第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(4)
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セルマが向かったのは、ヨルの家ではなかった。
宿の裏口を開け、中庭を横切り、薪小屋の隣にある物置の前で足を止めた。
「結局、物を調べるのか」
「あんたが誰かを決めるためじゃない。あたしが何を覚えてるか確かめるためだ」
セルマは物置の掛け金を外した。
右手で扉の右端を持ち上げ、左手で押す。
扉は床を擦らず、音も立てずに開いた。
「その開け方は、覚えてるんだな」
ブレノが言った。
セルマは扉から手を離し、自分の右手を見た。
「毎朝ね」
「春に下の蝶番が外れた。俺が替えたが、扉の歪みは残った。それで、右を持ち上げろと教えた」
リュカは中へ入らず、入口の蝶番を見た。
下のねじは新しく、上は錆びている。
セルマは下の新しいねじと、錆びた上のねじを見比べた。
「下の蝶番が外れたことも、開け方を教わったことも覚えてる。でも、その相手があんただとは思い出せない」
セルマは物置へ入った。ブレノは入口で立ち止まった。
セルマが暗がりへ腕を伸ばし、壁の掛け金を外す。
高窓の鎧戸が開いた。
斜めに入った光の中で、縄の毛羽と埃が舞った。
セルマは棚の下から木箱を引き出した。
中には曲がった釘、錆びた錠、使いかけの蝋燭、片方だけの手袋が入っている。
その下から、小さな麻袋を取り出した。
「数えな」
ブレノへ投げる。
ブレノは右手の傷をかばい、左で受けた。
袋の底を、左の親指で押した。
「七枚」
「六枚だ」
「一枚、袋の底の隅に挟まってる」
セルマが袋を奪い、口を開けた。
六枚を掌へ出す。
底の隅を裏返すと、黒ずんだ一枚が落ちた。
「去年の冬、あんたが宿代に置いた」
「置いてない。おまえが俺の上着から抜いた」
「宿代を三か月分も溜めたからだ」
「二か月分だ」
「三か月分」
「最初のひと月は、屋根の雪を下ろして払った」
「ばあさんは認めてない」
「おまえは認めた」
セルマは七枚の銅貨を掌で鳴らした。
黒ずんだ一枚が、指の上でひとつ跳ねた。
「そうだ。あたしは――」
顔を上げる。
ブレノを見た途端、開いた口を閉じた。
セルマは銅貨を袋へ戻した。
一枚ずつ数え、最後の一枚を底の隅へ押し込む。
袋を閉じてから、セルマは自分の指を見た。
「次だ」
「まだやるのか」
「黙れ」
棚の上から、茶色い布を引っぱり出す。
焦げ跡のある外套の切れ端だった。
「二年前、あんたは酔って台所へ入ってきて、炉で袖を焦がした」
「酔ってない。ネルカが炉のそばで転んだ」
「あの子は五つだった」
「だから抱き上げた。袖はその時、火へ触れた」
セルマの手が止まる。
「あたしは、あんたを笑った」
「笑ったな。髪にも火が移ってるのに、俺の顔が間抜けだって」
「あんたは怒った」
「怒ってない」
「怒った」
「おまえの頭へ水を掛けただけだ」
「それを怒ったって言うんだ」
セルマは笑った。
今度は、ブレノの顔を見ないまま笑った。
セルマは麻袋を棚へ戻した。
「顔を見ろ」
ブレノが言った。
笑いが止まった。
「ブレノ」
「見ろ」
セルマは外套の切れ端を握ったまま、ゆっくり顔を上げた。
目が合った。
切れ端を返そうと、手がわずかに伸びた。
だが、ブレノの顔を見たまま、セルマは手を引き戻し、布を胸元へ抱え込んだ。
セルマは物置の壁へ背をつけた。
「近づくな」
ブレノは動いていなかった。
「今のが答えだ」
「違う」
「何が」
「あたしは、あんたのことを覚えてる」
「焦がした袖を覚えてる。蹴った柱を覚えてる。返してない銅貨を覚えてる」
ブレノは棚を指した。
「俺じゃない」
「でも、どれもあんたのものだ」
声は大きくなかった。
セルマは空いた手で箱の縁をつかみ、次の言葉を待った。
「物を並べて、俺を作ったつもりになるな」
ブレノは、棚に戻された銅貨と焦げた布を見た。
「俺が何を壊したか、何を借りたか、何を直さなかったか。全部合わせても、俺の顔一つにならない」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「俺にも、何を証拠にすればいいか分からない」
「あたしだって知らない!」
セルマは握っていた布を箱へ投げ込んだ。
焦げた端が、箱の縁から垂れた。
セルマは両腕を抱き、爪を袖へ立てた。
「朝起きたら、宿に知らない男の外套がある」
爪が、袖の布を深くへこませた。
「あたしの頭には、そいつと喧嘩したことも、笑ったことも、金を貸したこともある」
「けど顔だけがない。目の前のあんたが、その男だって、何で決められる」
「決めなくていい」
「よくない」
「俺は困るけど、おまえが決められないのは、おまえの問題だ」
セルマがブレノを睨んだ。
「ずいぶん勝手だな」
「十年忘れられた朝くらい、勝手にさせろ」
外で、ネルカが桶を引きずる音がした。
「セルマ。水、こぼした」
「今行く!」
怒鳴ってから、セルマの手は箱の縁に残った。
指先の埃だけが、箱の内側へ落ちた。
リュカが入口から言う。
「ネルカは、靴を渡した」
「何だよ」
「知らない男に、靴を渡した。結べるか聞いてから」
「子どもだからだ」
「大人は、知ってる物を先に並べる」
セルマは床の布を拾った。
埃を払い、箱へ入れる。
「あんたは何が言いたい」
「まだ何も」
リュカは上の蝶番へ触れた。
「ただ、誰に教わったか思い出せなくても、あんたはこの扉を開けた」
「人と扉を一緒にするな」
「してない。人のほうが難しいと言ってる」
ブレノが鼻で息を吐いた。
「旅人。あんた、たまに人を腹立たせるな」
「たまにじゃない」
セルマが答えた。
ブレノが、短く笑った。
セルマは箱へ手を入れたまま、急に言った。
「あたしが、あんたに何かしたことはないのか」
「さっき、銅貨の袋を投げただろ」
「そうじゃない」
「金を抜いた」
「それも違う」
セルマは箱の底へ指を這わせた。
「物じゃないことで、あたしがあんたにしたこと。何か一つ言え」
セルマは語尾を強く切った。
だが、ブレノがすぐ答えないと、指が箱の縁をつかんだ。
「ないのか」
「探してる」
「十年もあって、探すのかよ」
「悪いことなら先に出る」
「もういい」
「熱を出した夜」
セルマの手が止まった。
「五年前だ。流行り熱で、宿の客を別棟へ移した。俺は九番へ残された」
「うつるからだ」
「おまえは部屋へ入らなかった」
「当たり前だ」
「階段の下で、一晩起きてた。俺が水って言うたび、扉の前へ置いた」
セルマは暗い棚の奥を見た。
「階段を何度も上がったことは覚えてる」
「俺のこともか」
「顔はない。階段の下が寒かったことと、扉の向こうで水を飲む音だけだ」
セルマの視線が、棚からブレノへ戻った。
「礼は言ったか」
「治った朝、うつしてやるって追い回した」
「最低だな」
「おまえは火掻き棒を持って逃げた」
「ばあさんが、病み上がりを走らせるなってあんたを殴った」
「そこは覚えてるのか」
セルマは箱の縁から手を離し、物置の入口越しに宿の階段を見た。
セルマは一度だけ、「ブレノ」と呼んだ。
次の瞬間、唇を閉じ、男の顔を見直した。
知らない顔だった。
それでもセルマは、半歩も退かなかった。
「名前を呼んでも、またあんただと分からなくなる」
「そうみたいだな」
「また忘れたら、あたしはどうすればいい」
ブレノは、床に落ちた埃を靴先で寄せた。
「そのたび、俺に名前を聞け」
セルマは箱の底から、短い荷縄を取り出した。
端に青い糸が三巻きしてある。
ブレノの腰にあるものと同じ印だった。
「これは、ヨルの家から持ってきた」
ブレノは青糸の縄へ身を乗り出した。
「いつだ」
「ヨルがいなくなった翌朝。あんたに渡すつもりで持ち帰った」
ブレノが左手を出した。
セルマは荷縄を握り込み、青糸を掌へ隠した。
「これを渡したら、あんたまで町を出ると思った」
差し出した左手が、自分の腰の短縄へ下がった。
「俺を町に残すために、縄を隠した。それで、ヨルは俺に何も残してないと嘘をついた」
「そうだ」
「ヨルのことで、まだ黙ってることがあるのか」
セルマは荷縄を握ったまま、物置を出た。
「ヨルの家で話す」
セルマは振り返らず、荷縄をブレノへ差し出した。
ブレノは左手で受け取り、自分の腰縄と並べた。
「行く。ヨルのことを、今度は全部話せ」
中庭へ出ると、ネルカが倒した桶のそばで立っていた。
水は石の溝を通り、北通りのほうへ流れている。
ブレノは桶を起こそうとした。
女主人が土間から見ていることに気づき、手を止めた。
代わりにネルカが桶を起こした。
「これもブレノ結びにする?」
取っ手の縄を指す。
「水桶には向かない」
「どうして」
「引っぱる向きが違う」
「じゃあ、今度教えて」
青い靴のつま先が、二度、床板を鳴らした。
ネルカはその足で階段を上がった。
ブレノは少し遅れて、うなずいた。




