第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(5)
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ヨルの家は、宿から北へ三つ目の路地にあった。
隣の家は窓を開けて干し布を揺らし、その向かいでは老人が豆の殻を割っている。
その一軒だけ、昼になっても扉が閉じたままだった。
軒下に、子どもの靴が一足置かれている。
泥の乾いたつま先が、そろって閉じた扉へ向いていた。
ブレノは石段の下で止まった。
「子どもと二人だったな」
「二年、うちの宿にいた。三年目に、この空き家を借りた」
セルマが答える。
ブレノは、閉じた扉の取っ手を見た。
「南門から石切り場まで、小さい荷を運んでた」
「肩が悪くて、重いのは持てなかった」
ブレノは靴を見たまま、つま先の泥を親指で払った。
片方の紐は、ブレノ結びになっていた。
ただし右の輪だけ長い。
「あの子、何度教えても右を長くした」
ブレノがしゃがむ。
「毎朝、右だけ結び直した」
「その子を覚えてるのか」
靴を持ち上げる。
乾いた泥が底から落ちた。
「足が小さかった。走る時は右足を引きずる。冬でも靴下を嫌がる」
「ヨルがどんな顔だったか、思い出せるか」
「……出てこない」
ブレノは靴を戻した。
長い右の輪だけ、指で整える。
「おまえは思い出せるか」
「ヨルって名前は覚えてる。最後に宿へ戻ってきた夜のことも。でも、あの人の顔だけが思い出せない」
セルマは腰から鍵を出した。
「ヨルが返したのか」
「最後に宿へ来た夜に」
ブレノは、セルマの手の鍵と閉じた扉を見比べた。
「それを二か月、持ってたのか」
「そうだ」
セルマの鍵が、錠の前で止まる。
「その夜、ヨルを宿へ入れたのか」
セルマは答えず、鍵を差した。
一度、奥まで入らずに戻る。
歯を上へ向け直し、錠を開けた。
ブレノは、歯を返したセルマの指を見ていた。
指先を追ったまま、ブレノは唇を閉じた。
セルマが扉を押すと、扉の下端が床の埃を薄く押し分けた。
リュカが石段に残った泥を見た。
ブレノとセルマの靴より細い足跡が、子どもの靴の前で止まっている。
そこから入口の右へ半歩だけずれ、左の踵だけ、泥が浅い。
「昨日、ここに立った男がいる」
セルマは鍵を握った手を、外套の脇へ引いた。
「中へは入れてない。鍵も貸してない。黒い服で、両手には黒い革手袋。あの靴を、ずっと見てた」
ブレノはセルマへ振り返ったが、リュカは足跡の途切れた先へしゃがんだ。
入口の右柱を、爪がかかるほど細い溝が腰の高さで横切っている。
古い傷の上に、昨日削れたばかりの白い粉が残っていた。
「この傷は、いつからある」
「ヨルがいなくなった翌朝、家を閉めに来た時にはあった」
リュカは、溝の黒ずんだ底と、その縁に浮いた白い粉を見比べた。
「昨日つけた傷じゃない。前からあった溝を、同じ幅でなぞり直してる」
「じゃあ、ヨルの時から、あの男が」
「そこまでは分からない。少なくとも、昨日つけた傷じゃない。二か月前からあった溝だ」
リュカは、白い粉が浮いた縁だけを指でなぞった。
「何を確かめたのかは、本人に聞く」
リュカは指についた白い粉を払った。
セルマは、開けた扉から手を離さなかった。
「あの男に、ヨルのことを話したな」
ブレノの声に、セルマは扉をさらに押し開いた。
「誰の家か聞かれた。昔、うちの宿にいたヨルという女の家だと答えた」
「顔を思い出せないことまで話したのか」
セルマは鍵の歯を掌へ向けて握り直した。
「あたしが言う前に、あの男が言った。人は出ていったのに、名前と借りだけが残っている、と」
リュカは入口から半歩退いた。
家の中には、低い卓と、空の棚があった。
奥の壁へ子どもの背丈を測った線が五本、炭で引いてある。
いちばん上の線だけ、日付が書かれていない。
ブレノは入口をくぐった。
三歩進み、棚の前の、四角くへこんだ床で止まる。
ブレノは両手を箱の幅に開いた。
右手が傷んで、途中で下がる。
「持ち手が片方、切れてた。底の左を掌で支えて、右は腕へ載せた。軽かった」
「ヨルが、持っていけるだけにしたんだ。子どもの服と毛布だけ詰めた」
セルマは、空の棚と低い卓を見回した。
「鍋も椅子も置いていった。長くいた町から持ち出したのは、あの箱一つだった」
ブレノは両手を下ろした。
「俺には、知らない客の荷だと言った」
セルマは鍵を卓へ置いた。
金属の音が、何もない家に響く。
「その朝、ヨルは南門で荷が足りないと責められた。最初からなかったと言っても、荷主は聞かなかった」
セルマの指が鍵を押さえる。
「顔役に助けを求めたら、その男まで見たことのない運び屋だと言った」
ブレノは、床に残る箱の跡を見た。
「その晩、子どもを背負った女が宿へ来た。足元には、この箱があった」
セルマは鍵を押さえたまま、ブレノを見た。
「あたしは、どちらさまですかって聞いた」
家の外で、豆の殻が割れた。
「女はすみませんって、何度も謝った。名前も、何をしに戻ったのかも聞かなかった。水を一杯渡しただけだ」
「そこへ俺が戻った」
「女はあんたを見て、ブレノって呼んだ」
ブレノの右肘が、箱を支えた位置へ上がる。
「俺は……」
「振り返った。顔を見た。それでも、あたしが知らない客の荷だと言ったら、何も聞かずに箱を持った」
ブレノは箱の跡へしゃがみ、両手を床へ置いた。
「自分の名を知ってる女と南門まで歩いた。なのに、俺もあの女の名前を聞かなかった」
「女は子どもを背負って、あんたの隣を歩いてた」
ブレノは床から手を離した。
「南門で、女は青い縄をあたしに預けた。子どもの靴を直してくれた礼に、あんたへ渡してくれって」
ブレノの左手が、腰の青糸縄へ下がった。
「そのまま、女が門をくぐるのを見てた」
セルマは、鍵を半回転させた。
「翌朝、返された鍵でこの家を開けた。ヨルも子どももいない。箱もなかった」
回った鍵の歯が卓を擦り、止まった。
「そこでやっと、昨夜の女とヨルが同じ人だったんじゃないかと思った」
セルマは、ブレノではなく箱の跡を見ていた。
「顔は今も出てこない」
ブレノは腰の縄を握った。
「それでも、この縄は二か月、物置にあった」
「渡したら、あんたなら追った」
「追わせるべきだった」
セルマの爪が鍵から外れた。
鍵が卓の縁まで滑った。
「追えば、そのまま町を出ると思った。ヨルがいなくなったあとで、あんたまでいなくなるのが怖かった」
ブレノは立ち上がった。
「だから、俺を二か月残した」
セルマは答えず、卓から落ちかけた鍵を掌で止めた。
ブレノはその鍵を、セルマの前へ押し戻した。
セルマは押し戻された鍵から手を引いた。
「殴るなら殴れ」
ブレノは動かなかった。
セルマはブレノの顔を見上げた。
セルマは、外套や腰縄ではなく、目と口と、伸びた髭を見つめた。
「あんたは誰だ」
セルマは入口へ一歩下がった。
だが、背中が柱へ触れる前に止まった。
卓には、自分が滑らせ、ブレノが押し戻した鍵がある。
腰の青糸縄に触れているのも、さっきまで話していた男の左手だった。
「話したことは覚えてる。鍵を開けたことも、縄を渡したことも」
セルマは、知らない顔から目をそらさなかった。
「顔だけが、また分からない」
「俺もヨルの顔は思い出せない。それでも、あの人を知らなかったことにはならない」
ブレノは、腰の青糸縄を見た。
「知らない顔のまま箱を運んだことも、なくならない」
「分からなくなるたび、名前を聞けと言ったな」
「言った」
「名前を聞かせて」
ブレノの喉が動いた。
ブレノは腰の青糸縄を一度引いた。
結び目が掌の傷へ触れ、右手が開いた。
ひと息置いて、セルマを見る。
「ブレノだ」
セルマは一度、うなずいた。
「ブレノ。あたしはセルマ」
「知ってる」
「今は、あたしが言ったから知ってることにしろ」
ブレノは腰から二本の青糸縄を外した。
ヨルの縄だけを床へ置き、自分の縄は腰へ戻した。
セルマは床の縄を拾った。
握りしめず、ほどけたまま掌へ載せる。
家を出る時、リュカは入口の白い溝をもう一度見た。
石段の下に、左の踵だけ浅い足跡がもう一つ残っている。
つま先は、北の通りへ向いていた。
リュカの視線が北の通りをたどる。
遠くの荷場で、木槌が不揃いに鳴っていた。
ブレノは軒下の子どもの靴を見た。
長い右の輪へ指を伸ばしかけ、そのまま手を下ろした。




