第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(6)
橋の手前の家の戸口には、まだ火が残っている。
テーブルの三枚目の深皿も、そのままだ。
橋の真ん中だけ、去年の夕暮れが夜に混じらず、薄く光っていた。
リュカは石の手すりに手を置いたまま言った。
「夕暮れなら呼べる」
姉も弟も、黙って聞く。
「でも、今は弱い」
橋の真ん中の暗がりに、去年の夕方がかすかに残っている。
「夜を待つ」
リュカはもう一度言った。
「足音がなくなるまで」
姉の声が、そこでかすかに低くなる。
疲れてきたのではない。
ノル、という音だけが、夜の橋に細く残った。
夜が深まるまでのあいだ、橋のたもとと家の戸口には四人ぶんの沈黙があった。
母の沈黙は、去年から続いている。
ノル、と呼ぶ。
呼び終わったあとの余白だけがひどく長い。
返事があるはずのところに風が入り、水の音が入り、墓地の木立のざわめきが入ってくる。
それでもまた、ノル、と呼び直す。
去年、自分がのみ込んだ一瞬を埋めるみたいに、切らさず呼ぶ。
弟の沈黙は、その場しのぎだった。
石段の下に下がり、掛けたばかりの鉄を横目に見ながら、橋に来る者があれば首を振る。
理由は言わない。口にすれば、声が震える。
ただ、今夜は橋に上がらせてはいけないことだけは、さっきの一歩で分かってしまった。
リュカは、黙って橋を見ていた。
橋の真ん中だけが夜の中で薄い。
夕暮れが沈みきらず、墓地に置いたはずの明かりの残り火が影の底にかすんでいる。
人の足音が途絶えるほど、その薄さはむしろはっきりした。
橋は短い。
けれど真ん中の数歩だけ、そこをまたぐ時の時間の厚みが違う。
しばらくして、父が家から出てきた。
明かりは持っていない。
橋に火を向けたくないのだろう。
代わりに、湯の入った小さな壺と毛布を一枚持っている。石段の中ほどまで来ると、弟にその壺を押しつけた。
「飲め」
弟は首を振る。
「いらない」
「飲め」
強い声ではない。
けれど、断らせない声だった。
弟はようやく壺を受け取り、一口だけ飲む。
その横顔に、去年の晩と今夜の失敗が重なっていた。
父はそれ以上何も言わなかった。
父は橋に近づかない。
家に戻るにも橋へ寄るにも半端な位置で立ち止まり、母の背を見ている。
橋のたもとに来てもまだ、「待つ」以外のことがうまくできない。
「戻ったのか」
ようやく、父が聞く。
母は橋を見たまま答えた。
「戻ったよ」
「見えたか」
「見えた」
それきりだった。
二人とも、そこで言葉を切る。
少しして、弟がぽつりと言った。
「去年も、俺が最初に来た」
誰に聞かせるでもない。
けれど誰も止めなかったので、そのまま続く。
「橋に上がった。
何も見えなかった。
何も見えないから、手すりの下まで覗いた。
姉さんは『そこで違う』って言った。
でも、何が違うのか分からなかった」
湯の壺を握る指が白くなる。
「今日も分からん。
ただ、俺が近づくと、姉さんは俺じゃなく、去年の橋を見る」
母は橋を見たままだ。
それでも、その言葉はちゃんと聞いていたのだろう。
呼び声が一瞬だけ細くなり、それからまた戻る。
父が弟に目を向ける。
「俺だって、あの子を止めなかった」
低い声だった。
重いが、責めるための重さではない。
橋の真ん中に残してきた一年を、ようやく家の中で言葉にする重さだった。
「『このくらい一人で行ける』って、俺が先に言った。
あの子も、それが嬉しくて橋に上がった」
言ってから、父は拳を握りしめる。
「それをずっと、三枚目の深皿で待ってた」
弟は何も返さない。
橋の夜だけが、黙って聞いている。
リュカは家の方を顎で示した。
「去年の白い布を持ってこい。
三枚目の深皿は下げるな」
父は一度だけ母を見る。
母は橋を見たまま、小さく頷いた。
父は走って戻り、白い布を持ってきた。
薬包みをくるんでいて、橋の上に残った布だ。
中の小さな包みは、その時になくなった。
洗っても落ちきらなかった薬草の匂いが、夜気の中へ薄く出る。
白い布を取る時、棚の下の三枚目の深皿が目に入る。
父はその時、自分の手に黒パンの小さな欠片まで握っていることに気づいた。
深皿の脇へ置くつもりで、いつもの癖で持ってきていた。
「持ってきちまった」
誰に謝るでもない声だった。
母は橋を見たまま答えない。
けれど、ノル、と呼ぶ声がかすかに太くなる。
リュカはパンの欠片を見て、短く言った。
「捨てるな」
父はうなずき、ぎゅっと握りしめた。
声。布。下げない深皿。握られたパン。
橋のこちらに、戻る場所が増えていく。
リュカは白い布を手すりの欠けに結び、反対の端を母に持たせた。
「布は引くな。
名前を呼べ」
母は、ノル、と呼んだ。
布が一度だけ重くなる。
水を吸ったわけでも、風を受けたわけでもない。
向こうで誰かが端を見つけ、触れた時の重みだった。
父が息を止める。
弟も石段の下で動かない。
けれど布はそこから戻らない。
声は届く。
足を置く場所がない。
「足りない」
リュカは舌打ちした。
「最悪だ」
向こう岸の貧民街で、最後の扉が閉まる音がした。
それを合図にでもするみたいに、風がふっと落ちる。
墓地の木立も、さっきまでのざわめきから半歩下がる。
リュカが橋に目を戻して言った。
「今なら、あの子だけが残ってる」
「死者じゃない。
道の途中だ」
「布がある。声もある。
皿もまだ、空いたままだ」
父も弟も返事をしない。
ただ、二人とも橋を見た。
「呼ぶのをやめるな」
リュカが母に言う。
「その声でいい」
母はうなずきもしない。
ただ、ノル、と同じ調子で呼び続ける。
切れない細い声が、橋の真ん中に届いていた。
リュカは手すりに手を置いた。
石は冷たい。
その欠け目の奥だけ、夜になりきっていない。
指先を滑らせる。
影と影のあいだに、糸の先ほどのずれがある。
石の割れではない。
こちらの夜と向こうの夕暮れのあいだに残った、細いずれだ。
リュカは白い布のほつれから、細い糸を一本抜いた。
「借りる」
色も艶もない、月の光も拾わない糸だ。
それを欠け目に当てる。
引く。
押す。
石が割れる音はしない。
橋も鳴らない。
ただ、手すりの影が指二本ぶんだけ深くなり、その奥に去年の夕暮れが薄く戻る。
向こうは、まだ去年の夕方だった。
リュカが足を置いた瞬間、いくつもの夕方が横をすり抜けた。
雨の日。風の日。母が橋に出て止められた日。弟が鉄を鳴らした日。
橋の中には、途中のまま残った夕方が幾重にも重なっていた。
白い布の糸が震える。
母の「ノル」が届くたび、その層がひとつずつ沈んでいく。
代わりに橋の奥では、去年の「戻れ」が誰のものでもない声になって跳ね返る。
足元に、片方の靴と、炭で書かれた紙切れが現れた。
パン一つ我慢。二つ我慢なら買える。
どちらも子が向こうへ持って行きたかったものだ。
拾えば、そちらへ足が向く。
リュカは拾わない。
母の声がまた届く。
ノル。
靴も紙切れも薄くなる。
「呼べてる」
外には聞こえない。
それでも言った。
「そのまま呼べ」




