表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
PR
44/61

第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(5)

 水音が引く。

 手すりの影が、ただの影へ戻る。

 戻りかけていた子の顔が、石の冷たさに沈んでいく。


 母は三度目の名前を呼んだ。

 今度は、去年よりはっきりした声だった。

 けれど届ききらない。

 白い布だけが、最後に一度こちらに残り、それも手すりの影にすべり込む。

 橋の真ん中には何もない。

 ただの石橋が残る。


 弟の手は、姉の腕をつかんだまま止まった。

 自分が近づいた途端、姉の顔から血の気が引いた。

 また、去年と同じ顔をさせた。


「……今のは」


 言葉にならない。


 姉は弟の手を振り払わなかった。

 振り払えば橋に上がってしまうと、自分でも分かったのだろう。

 ただ、つかまれた腕だけが細く震える。


 リュカは橋から目を離さずに言った。


「夕暮れだったから、あそこまで戻れた」


 姉が、ようやく顔を向ける。涙も声も、まだ出ない。


「去年も、呼んでいれば」


「届いたかもしれない」


 リュカはそれ以上は言わない。

 去年のことを言い切れる者は、誰もいない。


 弟がようやく姉の腕を離す。


「俺が……」


 そこで言葉が切れる。

 壊した、と言えない。

 何を壊したか、自分でも見ていないからだ。


 それでも弟は、去年からこの家の前で言えなかったことを、喉の奥に残したままだった。


「今夜はまだ終わらない」


 向こうの最後の明かりが消える。人の往来も切れ、墓地の風も静まっていく。


「夜を待て」


 弟は姉も橋も見たまま、低く聞く。


「俺は、どうする」


「その鉄を外せ。

 人を橋に寄せるな。

 おまえも橋に上がるな」


 弟は意味までは分からない。

 それでも、さっきの一歩が何かを壊したことだけは分かる。

 革のひもをほどき、鉄を石段の脇の杭へ掛ける。

 縁が木に当たって短く鳴った。


 それから弟は石段の下に下がる。

 今夜は、そこから人を止める。


 母は橋のこちら側で、細くノルと呼び続ける。

 去年呼べなかった名前だ。

 今夜はもう、のみ込まない。


 その声を邪魔したのは、橋ではなく人だった。


 墓地から戻る最後の組が、向こう岸から歩いてきた。

 年寄りの男と、その娘らしい女だ。

 火の皿はもう持っていない。

 手ぶらで戻ってくる者は、橋の途中から町側を急ぐ。

 早く家に帰りたい足取りだった。

 橋の真ん中に残る薄い色など見ないふりをして、まっすぐこちらへ来る。


 弟が石段の下から手を上げた。


「待て」


 年寄りは眉を寄せる。


「家はこっちだ」


「今は渡るな」


「墓地に閉じ込める気か」


 娘が父親の腕を支えながら、橋の真ん中へ目をやった。

 けれど、その視線はそこで止まらない。

 ただ、こちら側で母が名前を呼び続けていることだけは聞こえている。


「またか」


 娘が低く言う。

 悪意というより、疲れた声だった。


「一年だよ。もう休ませてやりな」


 その一言で、母の声がわずかに乱れた。


 ノル、の最後がかすれる。

 橋の真ん中の薄い色がすぐ沈みかけた。


「黙れ」


 弟が言った。

 強い声ではない。

 自分でも驚くくらい低い声だった。


 娘が目を見開く。


「何だい」


「今だけ黙れ」


 弟は石段の下に立ったまま、橋には上がらない。

 腰の鉄もない。

 手ぶらのまま、ただ通さないために立つ。


 年寄りはしばらく弟を見ていたが、やがてため息をついた。


「なら、座らせろ。膝がもたん」


 弟は道の脇を指した。

 娘はまだ何か言いたそうだったが、父親を石段の低いところへ座らせるしかなかった。


 母はもう一度、ノル、と呼んだ。

 今度は乱れない。

 その声に、さっきより細い芯が戻る。


 待たされた者は、それきりではなかった。


 墓地側から戻ってきた若い男が、石段の下で足を鳴らした。

 肩に空のかごを下げている。

 墓地の奥の家へ食べ物を届けてきたのだろう。

 帰りが遅れたせいで、苛立ちが顔に出ていた。


「いつまで止めるんだ」


 弟は首を振った。


「もう少し」


「もう少しって何だよ。橋は町のものだろ」


 その言い方に、弟の目が一度だけ鋭くなる。

 けれど言い返さない。

 言い返せば声が大きくなる。

 声が大きくなれば、橋の真ん中に届いている細い名前が乱れる。


 若い男は橋の上の何もない暗がりを見て、それから母を見た。


「あの人のために、全員止まるのか」


 母の声が、また少し細くなる。


 ノル。


 その一音だけが、橋の夜に引っかかった。


 リュカは弟を見る。

 弟は一度、腰のあたりへ手をやった。

 そこにはもう鉄がない。

 鉄があれば、鳴らして黙らせることもできた。

 けれど今夜は、その手つきが一番いけない。


 弟は手を下ろした。


「俺が止めてる」


 それだけ言った。


「姉さんじゃない。俺だ」


 若い男は舌打ちしたが、石垣にもたれた。

 その横で、さっき「休ませてやりな」と言った娘が父親の膝に毛布をかけ直す。


「本当にいるの」


 弟は答えない。

 代わりに、母の声が橋へ届く。


 ノル。


 石段の下で、さっきの子が眠さにふらつき、橋へ一歩出た。


「ミロ」


 母親が呼ぶ。

 子はむくれた顔で戻った。


 橋の真ん中の薄い影が揺れた。


「もう一度、静かに」


 リュカが言うと、母親は小さく息を吸った。


「ミロ」


「なに」


 次に届いた母の「ノル」が、さっきより沈まなかった。


 母は息を一つ飲んで、またノルと呼ぶ。


 弟が一度だけ続き、父も遅れて同じ名を口にした。

 橋の薄い色が、そこでようやく沈みきらなくなる。


 弟が手を離すと、姉は橋を見たまま、わずかに膝を折った。


 倒れるほどではない。

 ただ、橋に向かってぎりぎり保っていた体の力が、一度ゆるんだのだ。

 父が石段を上がりかけ、そこで止まる。

 弟も一歩出ようとして、また止まる。

 リュカだけが橋を見ている。


「さっき、あれが戻った」


 姉が、ようやく言った。


 橋へ向けたのか、去年のみ込んだ言葉が今になってこぼれたのか。

 それとも今ここにいる父と弟へ向けたのか、姉自身にも分かっていなかった。


「戻ったのに」


 そこで声が詰まる。


 弟が目を伏せた。


「俺が」


「おまえだけじゃないよ」


 姉は橋から目を離さずに言った。


「去年は、あたしが飲み込んだ。

 今日は、おまえが止めた。

 どっちも、あたしたちがしたことだ」


 弟の肩が落ちた。

 許されたわけではない。

 それでも、去年から別々に抱えていたものが、同じ橋の前に並んだ。


 父は家の戸口に立ったまま、こちらを見ていた。

 橋には出ない。

 家にも引っ込まない。

 三枚目の深皿を下げられずに、戸口から動けないままだった。


 やがて、貧民街の方で扉が一つ閉まる。

 向こう岸の人の気配が、昼のものから夜のものへ変わる。


 弟が外した鉄を見下ろした。


「こいつは、橋で何をしてた」


 誰にともなく言う。


 理屈を聞きたいのではない。

 自分の手にあった鉄が、何をしていたのか知りたいだけだった。


 リュカは橋の真ん中から目を離さずに答える。


「分けてきた」


 弟が顔を上げる。


「橋に上がるたび、おまえは先に決めてた。

 通すか、止めるかを」


 弟は何も言わない。

 腰に鉄がある時の自分の手つきを思い出しているのだろう。


「橋の真ん中は、まだ決まってないものが残る場所だ」


 リュカは短く言った。


「そこに、決めるための鉄を持ち込むな」


 弟はそこで初めて、自分の胸の前で手を握った。

 ついさっきまでそこに鉄の重みがあった場所だ。


「去年もか」


「たぶん」


 その一言で、弟の顔つきが変わった。

 去年から止まっていた足が、ようやく一歩だけ前へ出た。


「俺はずっと、何も見えない橋に駆けてた」


 ぽつりとこぼす。


「自分で、そうしてたのか」


 姉はその言葉にも振り向かない。

 けれど、呼び声だけはまた少しまっすぐになる。

 弟がようやく立つ場所を見つけたのだと、声の方が先に知ったのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ