第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(4)
「見えるのか」
少し離れて立ったまま、リュカが聞く。
母は橋から目を離さない。
「毎日見てる」
「今日も」
「今日がいちばん近い」
その声で、リュカは橋に目を細めた。
リュカはすぐには答えなかった。
石段を一段だけ上がり、橋の手前にしゃがむ。
指先で石の縁に触れた。
冷たい。
夕方の石の冷たさではない。
夜の冷たさでもない。
火の皿を持った人が何人も通ったあとに残る、油と煙のかすかな温みが表面にあり、その下だけが妙に古い。
リュカは指を離した。
爪の先に、薄い灰のようなものがつく。
灰に見えたが、指でこすると乾いた石の粉だった。
消える一瞬だけ、古い夕暮れの匂いがした。
「毎日、同じ場所に立ってたのか」
母は頷かない。
ただ、視線だけが石段の同じ欠けへ落ちる。
「少しずつ近づいてた?」
「近づいた日もある。
遠くなった日もある。
雨の日はほとんど見えない。
風が強い日は、声だけする」
「声?」
母の唇が少し動いた。
「母さん、って。
でも、返事すると消える」
母はそこで、初めて橋以外のものを見た。
自分の手だ。
ショールの端を握りすぎて、指の関節が白くなっている。
「最初に聞こえたのは、十日目だった」
声は小さい。
橋に聞かれたくないみたいだった。
「誰もいなくなったあと、真ん中から、母さんって。
あたし、すぐ返事した。
ここにいるよって。
そしたら消えた」
リュカは黙って聞く。
「次の日も聞こえた。
その次も。
返事すると消える。
返事しないでいると、少し長くいる。
でも返事しないなんて、できるわけないだろ」
最後だけ、少し怒った声になった。
返事をした自分にも、返事をさせる声にも向いた怒りだった。
その怒りが消えないうちに、橋の真ん中で何かがかすかに動いた。
「母さん」
今度はリュカにも聞こえた。
細い声だ。
遠いのに、耳のすぐそばで言われたみたいに近い。
子どもの声としては自然すぎる。
自然すぎるものは、たいてい危ない。
母の体が前に出かけた。
「返すな」
リュカが言っても、母は止まらない。
ほんの半歩だけ、橋の石に足が乗る。
「返すな」
二度目は少し強く言った。
母の唇が開いている。
ここにいる、と言いかけている。
子に呼ばれた母親なら、そう返す。
けれど橋は、その返事を待っている。
返事をすれば、足が声の方へ出る。
リュカは母の手首をつかんだ。
「呼べ。
答えるんじゃない。呼べ」
母の目がリュカに向く。
怒りと恐怖と、ほんの少しの理解が混じっていた。
「あの子が呼んでる」
「橋も呼んでる」
リュカが短く返すと、橋の真ん中からもう一度声がした。
「母さん」
今度は少し泣きそうだった。
母の喉が動く。
答えたら楽になる。
返事をしない自分を、もう一度責めずに済む。
橋はそこを押してくる。
リュカは手首を離さない。
「名前を呼べ」
母は息を吸った。
吸った息が一度、胸の中で折れる。
返事ではなく、呼びかけに変えるには、思っているより力がいる。
橋の声がまた来る前に、母は目を閉じた。
「ノル」
小さい。
さっきよりずっと小さい声だった。
返事ではない。
橋に奪われる声ではない。
こちらから、相手を選んで渡した声だった。
橋の真ん中の影が、ほんの少し遅れて揺れる。
リュカは母の手首を離した。
「それでいい」
母は石段の手前で止まった。
答えなかった苦しさと、名前を呼べた苦しさが、同じ顔に出ていた。
「一年、返事ばかりしてた」
母が言う。
「向こうから呼ばれるたびに、あたしは返してた。
あの子に、ここにいるよって」
リュカは橋を見たまま答える。
「今夜は逆にしろ」
「逆」
「こっちから呼ぶ。
あの子に返させる」
母はその言葉を抱えるように黙った。
リュカは橋の真ん中を見た。
手すりの影の奥に、去年、薬包みをくるんでいた白い布が半分だけ返っている。
布だけではない。
肩があり、顔がある。
まだこちらを向ききらない、去年のままの子の輪郭が、夕暮れの底に引っかかっていた。
向こう岸の最後の明かりが一つ消える。
するとその顔がわずかに濃くなった。
近づいたのではない。
こちらの夕方が痩せたぶんだけ、向こうの夕暮れが輪郭を持ち始めたのだ。
母が息をのむ。去年、そこでのみ込んだ名前が、今年も同じところまで出かかっている。
「去年は、何て呼んだ」
リュカが聞くと、母は少し遅れて答えた。
「戻れって。名前は……呼べなかった」
橋から目を離さないままの答えだった。
「どうして」
「人前だったから」
それだけで足りるはずなのに、今夜は続きが出た。
「もう、そんなふうに呼ぶ歳じゃないって思った。
向こうに祖母がいる。
薬を持ってる。
橋は短い。
そのくらいなら、一人でやれる方の子なんだって、あたしが勝手に決めた」
一年ぶん、自分を許していない声だった。
「じゃあ今夜は、名前で呼べ」
母はすぐには声を出せなかった。
去年できなかったことを、今年の同じ時間でやり直すのは難しい。
橋の真ん中の子が、去年より少しも大きくなっていないのが、なおさらつらい。
「去年、呼べなかった名前で呼べ」
母は一度だけ目を閉じた。それから開く。
「ノル」
今年初めて、橋に向かってその呼び名で呼んだ。
家の中では何度も呼んだ、小さい頃の名前だった。
その一声で、橋の真ん中の影が揺れた。
風ではない。
水でもない。
手すりの影の向こうで、人がこちらに戻ろうとする気配だけが浮いた。
橋のたもとを渡りかけていた老人が足を止める。
何か見えたのではない。
ただ、母の声の質が変わったことに気づいたのだ。
「もう行こう」
連れの女が小さく言い、老人の袖をそっと引く。
何も見えていないからこそ、そこで話を終わらせる動きだった。
火の皿を持った子どもが、橋の真ん中を見ようとして背伸びをする。
その母親がすぐ頭を押さえた。
「見るな」
「何で」
「名前を呼んでる時は、見るな」
誰が決めたことでもない。
けれどその場の大人たちは黙った。
この一年で、母の声が通るだけの隙間はできていた。
母はもう一度呼ぶ。
今度は去年の一瞬を含まない。去年のみ込んだぶんまで、今年の声が橋に届く。
橋の真ん中の子が、ほんの少しこちらに寄った。
薬包みの布が手すりの影から抜ける。
顔も半分だけこちらを向く。
唇が動き、声になりかける。
「……母さん?」
かすれた、去年の終わりそのものみたいな声だった。
母の肩が大きく揺れる。
去年は返らなかった声が、今夜は橋の真ん中から返った。
母は三度目に呼ぼうとして、声が詰まった。
「呼べ」
リュカが、短く言う。
その声に押されて、母はもう一度、ノル、と呼んだ。
橋の真ん中の子が、さらに一歩ぶんこちらに寄る。
白い布が手すりの影からほとんど抜けた。
伸ばせば届くかもしれない、と人に思わせる危ない近さだった。
石段の下で、鉄が鳴った。
弟だった。
腰には、橋と門で何代も使ってきた古い鉄が下がっている。
姉の背を見て、足が速くなった。
「姉さん」
橋の上は見えていない。
見えているのは、今にも橋に出そうな姉だけだ。
姉の足がわずかに前に出かけたのを見て、腕が先に出る。
橋に上げないためだ。
悪意はどこにもない。
けれど、その鉄の気配が近づいた瞬間、橋の真ん中の色が変わった。




