底から浮いてくる。
子はびくっと肩を揺らした。
「今の」
「去年の声だ」
リュカは言った。
戻れ、という声は橋の内側で何度も跳ねた。
言うほど、誰に向けた言葉か分からなくなる。
橋はそれを薄く伸ばして、ただの音にしていた。
その上から、現在の母の声が届く。
ノル。
今度は違った。
短く、細く、でも相手を間違えない声だった。
橋の中にあった去年の「戻れ」が、その名前に押されて少し沈む。
子は顔を上げた。
「母さん、怒ってる?」
「怒ってる」
リュカが即答すると、子の目が丸くなる。
「たぶんな」
「何で」
「帰ってこなかったから」
「だって」
「帰ってから言え」
子は黙った。
黙って、母の声が来る方を探す。
さっきまで見えていた祖母の家の戸口が、そこで少し薄くなった。
代わりに、別のものが見えた。
家のテーブル。
三枚目の深皿。
湯気が立ち、冷め、夜になっても下げられない深皿。
パンの小さな欠片。
棚の白い布。
橋の下で鉄を鳴らす弟。
戸口で何度も外を見る父親。
毎夕、橋の同じ石を見続ける母親の肩。
意味までは分からなくても、自分のいない家で何かが変わってしまったことだけは分かったらしい。
「何で俺の深皿があるの」
小さく聞いた。
「帰るからだろ」
リュカは答えた。
子は何か言いかけ、言えなかった。
薬包みを抱える力が少しゆるむ。
その瞬間、橋の奥から別の声が来た。
もう子どもじゃないだろう。
誰の声でもある。
父の声にも聞こえ、母の声にも聞こえ、子自身の声にも聞こえた。
橋は、一番使いやすい言葉を選んだ。
子の背が、また伸びる。
目元に、さっきまでの意地が戻りかける。
「そうだ」
リュカが言うと、子が意外そうに見る。
「子どもじゃないなら、帰って怒られろ。
自分で、遅くなったって言え」
その言い方に、子は完全に止まった。
返事をせず、薬包みへ目を落とす。
「これ、どうする」
「持って帰る」
「でも、薬」
「だめになってても、持って帰る」
「怒られる」
「さっき言った」
子は唇を曲げた。
泣きたいのを、怒った口で押さえている。
リュカはそれでいいと思った。
橋の向こうへ行く者は、あまり怒らない。
怒れるなら、まだこちら側だ。
母の声が届く。
ノル。
子は今度こそ、はっきり振り向いた。
「……母さん?」
返事はすぐ来ない。
遠くで母がまた息を吸う。
泣き声にも怒鳴り声にもならないよう、家で呼ぶ時の声を探している。
ノル。
子の肩から力が抜けた。
「外で呼ぶなって言ったのに」
文句の形をしていた。
けれど足はもう、町側を向いている。
リュカは何も言わず、手を差し出した。
「帰るぞ」




