第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(6)
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宿へ戻ると、女主人は土間で赤い布を畳んでいた。
ネルカの肩掛けだった。
脇には、油紙で包んだ小さな荷がある。
「北門のじいさんへ届けな」
女主人は油紙の包みを細縄で結び直し、畳んだ肩掛けの上へ置いた。
ネルカは指を折りながら、教わった用件を繰り返した。
「膝の薬。日が落ちる前に塗ってもらう。空の壺は、明日の朝に取りに行く」
そこで指を止め、女主人を見る。
「北通りをまっすぐ。染物屋の角を左」
女主人はうなずいた。
「そこから石段だよ。荷場の斜路へ入るんじゃない」
「入らない」
ネルカは赤い肩掛けを巻き、包みを胸へ抱えた。
ブレノたちを見ると、靴紐へ手をやる。
「まだほどけてない」
「午前だけでほどけたら、結び直しだ」
ブレノが答える。
ネルカはブレノの声を聞いて、顔を上げた。
顔を見ても怯えず、土間を横切った。
「行ってきます」
「鐘が二つ鳴る前に戻りな」
女主人が言う。
ネルカは北通りへ走った。
赤い肩掛けが人の間を抜け、染物屋の青い竿の手前で小さくなる。
セルマはその後ろ姿が角を曲がるまで見送った。
それから、女主人へ向き直った。
「ばあさん。この人を知らない男だと思っても、棒を向ける前に名前を聞いて。分からなくなるたびに」
「名前なら、誰だって好きに名乗れる」
「分かってる。それでも、何も聞かずに追い出さないで」
セルマは隣にいる男を指さず、その顔を見た。
「あんたの名前は」
「さっき聞いただろ」
「覚えてる。それでも、あんたの口からもう一度聞く」
ブレノは階段の先に見える外套を一度見てから、セルマへ顔を戻した。
「ブレノ」
セルマは、聞いた名を確かめるように繰り返した。
「ブレノ」
女主人が棒を取る代わりに、帳場の端へ両手を置いた。
「それでも、九番は空けられないよ」
「二階には俺の服も銅貨もある」
「九番にあるのは、あたしが知ってるブレノの物だ。目の前のあんたへ渡して、明日、盗まれたと騒がない自信がない」
「俺の物を俺から守るのか」
女主人はブレノの裂けた手を見た。
「今はそうなる。傷の手当てはする。長椅子も貸す。でも、九番の鍵は渡さない」
ブレノは階段へ進みかけた。
女主人の指が、帳場の縁をつかみ直す。棒へは伸びない。それでも、階段を空ける気もなかった。
ブレノは一段目の前で止まり、二階の奥に見える茶色い外套の裾を見上げた。
「長椅子はいらない」
「その手で、外に寝る気か」
セルマが言う。
「ここに残って。次にあたしたちが、あんたをブレノだと分からなくなっても、また名前を聞けば話せる」
ブレノは階段に背を向けた。
「だが、朝起きるたび、仕事から戻るたび、棒を向けられて名乗り直すのか」
「棒は向けさせない」
「おまえが俺を忘れてたら、誰を止める」
セルマの口が閉じた。
「今日一日かければ、九番の男だった証しは並べられる。明日の朝には、また最初からだ」
ブレノは、自分の外套へ顎を上げた。
「ここで暮らす限り、毎日、自分がブレノだと証明し続けるのか」
「試すつもりじゃない」
「試される側には同じだ」
台所で鍋の蓋が鳴った。
いつもの夕食の匂いに、ブレノの鼻がわずかに動く。すぐに階段から顔をそらした。
セルマは青糸の縄を取り出した。
青い糸を掌へ隠すように握る。
「ここに残ってほしい」
「今は残れない」
ブレノは腰の縄を外し、セルマの掌へ重ねた。
「ヨルの縄は、まだ持てない。俺の縄は庇に使え」
セルマは二本を受け取った。
ヨルの縄だけを取ろうとした指を止め、二本とも帳場の端へ置いた。
「……町を出るのか」
「北へ行く」
女主人が帳場の内側で身じろぎした。
片手が、帳場の縁をつかんだ。
リュカが初めて口を挟む。
「黒い手袋の男を追うのか」
「違う。ヨルは南へ出た。俺は北へ出る。誰も追わない」
ブレノは自分で言ってから、苦く笑った。
女主人は台所へ入り、黒パンと薄切りの干し肉を布に包んで戻った。
「持っていきな」
「九番の銅貨から引くのか」
「九番の物には触らない。知らない旅人に、うちが一食出す」
女主人は包みを帳場の外へ置いた。
包みと女主人の間には、帳場の板一枚が残った。
ブレノは包みを見た。
「それならもらう」
左手で取り、外套の内へ入れようとする。
女主人は水桶を持ってきて、出口の前へ置いた。
「血のついた手でパンを割る客は、知ってるやつでも追い出すよ」
ブレノは土間の腰掛けへ座った。
右手を桶へ入れる。
水が薄く赤くなった。
セルマは布を裂き、傷へ巻こうとした。
ブレノが手を引く。
「自分でやる」
セルマは裂いた布をブレノの膝へ置き、手を引いた。
「リュカ」
ブレノが呼ぶ。
リュカは首を横へ振った。
「セルマのほうが上手い。布の幅が、傷より少し広い」
セルマは待った。
勝手に手を取らなかった。
ブレノが右手を差し出す。
「きつくするな」
「分かった。今、あんたから聞いた」
セルマは布を二周させ、手首の外で結んだ。
結び目を掌へ置けば、縄を握る時に当たる。
セルマは結び目を、掌の外へずらした。
セルマは帳場の二本の縄を取った。
ヨルの縄を腰へ結んだ。
今度は、青い糸を隠さず外へ向けた。
ブレノの縄は、土間の入口にある釘へ掛けた。
「庇を直す時、ガドに渡せ」
「ガドも、あんたを思い出せない」
「俺を思い出す必要はない。庇の裂け目は見える」
ブレノはパン包みを外套の内へ入れた。
宿を出る時、女主人が呼び止める。
「旅人」
ブレノとリュカが同時に振り返った。
女主人の視線が二人の間を一度往復し、ブレノで止まった。
「あんたの名は」
「ブレノ」
「そうか」
女主人は帳場の布巾を取り上げた。
ブレノは北通りへ歩き出した。
セルマは宿の入口から出なかった。
リュカだけが、通りの真ん中までついていく。
「あんたも北へ来るのか」
「黒い手袋の男は北へ出た」
「顔を覚えてるのか」
「忘れてない。名も」
「なら、忘れる前に追いつけ」
リュカは答えず、ブレノの横へ並んだ。
二人は北門へ向かって歩いた。
通りの店は、夕方の支度を始めている。
桶屋が外の品を一つずつ内へ入れ、染物屋が青い布を高い竿から外していた。
「そういえば、あの家で柱の傷を見てたな。何が気になってたんだ」
「黒い手袋の男が、古い傷をなぞり直した跡があった」
「何のために」
「それを、本人に聞きに行く」
ブレノは門の上に見える空を見た。
「俺が町を出たら、あいつらは困ると思うか」
「荷場の右が空く。宿の庇は折れたままだ」
「空くのは、持ち場だけか」
「最初に見えるのは、そこだ。そのあとで、誰がいたかに気づく」
荷場から、丸太を転がす掛け声が届いた。
ブレノの爪先が一度だけ声のほうへ向き、北へ戻った。そのまま歩幅が狭くなる。
「南へ行けば、ヨルを追うことになる」
リュカは答えなかった。
「追いついて、何て言う。名を呼ばれたのに、知らない顔だから何も聞かなかった。悪かった、と?」
ブレノは、包帯を巻いた右手を外套へ押し込んだ。
「それをヨルの前で言うのが怖い。だから北を選んだ」
「今、誰があんたの背中を押してる」
「追い出された」
「宿の入口には、誰もいない」
ブレノは立ち止まった。
怒る代わりに、宿のほうを振り返る。
セルマの姿はない。
薄暗い土間に、入口の釘へ掛かった青糸縄だけが見えた。
「……違う。俺は、ヨルと同じように追い出されたわけじゃない」
ブレノは、青糸縄から目を離した。
「残って町を許す気もない。ヨルの代わりに町を罰する気もない」
「それで、北か」
ブレノはリュカを見た。
「あんたは黒い手袋を追う。俺は誰も追わない。道は同じでも、行く理由は俺が決めた」
今度は、少しだけ笑えた。
荷場のほうで、重い槌が一度鳴った。
間を置いて、もう一度。
北門の鐘は、まだ一つも鳴っていない。
ネルカが戻る時刻までには間があった。
そう思った直後、荷場から三度目の槌音がした。
今度は木を打つ音ではない。
鉄輪が石へ落ちた音だった。




