第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(8)
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ブレノは荷車の左へ並んだ。
石道を蹴るたび、車輪が半回転ずつ先へ出る。
荷台の横木へ左手を伸ばす。
一度目は届かない。
二度目で指が掛かった。
足が浮く。
左肩を横木へぶつけ、荷台の縁へ腹から乗った。
四本の丸太が、縄の下で跳ねている。
右の荷縄は、後ろから弾けた安全索に打たれ、外側の撚りが半分切れていた。
縄の撚り糸が一本ずつ切れ、車輪が石を踏むたび、ほつれが広がっていく。
「右の縄が切れる!」
ブレノが叫ぶ。
ガドは荷車の左後ろを走っていた。
呼吸は乱れ、片足を引いている。
「右の空き場へ入れる!」
「どうやって!」
まっすぐ下れば北門へ届く。
右には、何も置かれていない石敷きの空き場がある。
奥の低い石垣へぶつければ、荷車は止まる。
「ガド、後ろの切れ索を右へ!」
「届かない!」
切れ索は荷台の中央から跳ねている。
ガドが走りながら二度、手を出す。
先端は指を打っただけで逃げた。
ブレノは荷台から身を乗り出した。
右手で切れ索をつかむ。
傷へ巻いた布が、すぐ赤くなった。
「取った!」
索を右へ投げる。
ガドは受け損ねた。
索が石を打ち、また荷車に引かれる。
「もう一度!」
ブレノは索を引き寄せた。
今度は投げる前に、二本指を上げた。
寄せろ。
そこを持て。
ガドは考えるより先に右へ寄り、両手を低く構えた。
ブレノが投げた。
ガドは今度こそ受け取り、索に肩を引かれながら、空き場の角にある石柱へ走る。
リュカが柱の反対側へ回った。
「こっちへ!」
ガドと二人で、切れ索を柱の裏へ回した。
石に擦られ、索の勢いが鈍る。
ガドが端を腰へ回し、リュカはその後ろをつかんだ。
二人で引く。
荷車が石の継ぎ目を踏んだ。
切れかけた右の荷縄は大きく鳴ったが、撚りはそれ以上ほどけなかった。
ガドは、索を投げる前にブレノが上げた二本指の意味を、ようやく拾った。
寄せろ。そこを持て。
十年繰り返した合図どおり、柱へもう半歩寄り、索を引く角度を変えた。
「ブレノ! 空き場へ入れるぞ!」
ブレノが振り向く。
「遅い! 引け!」
怒鳴りながら、笑っていた。
石柱へ回した索が、荷車の右側だけを遅らせた。
左輪は回り続け、前輪が空の石敷きへ向く。
「まだだ!」
ブレノは荷台の後ろで、丸太を押さえていた。
切れかけた荷縄が、腕の下で鳴る。
「放すな!」
ガドが叫ぶ。
ガドの腰が、石柱へ引き戻される。
踵が石の継ぎ目を指一本ぶん滑った。
前輪が通りを外れ、空の石敷きへ入った。
リュカは荷車の向きが変わったのを見て、索から手を離し、柱の陰へ退いた。
ガドも端を放り、その隣へ飛び込む。
止まっていた右の荷縄の撚りが、一度に切れ始めた。
「飛べ!」
ガドが叫んだ。
ブレノは荷台の縁を蹴り、荷車の後ろへ飛び降りた。
外套の裾が横木へ引っかかる。
布が裂け、体だけが石敷きへ落ちた。
荷車の右側の車輪が縁石へ乗り上げ、車体が左へ傾いた。
前部が、奥の低い石垣へぶつかった。
車体が跳ね、止まる。
だが、二本の荷縄のうち、先ほどからほつれていた一本が、ついに切れた。
丸太の束は片側だけほどけ、一番上の一本が、傾いた荷台から転がり落ちる。
残った荷縄は下の三本へ食い込み、三本を荷台にとどめた。
落ちた丸太は通りを横切り、染物屋へ向かった。
店先の空桶を二つ砕く。
染め槽の縁をかすめ、干し台を倒し、開いた入口へ突っ込んだ。
奥で板壁が割れた。
染め槽から跳ねた青い水が、床から通りまで流れ出す。
砕ける音のあとに、悲鳴はなかった。
ガドは石柱から身を起こした。
切れ索を引いた掌は赤く擦れ、ところどころ皮がむけていた。
ブレノも空き場の入口から起きた。
ガドはブレノを見た。
口を開いた。
息が、最初の音だけを押し出す。
「ブ……」
ガドは目の前の男を見たまま、残りの音を飲み込んだ。
唇を結び、握った拳を開いた。
ブレノは裂けた外套の裾を見た。
ガドはブレノへ顔を向けたまま、もう一度口を開いた。
「顔は分からない。さっき、ブレノと呼んだのも、正しかったか分からない」
ガドは、皮のむけた掌を見た。
「だが、今の指示で、俺は索を引いた」
ブレノは右手を開いた。
手当ての布はほどけ、掌から血が落ちている。
「名前を聞くか」
ガドは一度、目をそらした。
それから戻す。
「聞く」
「ブレノだ」
「ガドだ」
「知ってる」
「今は、俺が言ったから知ってることにしろ」
石段の裏から、ネルカが出てきた。
左膝を擦りむいている。
赤い肩掛けは通りに落ちたままだった。
女主人から預かった薬の包みだけは、胸へ抱いている。
「じいさんの薬、割れてない」
門番が石段の裏から顔を出した。
「おまえの膝へ先に塗れ」
「これはじいさんの」
「半分ずつにしろ」
ネルカは包みを開けかけ、ブレノの手を見た。
「そっちも血が出てる」
「その薬は膝用だ」
「じゃあ、何を使うの」
ブレノは切れた手当て布を拾った。
「細い縄と、きれいな布だ」
ネルカは赤い肩掛けを取りに走った。
戻ってきたネルカは、ブレノの前で足を止めた。
赤い肩掛けの端を、両手で細く裂いた。
「結び方、教えて」
ブレノは通りの端へ座った。
「まず、名前を聞け」
「名前は?」
「ブレノ」
「わたしはネルカ」
「知ってる」
「今、わたしが言ったから?」
「そういうことにしよう」
ネルカは裂いた赤い布を、ブレノの掌へ当てた。
ブレノは傷のない左手で、細縄の回し方を教えた。




