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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(4)

     *


 セルマが向かったのは、ヨルの家ではなかった。

 宿の裏口を開け、中庭を横切り、薪小屋の隣にある物置の前で足を止めた。


「結局、物を調べるのか」


「あんたが誰かを決めるためじゃない。あたしが何を覚えてるか確かめるためだ」


 セルマは物置の掛け金を外した。

 右手で扉の右端を持ち上げ、左手で押す。

 扉は床を擦らず、音も立てずに開いた。


「その開け方は、覚えてるんだな」


 ブレノが言った。

 セルマは扉から手を離し、自分の右手を見た。


「毎朝ね」


「春に下の蝶番が外れた。俺が替えたが、扉の歪みは残った。それで、右を持ち上げろと教えた」


 リュカは中へ入らず、入口の蝶番を見た。

 下のねじは新しく、上は錆びている。


 セルマは下の新しいねじと、錆びた上のねじを見比べた。


「下の蝶番が外れたことも、開け方を教わったことも覚えてる。でも、その相手があんただとは思い出せない」


 セルマは物置へ入った。ブレノは入口で立ち止まった。

 セルマが暗がりへ腕を伸ばし、壁の掛け金を外す。

 高窓の鎧戸が開いた。

 斜めに入った光の中で、縄の毛羽と埃が舞った。


 セルマは棚の下から木箱を引き出した。

 中には曲がった釘、錆びた錠、使いかけの蝋燭、片方だけの手袋が入っている。

 その下から、小さな麻袋を取り出した。


「数えな」


 ブレノへ投げる。

 ブレノは右手の傷をかばい、左で受けた。


 袋の底を、左の親指で押した。


「七枚」


「六枚だ」


「一枚、袋の底の隅に挟まってる」


 セルマが袋を奪い、口を開けた。

 六枚を掌へ出す。

 底の隅を裏返すと、黒ずんだ一枚が落ちた。


「去年の冬、あんたが宿代に置いた」


「置いてない。おまえが俺の上着から抜いた」


「宿代を三か月分も溜めたからだ」


「二か月分だ」


「三か月分」


「最初のひと月は、屋根の雪を下ろして払った」


「ばあさんは認めてない」


「おまえは認めた」


 セルマは七枚の銅貨を掌で鳴らした。

 黒ずんだ一枚が、指の上でひとつ跳ねた。


「そうだ。あたしは――」


 顔を上げる。


 ブレノを見た途端、開いた口を閉じた。


 セルマは銅貨を袋へ戻した。

 一枚ずつ数え、最後の一枚を底の隅へ押し込む。

 袋を閉じてから、セルマは自分の指を見た。


「次だ」


「まだやるのか」


「黙れ」


 棚の上から、茶色い布を引っぱり出す。

 焦げ跡のある外套の切れ端だった。


「二年前、あんたは酔って台所へ入ってきて、炉で袖を焦がした」


「酔ってない。ネルカが炉のそばで転んだ」


「あの子は五つだった」


「だから抱き上げた。袖はその時、火へ触れた」


 セルマの手が止まる。


「あたしは、あんたを笑った」


「笑ったな。髪にも火が移ってるのに、俺の顔が間抜けだって」


「あんたは怒った」


「怒ってない」


「怒った」


「おまえの頭へ水を掛けただけだ」


「それを怒ったって言うんだ」


 セルマは笑った。

 今度は、ブレノの顔を見ないまま笑った。


 セルマは麻袋を棚へ戻した。


「顔を見ろ」


 ブレノが言った。


 笑いが止まった。


「ブレノ」


「見ろ」


 セルマは外套の切れ端を握ったまま、ゆっくり顔を上げた。

 目が合った。


 切れ端を返そうと、手がわずかに伸びた。

 だが、ブレノの顔を見たまま、セルマは手を引き戻し、布を胸元へ抱え込んだ。


 セルマは物置の壁へ背をつけた。


「近づくな」


 ブレノは動いていなかった。


「今のが答えだ」


「違う」


「何が」


「あたしは、あんたのことを覚えてる」


「焦がした袖を覚えてる。蹴った柱を覚えてる。返してない銅貨を覚えてる」


 ブレノは棚を指した。


「俺じゃない」


「でも、どれもあんたのものだ」


 声は大きくなかった。

 セルマは空いた手で箱の縁をつかみ、次の言葉を待った。


「物を並べて、俺を作ったつもりになるな」


 ブレノは、棚に戻された銅貨と焦げた布を見た。


「俺が何を壊したか、何を借りたか、何を直さなかったか。全部合わせても、俺の顔一つにならない」


「じゃあ、どうしろって言うんだ」


「俺にも、何を証拠にすればいいか分からない」


「あたしだって知らない!」


 セルマは握っていた布を箱へ投げ込んだ。

 焦げた端が、箱の縁から垂れた。


 セルマは両腕を抱き、爪を袖へ立てた。


「朝起きたら、宿に知らない男の外套がある」


 爪が、袖の布を深くへこませた。


「あたしの頭には、そいつと喧嘩したことも、笑ったことも、金を貸したこともある」


「けど顔だけがない。目の前のあんたが、その男だって、何で決められる」


「決めなくていい」


「よくない」


「俺は困るけど、おまえが決められないのは、おまえの問題だ」


 セルマがブレノを睨んだ。


「ずいぶん勝手だな」


「十年忘れられた朝くらい、勝手にさせろ」


 外で、ネルカが桶を引きずる音がした。


「セルマ。水、こぼした」


「今行く!」


 怒鳴ってから、セルマの手は箱の縁に残った。

 指先の埃だけが、箱の内側へ落ちた。


 リュカが入口から言う。


「ネルカは、靴を渡した」


「何だよ」


「知らない男に、靴を渡した。結べるか聞いてから」


「子どもだからだ」


「大人は、知ってる物を先に並べる」


 セルマは床の布を拾った。

 埃を払い、箱へ入れる。


「あんたは何が言いたい」


「まだ何も」


 リュカは上の蝶番へ触れた。


「ただ、誰に教わったか思い出せなくても、あんたはこの扉を開けた」


「人と扉を一緒にするな」


「してない。人のほうが難しいと言ってる」


 ブレノが鼻で息を吐いた。


「旅人。あんた、たまに人を腹立たせるな」


「たまにじゃない」


 セルマが答えた。

 ブレノが、短く笑った。


 セルマは箱へ手を入れたまま、急に言った。


「あたしが、あんたに何かしたことはないのか」


「さっき、銅貨の袋を投げただろ」


「そうじゃない」


「金を抜いた」


「それも違う」


 セルマは箱の底へ指を這わせた。


「物じゃないことで、あたしがあんたにしたこと。何か一つ言え」


 セルマは語尾を強く切った。

 だが、ブレノがすぐ答えないと、指が箱の縁をつかんだ。


「ないのか」


「探してる」


「十年もあって、探すのかよ」


「悪いことなら先に出る」


「もういい」


「熱を出した夜」


 セルマの手が止まった。


「五年前だ。流行り熱で、宿の客を別棟へ移した。俺は九番へ残された」


「うつるからだ」


「おまえは部屋へ入らなかった」


「当たり前だ」


「階段の下で、一晩起きてた。俺が水って言うたび、扉の前へ置いた」


 セルマは暗い棚の奥を見た。


「階段を何度も上がったことは覚えてる」


「俺のこともか」


「顔はない。階段の下が寒かったことと、扉の向こうで水を飲む音だけだ」


 セルマの視線が、棚からブレノへ戻った。


「礼は言ったか」


「治った朝、うつしてやるって追い回した」


「最低だな」


「おまえは火掻き棒を持って逃げた」


「ばあさんが、病み上がりを走らせるなってあんたを殴った」


「そこは覚えてるのか」


 セルマは箱の縁から手を離し、物置の入口越しに宿の階段を見た。


 セルマは一度だけ、「ブレノ」と呼んだ。

 次の瞬間、唇を閉じ、男の顔を見直した。

 知らない顔だった。


 それでもセルマは、半歩も退かなかった。


「名前を呼んでも、またあんただと分からなくなる」


「そうみたいだな」


「また忘れたら、あたしはどうすればいい」


 ブレノは、床に落ちた埃を靴先で寄せた。


「そのたび、俺に名前を聞け」


 セルマは箱の底から、短い荷縄を取り出した。

 端に青い糸が三巻きしてある。


 ブレノの腰にあるものと同じ印だった。


「これは、ヨルの家から持ってきた」


 ブレノは青糸の縄へ身を乗り出した。


「いつだ」


「ヨルがいなくなった翌朝。あんたに渡すつもりで持ち帰った」


 ブレノが左手を出した。

 セルマは荷縄を握り込み、青糸を掌へ隠した。


「これを渡したら、あんたまで町を出ると思った」


 差し出した左手が、自分の腰の短縄へ下がった。


「俺を町に残すために、縄を隠した。それで、ヨルは俺に何も残してないと嘘をついた」


「そうだ」


「ヨルのことで、まだ黙ってることがあるのか」


 セルマは荷縄を握ったまま、物置を出た。


「ヨルの家で話す」


 セルマは振り返らず、荷縄をブレノへ差し出した。

 ブレノは左手で受け取り、自分の腰縄と並べた。


「行く。ヨルのことを、今度は全部話せ」


 中庭へ出ると、ネルカが倒した桶のそばで立っていた。

 水は石の溝を通り、北通りのほうへ流れている。


 ブレノは桶を起こそうとした。

 女主人が土間から見ていることに気づき、手を止めた。


 代わりにネルカが桶を起こした。


「これもブレノ結びにする?」


 取っ手の縄を指す。


「水桶には向かない」


「どうして」


「引っぱる向きが違う」


「じゃあ、今度教えて」


 青い靴のつま先が、二度、床板を鳴らした。

 ネルカはその足で階段を上がった。


 ブレノは少し遅れて、うなずいた。


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