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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(6)

     *


 宿へ戻ると、女主人は土間で赤い布を畳んでいた。

 ネルカの肩掛けだった。

 脇には、油紙で包んだ小さな荷がある。


「北門のじいさんへ届けな」


 女主人は油紙の包みを細縄で結び直し、畳んだ肩掛けの上へ置いた。


 ネルカは指を折りながら、教わった用件を繰り返した。


「膝の薬。日が落ちる前に塗ってもらう。空の壺は、明日の朝に取りに行く」


 そこで指を止め、女主人を見る。


「北通りをまっすぐ。染物屋の角を左」


 女主人はうなずいた。


「そこから石段だよ。荷場の斜路へ入るんじゃない」


「入らない」


 ネルカは赤い肩掛けを巻き、包みを胸へ抱えた。

 ブレノたちを見ると、靴紐へ手をやる。


「まだほどけてない」


「午前だけでほどけたら、結び直しだ」


 ブレノが答える。


 ネルカはブレノの声を聞いて、顔を上げた。

 顔を見ても怯えず、土間を横切った。


「行ってきます」


「鐘が二つ鳴る前に戻りな」


 女主人が言う。


 ネルカは北通りへ走った。

 赤い肩掛けが人の間を抜け、染物屋の青い竿の手前で小さくなる。


 セルマはその後ろ姿が角を曲がるまで見送った。

 それから、女主人へ向き直った。


「ばあさん。この人を知らない男だと思っても、棒を向ける前に名前を聞いて。分からなくなるたびに」


「名前なら、誰だって好きに名乗れる」


「分かってる。それでも、何も聞かずに追い出さないで」


 セルマは隣にいる男を指さず、その顔を見た。


「あんたの名前は」


「さっき聞いただろ」


「覚えてる。それでも、あんたの口からもう一度聞く」


 ブレノは階段の先に見える外套を一度見てから、セルマへ顔を戻した。


「ブレノ」


 セルマは、聞いた名を確かめるように繰り返した。


「ブレノ」


 女主人が棒を取る代わりに、帳場の端へ両手を置いた。


「それでも、九番は空けられないよ」


「二階には俺の服も銅貨もある」


「九番にあるのは、あたしが知ってるブレノの物だ。目の前のあんたへ渡して、明日、盗まれたと騒がない自信がない」


「俺の物を俺から守るのか」


 女主人はブレノの裂けた手を見た。


「今はそうなる。傷の手当てはする。長椅子も貸す。でも、九番の鍵は渡さない」


 ブレノは階段へ進みかけた。

 女主人の指が、帳場の縁をつかみ直す。棒へは伸びない。それでも、階段を空ける気もなかった。

 ブレノは一段目の前で止まり、二階の奥に見える茶色い外套の裾を見上げた。


「長椅子はいらない」


「その手で、外に寝る気か」


 セルマが言う。


「ここに残って。次にあたしたちが、あんたをブレノだと分からなくなっても、また名前を聞けば話せる」


 ブレノは階段に背を向けた。


「だが、朝起きるたび、仕事から戻るたび、棒を向けられて名乗り直すのか」


「棒は向けさせない」


「おまえが俺を忘れてたら、誰を止める」


 セルマの口が閉じた。


「今日一日かければ、九番の男だった証しは並べられる。明日の朝には、また最初からだ」


 ブレノは、自分の外套へ顎を上げた。


「ここで暮らす限り、毎日、自分がブレノだと証明し続けるのか」


「試すつもりじゃない」


「試される側には同じだ」


 台所で鍋の蓋が鳴った。

 いつもの夕食の匂いに、ブレノの鼻がわずかに動く。すぐに階段から顔をそらした。


 セルマは青糸の縄を取り出した。

 青い糸を掌へ隠すように握る。


「ここに残ってほしい」


「今は残れない」


 ブレノは腰の縄を外し、セルマの掌へ重ねた。


「ヨルの縄は、まだ持てない。俺の縄は庇に使え」


 セルマは二本を受け取った。

 ヨルの縄だけを取ろうとした指を止め、二本とも帳場の端へ置いた。


「……町を出るのか」


「北へ行く」


 女主人が帳場の内側で身じろぎした。

 片手が、帳場の縁をつかんだ。


 リュカが初めて口を挟む。


「黒い手袋の男を追うのか」


「違う。ヨルは南へ出た。俺は北へ出る。誰も追わない」


 ブレノは自分で言ってから、苦く笑った。


 女主人は台所へ入り、黒パンと薄切りの干し肉を布に包んで戻った。


「持っていきな」


「九番の銅貨から引くのか」


「九番の物には触らない。知らない旅人に、うちが一食出す」


 女主人は包みを帳場の外へ置いた。

 包みと女主人の間には、帳場の板一枚が残った。


 ブレノは包みを見た。


「それならもらう」


 左手で取り、外套の内へ入れようとする。

 女主人は水桶を持ってきて、出口の前へ置いた。


「血のついた手でパンを割る客は、知ってるやつでも追い出すよ」


 ブレノは土間の腰掛けへ座った。

 右手を桶へ入れる。

 水が薄く赤くなった。


 セルマは布を裂き、傷へ巻こうとした。

 ブレノが手を引く。


「自分でやる」


 セルマは裂いた布をブレノの膝へ置き、手を引いた。


「リュカ」


 ブレノが呼ぶ。


 リュカは首を横へ振った。


「セルマのほうが上手い。布の幅が、傷より少し広い」


 セルマは待った。

 勝手に手を取らなかった。


 ブレノが右手を差し出す。


「きつくするな」


「分かった。今、あんたから聞いた」


 セルマは布を二周させ、手首の外で結んだ。

 結び目を掌へ置けば、縄を握る時に当たる。

 セルマは結び目を、掌の外へずらした。


 セルマは帳場の二本の縄を取った。

 ヨルの縄を腰へ結んだ。

 今度は、青い糸を隠さず外へ向けた。

 ブレノの縄は、土間の入口にある釘へ掛けた。


「庇を直す時、ガドに渡せ」


「ガドも、あんたを思い出せない」


「俺を思い出す必要はない。庇の裂け目は見える」


 ブレノはパン包みを外套の内へ入れた。


 宿を出る時、女主人が呼び止める。


「旅人」


 ブレノとリュカが同時に振り返った。


 女主人の視線が二人の間を一度往復し、ブレノで止まった。


「あんたの名は」


「ブレノ」


「そうか」


 女主人は帳場の布巾を取り上げた。


 ブレノは北通りへ歩き出した。

 セルマは宿の入口から出なかった。


 リュカだけが、通りの真ん中までついていく。


「あんたも北へ来るのか」


「黒い手袋の男は北へ出た」


「顔を覚えてるのか」


「忘れてない。名も」


「なら、忘れる前に追いつけ」


 リュカは答えず、ブレノの横へ並んだ。


 二人は北門へ向かって歩いた。

 通りの店は、夕方の支度を始めている。

 桶屋が外の品を一つずつ内へ入れ、染物屋が青い布を高い竿から外していた。


「そういえば、あの家で柱の傷を見てたな。何が気になってたんだ」


「黒い手袋の男が、古い傷をなぞり直した跡があった」


「何のために」


「それを、本人に聞きに行く」


 ブレノは門の上に見える空を見た。


「俺が町を出たら、あいつらは困ると思うか」


「荷場の右が空く。宿の庇は折れたままだ」


「空くのは、持ち場だけか」


「最初に見えるのは、そこだ。そのあとで、誰がいたかに気づく」


 荷場から、丸太を転がす掛け声が届いた。

 ブレノの爪先が一度だけ声のほうへ向き、北へ戻った。そのまま歩幅が狭くなる。


「南へ行けば、ヨルを追うことになる」


 リュカは答えなかった。


「追いついて、何て言う。名を呼ばれたのに、知らない顔だから何も聞かなかった。悪かった、と?」


 ブレノは、包帯を巻いた右手を外套へ押し込んだ。


「それをヨルの前で言うのが怖い。だから北を選んだ」


「今、誰があんたの背中を押してる」


「追い出された」


「宿の入口には、誰もいない」


 ブレノは立ち止まった。

 怒る代わりに、宿のほうを振り返る。

 セルマの姿はない。

 薄暗い土間に、入口の釘へ掛かった青糸縄だけが見えた。


「……違う。俺は、ヨルと同じように追い出されたわけじゃない」


 ブレノは、青糸縄から目を離した。


「残って町を許す気もない。ヨルの代わりに町を罰する気もない」


「それで、北か」


 ブレノはリュカを見た。


「あんたは黒い手袋を追う。俺は誰も追わない。道は同じでも、行く理由は俺が決めた」


 今度は、少しだけ笑えた。


 荷場のほうで、重い槌が一度鳴った。

 間を置いて、もう一度。


 北門の鐘は、まだ一つも鳴っていない。

 ネルカが戻る時刻までには間があった。


 そう思った直後、荷場から三度目の槌音がした。


 今度は木を打つ音ではない。

 鉄輪が石へ落ちた音だった。


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