第六話 黄昏の神隠しと名を渡す橋(3)
母は返さない。
けれど橋を見る目つきが、ほんの少し変わった。
ただ待つだけだった視線に、呼ぶ前の固さが混じる。
その差は小さい。
でも今夜は、その小ささが頼りになる。
戸口の外で、最後の火の皿が橋へ向かった。
父は深皿を見た。
母はショールを取った。
リュカは紙切れと靴と柱の傷を、部屋の中に置いたまま外へ出る。
その子が橋に上がった去年の夕方も、空は同じように明るかった。
墓地に明かりを持っていく日の、いつもより遅い午後だ。
墓地に行く者の足が増えるので、向こうの祖母の家に薬を届けるなら、むしろ今のうちの方がいい。
暗くなる前に行って戻る。
橋は短い。
祖母の家は墓地の先で、歩き慣れた道のりだ。
二人とも、そう思ってしまった。
子はその日、朝から妙に機嫌がよかった。
祖母の家に薬を届ける、それだけの役目で、自分が少し大きく見えると知っている。
肩まで、いつもより少し張っていた。
昼のあいだも何度も、包みはここでいいか、向こうに着いたら何て言えばいいか、そんなことを聞きに来る。
聞きに来るくせに、答えると「わかってる」と言う。
その「わかってる」の軽さが、今になれば胸に刺さる。
母は薬草を砕きながら、何度かその背を見た。
肩は細い。
でも、歩き方はもう小さい子のそれではない。
家の中を行き来する足に、急ぎと気取りが半分ずつ混じっている。
向こうの祖母の家は何度も行っている。
橋も知っている。
祖母が薬を嫌がる時の言い方も知っている。
知っていることが増えるほど、手を離す理由も増える。
その日も、子は行き先を何度も口にした。
「橋を渡って、墓地の横を抜けて、ばあちゃんち。
薬は水で二つ。苦いって言ったら、母さんが怒るぞって言う」
「怒らないよ」
「怒るでしょ」
そう言って笑う顔は、まだ簡単に子どもだった。
なのに本人だけは、その簡単さをひどく嫌がる。
棚の上には、向こう岸の市場で拾ってきた紙切れが何枚も挟んであった。
本の値段を書き写したもの、知らない言葉をまねたもの、橋の向こうの店の看板を描いたもの。
字はところどころ曲がっている。
でも本人は、それを旅の記録みたいに大事にしていた。
「今日は帰りに見るだけだよ」
母が言うと、子は「買わない」と言った。
買いたい者の言い方だった。
隣の小さな子が戸口から顔を出し、「ノル」と呼んだ。
昔から近所の小さい子が使う呼び名だった。
本人はすぐ顔をしかめる。
「その呼び方やめろ」
「ノルはノルだもん」
「違う」
子はそれだけ言って、薬包みを持つ手に力を入れた。
母は笑いそうになったが、こらえた。
包みができると、母は白い布でそれをくるんだ。
端を折り、もう一度折る。
いつもより丁寧にやったのは、向こうに持たせるからだろう。
子が手を出した。
「まだ」
母が言う。
「結び目を見せて」
子は不満そうな顔をしたが、黙って包みを差し出す。
口をとがらせても、待つことはできる。
その年頃だった。
結び目は少し緩かった。
布の端も、片方が長い。
母はそれを直そうとした。
その時、子がさっと手を引いた。
「もういい」
「いいわけないだろう」
「落とさないよ」
「落とすとか落とさないとかじゃない」
母が言うと、子は一歩引いた。
それから、ちょっと胸を張るようにして言う。
「もう子どもじゃない」
その言い方は、うれしさ半分、気取り半分だった。
父はそこで笑った。
からかいより、嬉しさが先に出ていた。
「そうだな。おまえなら、このくらい一人で行ける」
それを聞いた子の顔が明るくなる。
母は、そこで止める方がよほど子ども扱いに見えた。
包みを腰へ差させる。
子は自分でやると言って、少し斜めに差した。
母は直したかった。
でも父の言葉のあとで、また手を出すのが妙にためらわれた。
斜めの白い布は、そのままにされた。
子は戸口で振り向いた。
「帰ったら、橋の向こうの店で見た本の話する」
昨日読んだ本の話ではなく、まだ見ていない本の話だ。
そういうところまで先へ行きたがる年だった。
母は「早く戻りな」としか言えなかった。
父は「寄り道するな」と言った。
子は「わかってる」と返して、橋に向かった。
橋の手前で一度だけ、振り返った。
見られているかどうかを確かめるだけの振り返りだった。
母は手を振らなかった。
町側から見て三歩、四歩。
真ん中へ差しかかるところで、子の足がわずかに鈍る。
手すりの欠けた石のところだ。
母は名前を呼びかけた。
そこで止まった。
向こうにはまだ明かりを持った人影があり、こちらにも橋に向かう者がいた。
人前で、幼い頃の呼び名で呼ぶのは違う、とその一瞬で思ってしまった。
もうそんな歳ではない。
戻れ、とだけ言えば届くと思った。
「戻れ」
そう言った時には、もう遅かった。
子は振り返りもしないまま、橋の真ん中で少し薄くなった。
落ちたのではない。
手すりを越えたわけでもない。
ただ、そこだけ橋の色が子を飲んだ。
残ったのは、薬包みをくるんでいた白い布と、靴の片方だけだった。
布は橋の上に、置いたように残っていた。
母はそこまで走った。
けれど真ん中に出た時には、何もなかった。
短い橋なのに、その時だけ五歩がやけに長かった。
父はすぐ見張り所へ走り、弟が最初に来た。
門や橋で人を止める古い鉄を鳴らし、手すりの下を覗き、水を見て、石を叩いた。
それでも何もない。
母が「そこで違う」と言っても、弟には分からなかった。
鉄を下げて橋に上がるたび、真ん中だけが何でもない顔になるのを、母は見ていた。
その夜、町の者もすぐには帰れなかった。
川沿いに明かりが下り、墓地側の藪も貧民街の戸口も探された。
誰かは隠れていると言い、誰かは川下だと言い、誰かは橋の真ん中で消えたなんて言うなと言った。
母は何度聞かれても、手すりの欠けた石を指した。
父は祖母の家へ走った。
まだ薬は届いていなかった。
熱の中で祖母が子の名を呼び、父は返事をしなかった。
戻ると、母は白い布を膝にのせて石に座っていた。
「ここにいる」
そう言って、白い布を握りしめたまま、
「呼べばよかった」
とも言った。
夜が明けても橋はただの石橋に戻った。
家に戻った時、三枚目の深皿はまだテーブルにあった。
父が下げようとすると、母は「まだ」と言った。
捜索は数日続き、記録には「行方不明」と書かれた。
母はその言葉を嫌った。
どこかへ行ったのではない。
橋の真ん中で、途中のまま消えたのだ。
一年、母は夕暮れになると橋へ出た。
雨の日も風の日も石段の同じ場所に立ち、町は最初こそ声をかけ、やがて目をそらすようになった。
父は三枚目の深皿を置き続けた。
空のまま置いた夜、母は言った。
「腹をすかせて帰ってきた時、ここに深皿がなかったら困る」
そう言って、また煮込みを入れさせた。
秋に出した外套の袖は少し短く、春に見た柱の傷は去年の高さのままだった。
誕生日には干し果物が深皿の脇に置かれ、夏には隣の子の声が変わった。
町の子はみな大きくなり、この家の中だけ時間が欠けた。
そしてまた、墓地に明かりを持っていく日が来た。
父は豆を多めに買い、母は白い布を一度だけ広げて畳み、弟は今年も橋の見回りを引き受けた。
見張り所から橋に上がるたび、何も分からなくなると知っていても、来ないわけにはいかなかった。
だから今夜、橋の真ん中の色が少し近くなった時、母はもう深皿の前に座っていられなかった。
リュカは深皿を空け、外に出た。
母はもう橋のたもとに立っている。
石段の上で、手すりにも触れず、ただ橋の真ん中だけを見ていた。
向こうでは墓地に置かれた明かりが一つ、また一つと消えていく。
夕暮れの橋の上には、最後の火が消える前の色だけが薄く残っていた。




