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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(5)

     *


 ヨルの家は、宿から北へ三つ目の路地にあった。

 隣の家は窓を開けて干し布を揺らし、その向かいでは老人が豆の殻を割っている。

 その一軒だけ、昼になっても扉が閉じたままだった。


 軒下に、子どもの靴が一足置かれている。

 泥の乾いたつま先が、そろって閉じた扉へ向いていた。


 ブレノは石段の下で止まった。


「子どもと二人だったな」


「二年、うちの宿にいた。三年目に、この空き家を借りた」


 セルマが答える。

 ブレノは、閉じた扉の取っ手を見た。


「南門から石切り場まで、小さい荷を運んでた」


「肩が悪くて、重いのは持てなかった」


 ブレノは靴を見たまま、つま先の泥を親指で払った。

 片方の紐は、ブレノ結びになっていた。

 ただし右の輪だけ長い。


「あの子、何度教えても右を長くした」


 ブレノがしゃがむ。


「毎朝、右だけ結び直した」


「その子を覚えてるのか」


 靴を持ち上げる。

 乾いた泥が底から落ちた。


「足が小さかった。走る時は右足を引きずる。冬でも靴下を嫌がる」


「ヨルがどんな顔だったか、思い出せるか」


「……出てこない」


 ブレノは靴を戻した。

 長い右の輪だけ、指で整える。


「おまえは思い出せるか」


「ヨルって名前は覚えてる。最後に宿へ戻ってきた夜のことも。でも、あの人の顔だけが思い出せない」


 セルマは腰から鍵を出した。


「ヨルが返したのか」


「最後に宿へ来た夜に」


 ブレノは、セルマの手の鍵と閉じた扉を見比べた。


「それを二か月、持ってたのか」


「そうだ」


 セルマの鍵が、錠の前で止まる。


「その夜、ヨルを宿へ入れたのか」


 セルマは答えず、鍵を差した。

 一度、奥まで入らずに戻る。

 歯を上へ向け直し、錠を開けた。

 ブレノは、歯を返したセルマの指を見ていた。

 指先を追ったまま、ブレノは唇を閉じた。


 セルマが扉を押すと、扉の下端が床の埃を薄く押し分けた。


 リュカが石段に残った泥を見た。

 ブレノとセルマの靴より細い足跡が、子どもの靴の前で止まっている。

 そこから入口の右へ半歩だけずれ、左の踵だけ、泥が浅い。


「昨日、ここに立った男がいる」


 セルマは鍵を握った手を、外套の脇へ引いた。


「中へは入れてない。鍵も貸してない。黒い服で、両手には黒い革手袋。あの靴を、ずっと見てた」


 ブレノはセルマへ振り返ったが、リュカは足跡の途切れた先へしゃがんだ。

 入口の右柱を、爪がかかるほど細い溝が腰の高さで横切っている。

 古い傷の上に、昨日削れたばかりの白い粉が残っていた。


「この傷は、いつからある」


「ヨルがいなくなった翌朝、家を閉めに来た時にはあった」


 リュカは、溝の黒ずんだ底と、その縁に浮いた白い粉を見比べた。


「昨日つけた傷じゃない。前からあった溝を、同じ幅でなぞり直してる」


「じゃあ、ヨルの時から、あの男が」


「そこまでは分からない。少なくとも、昨日つけた傷じゃない。二か月前からあった溝だ」


 リュカは、白い粉が浮いた縁だけを指でなぞった。


「何を確かめたのかは、本人に聞く」


 リュカは指についた白い粉を払った。

 セルマは、開けた扉から手を離さなかった。


「あの男に、ヨルのことを話したな」


 ブレノの声に、セルマは扉をさらに押し開いた。


「誰の家か聞かれた。昔、うちの宿にいたヨルという女の家だと答えた」


「顔を思い出せないことまで話したのか」


 セルマは鍵の歯を掌へ向けて握り直した。


「あたしが言う前に、あの男が言った。人は出ていったのに、名前と借りだけが残っている、と」


 リュカは入口から半歩退いた。

 家の中には、低い卓と、空の棚があった。

 奥の壁へ子どもの背丈を測った線が五本、炭で引いてある。

 いちばん上の線だけ、日付が書かれていない。


 ブレノは入口をくぐった。

 三歩進み、棚の前の、四角くへこんだ床で止まる。

 ブレノは両手を箱の幅に開いた。

 右手が傷んで、途中で下がる。


「持ち手が片方、切れてた。底の左を掌で支えて、右は腕へ載せた。軽かった」


「ヨルが、持っていけるだけにしたんだ。子どもの服と毛布だけ詰めた」


 セルマは、空の棚と低い卓を見回した。


「鍋も椅子も置いていった。長くいた町から持ち出したのは、あの箱一つだった」


 ブレノは両手を下ろした。


「俺には、知らない客の荷だと言った」


 セルマは鍵を卓へ置いた。

 金属の音が、何もない家に響く。


「その朝、ヨルは南門で荷が足りないと責められた。最初からなかったと言っても、荷主は聞かなかった」


 セルマの指が鍵を押さえる。


「顔役に助けを求めたら、その男まで見たことのない運び屋だと言った」


 ブレノは、床に残る箱の跡を見た。


「その晩、子どもを背負った女が宿へ来た。足元には、この箱があった」


 セルマは鍵を押さえたまま、ブレノを見た。


「あたしは、どちらさまですかって聞いた」


 家の外で、豆の殻が割れた。


「女はすみませんって、何度も謝った。名前も、何をしに戻ったのかも聞かなかった。水を一杯渡しただけだ」


「そこへ俺が戻った」


「女はあんたを見て、ブレノって呼んだ」


 ブレノの右肘が、箱を支えた位置へ上がる。


「俺は……」


「振り返った。顔を見た。それでも、あたしが知らない客の荷だと言ったら、何も聞かずに箱を持った」


 ブレノは箱の跡へしゃがみ、両手を床へ置いた。


「自分の名を知ってる女と南門まで歩いた。なのに、俺もあの女の名前を聞かなかった」


「女は子どもを背負って、あんたの隣を歩いてた」


 ブレノは床から手を離した。


「南門で、女は青い縄をあたしに預けた。子どもの靴を直してくれた礼に、あんたへ渡してくれって」


 ブレノの左手が、腰の青糸縄へ下がった。


「そのまま、女が門をくぐるのを見てた」


 セルマは、鍵を半回転させた。


「翌朝、返された鍵でこの家を開けた。ヨルも子どももいない。箱もなかった」


 回った鍵の歯が卓を擦り、止まった。


「そこでやっと、昨夜の女とヨルが同じ人だったんじゃないかと思った」


 セルマは、ブレノではなく箱の跡を見ていた。


「顔は今も出てこない」


 ブレノは腰の縄を握った。


「それでも、この縄は二か月、物置にあった」


「渡したら、あんたなら追った」


「追わせるべきだった」


 セルマの爪が鍵から外れた。

 鍵が卓の縁まで滑った。


「追えば、そのまま町を出ると思った。ヨルがいなくなったあとで、あんたまでいなくなるのが怖かった」


 ブレノは立ち上がった。


「だから、俺を二か月残した」


 セルマは答えず、卓から落ちかけた鍵を掌で止めた。

 ブレノはその鍵を、セルマの前へ押し戻した。

 セルマは押し戻された鍵から手を引いた。


「殴るなら殴れ」


 ブレノは動かなかった。

 セルマはブレノの顔を見上げた。


 セルマは、外套や腰縄ではなく、目と口と、伸びた髭を見つめた。


「あんたは誰だ」


 セルマは入口へ一歩下がった。

 だが、背中が柱へ触れる前に止まった。


 卓には、自分が滑らせ、ブレノが押し戻した鍵がある。

 腰の青糸縄に触れているのも、さっきまで話していた男の左手だった。


「話したことは覚えてる。鍵を開けたことも、縄を渡したことも」


 セルマは、知らない顔から目をそらさなかった。


「顔だけが、また分からない」


「俺もヨルの顔は思い出せない。それでも、あの人を知らなかったことにはならない」


 ブレノは、腰の青糸縄を見た。


「知らない顔のまま箱を運んだことも、なくならない」


「分からなくなるたび、名前を聞けと言ったな」


「言った」


「名前を聞かせて」


 ブレノの喉が動いた。


 ブレノは腰の青糸縄を一度引いた。

 結び目が掌の傷へ触れ、右手が開いた。

 ひと息置いて、セルマを見る。


「ブレノだ」


 セルマは一度、うなずいた。


「ブレノ。あたしはセルマ」


「知ってる」


「今は、あたしが言ったから知ってることにしろ」


 ブレノは腰から二本の青糸縄を外した。

 ヨルの縄だけを床へ置き、自分の縄は腰へ戻した。


 セルマは床の縄を拾った。

 握りしめず、ほどけたまま掌へ載せる。


 家を出る時、リュカは入口の白い溝をもう一度見た。

 石段の下に、左の踵だけ浅い足跡がもう一つ残っている。

 つま先は、北の通りへ向いていた。


 リュカの視線が北の通りをたどる。

 遠くの荷場で、木槌が不揃いに鳴っていた。


 ブレノは軒下の子どもの靴を見た。

 長い右の輪へ指を伸ばしかけ、そのまま手を下ろした。


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