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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(8)

     *


 ブレノは荷車の左へ並んだ。


 石道を蹴るたび、車輪が半回転ずつ先へ出る。

 荷台の横木へ左手を伸ばす。

 一度目は届かない。


 二度目で指が掛かった。


 足が浮く。

 左肩を横木へぶつけ、荷台の縁へ腹から乗った。


 四本の丸太が、縄の下で跳ねている。

 右の荷縄は、後ろから弾けた安全索に打たれ、外側の撚りが半分切れていた。

 縄の撚り糸が一本ずつ切れ、車輪が石を踏むたび、ほつれが広がっていく。


「右の縄が切れる!」


 ブレノが叫ぶ。


 ガドは荷車の左後ろを走っていた。

 呼吸は乱れ、片足を引いている。


「右の空き場へ入れる!」


「どうやって!」


 まっすぐ下れば北門へ届く。

 右には、何も置かれていない石敷きの空き場がある。

 奥の低い石垣へぶつければ、荷車は止まる。


「ガド、後ろの切れ索を右へ!」


「届かない!」


 切れ索は荷台の中央から跳ねている。

 ガドが走りながら二度、手を出す。

 先端は指を打っただけで逃げた。


 ブレノは荷台から身を乗り出した。

 右手で切れ索をつかむ。


 傷へ巻いた布が、すぐ赤くなった。


「取った!」


 索を右へ投げる。


 ガドは受け損ねた。

 索が石を打ち、また荷車に引かれる。


「もう一度!」


 ブレノは索を引き寄せた。

 今度は投げる前に、二本指を上げた。


 寄せろ。

 そこを持て。


 ガドは考えるより先に右へ寄り、両手を低く構えた。


 ブレノが投げた。

 ガドは今度こそ受け取り、索に肩を引かれながら、空き場の角にある石柱へ走る。

 リュカが柱の反対側へ回った。


「こっちへ!」


 ガドと二人で、切れ索を柱の裏へ回した。

 石に擦られ、索の勢いが鈍る。

 ガドが端を腰へ回し、リュカはその後ろをつかんだ。

 二人で引く。


 荷車が石の継ぎ目を踏んだ。

 切れかけた右の荷縄は大きく鳴ったが、撚りはそれ以上ほどけなかった。


 ガドは、索を投げる前にブレノが上げた二本指の意味を、ようやく拾った。

 寄せろ。そこを持て。

 十年繰り返した合図どおり、柱へもう半歩寄り、索を引く角度を変えた。


「ブレノ! 空き場へ入れるぞ!」


 ブレノが振り向く。


「遅い! 引け!」


 怒鳴りながら、笑っていた。


 石柱へ回した索が、荷車の右側だけを遅らせた。

 左輪は回り続け、前輪が空の石敷きへ向く。


「まだだ!」


 ブレノは荷台の後ろで、丸太を押さえていた。

 切れかけた荷縄が、腕の下で鳴る。


「放すな!」


 ガドが叫ぶ。


 ガドの腰が、石柱へ引き戻される。

 踵が石の継ぎ目を指一本ぶん滑った。


 前輪が通りを外れ、空の石敷きへ入った。


 リュカは荷車の向きが変わったのを見て、索から手を離し、柱の陰へ退いた。

 ガドも端を放り、その隣へ飛び込む。


 止まっていた右の荷縄の撚りが、一度に切れ始めた。


「飛べ!」


 ガドが叫んだ。


 ブレノは荷台の縁を蹴り、荷車の後ろへ飛び降りた。

 外套の裾が横木へ引っかかる。

 布が裂け、体だけが石敷きへ落ちた。


 荷車の右側の車輪が縁石へ乗り上げ、車体が左へ傾いた。

 前部が、奥の低い石垣へぶつかった。


 車体が跳ね、止まる。


 だが、二本の荷縄のうち、先ほどからほつれていた一本が、ついに切れた。


 丸太の束は片側だけほどけ、一番上の一本が、傾いた荷台から転がり落ちる。

 残った荷縄は下の三本へ食い込み、三本を荷台にとどめた。


 落ちた丸太は通りを横切り、染物屋へ向かった。

 店先の空桶を二つ砕く。

 染め槽の縁をかすめ、干し台を倒し、開いた入口へ突っ込んだ。


 奥で板壁が割れた。

 染め槽から跳ねた青い水が、床から通りまで流れ出す。


 砕ける音のあとに、悲鳴はなかった。


 ガドは石柱から身を起こした。

 切れ索を引いた掌は赤く擦れ、ところどころ皮がむけていた。


 ブレノも空き場の入口から起きた。


 ガドはブレノを見た。


 口を開いた。

 息が、最初の音だけを押し出す。


「ブ……」


 ガドは目の前の男を見たまま、残りの音を飲み込んだ。

 唇を結び、握った拳を開いた。

 ブレノは裂けた外套の裾を見た。

 ガドはブレノへ顔を向けたまま、もう一度口を開いた。


「顔は分からない。さっき、ブレノと呼んだのも、正しかったか分からない」


 ガドは、皮のむけた掌を見た。


「だが、今の指示で、俺は索を引いた」


 ブレノは右手を開いた。

 手当ての布はほどけ、掌から血が落ちている。


「名前を聞くか」


 ガドは一度、目をそらした。

 それから戻す。


「聞く」


「ブレノだ」


「ガドだ」


「知ってる」


「今は、俺が言ったから知ってることにしろ」


 石段の裏から、ネルカが出てきた。

 左膝を擦りむいている。

 赤い肩掛けは通りに落ちたままだった。


 女主人から預かった薬の包みだけは、胸へ抱いている。


「じいさんの薬、割れてない」


 門番が石段の裏から顔を出した。


「おまえの膝へ先に塗れ」


「これはじいさんの」


「半分ずつにしろ」


 ネルカは包みを開けかけ、ブレノの手を見た。


「そっちも血が出てる」


「その薬は膝用だ」


「じゃあ、何を使うの」


 ブレノは切れた手当て布を拾った。


「細い縄と、きれいな布だ」


 ネルカは赤い肩掛けを取りに走った。


 戻ってきたネルカは、ブレノの前で足を止めた。

 赤い肩掛けの端を、両手で細く裂いた。


「結び方、教えて」


 ブレノは通りの端へ座った。


「まず、名前を聞け」


「名前は?」


「ブレノ」


「わたしはネルカ」


「知ってる」


「今、わたしが言ったから?」


「そういうことにしよう」


 ネルカは裂いた赤い布を、ブレノの掌へ当てた。

 ブレノは傷のない左手で、細縄の回し方を教えた。


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