第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(3)
*
荷場へ戻る間、セルマは折れた庇板をブレノとの間に抱えて歩いた。
半歩後ろから、外套の焦げた袖と横顔を交互に見ている。
ブレノが振り返ると、顔から視線をそらす。
「見れば見るほど知らない顔になるか」
「黙って歩け」
「答えになってない」
「答えがあったら、荷場へ戻ってない」
セルマは折れた庇板を抱えたままだった。
板の端から、曲がった釘が出ている。
「それ、何で持ってきた」
「あんたに直させるため」
「知らない男を屋根へ上げるのか」
「うるさい」
声は荒いが、歩みは速くならなかった。
ブレノが遅れると、セルマも庇板を抱えたまま足を緩めた。
リュカはさらに後ろを歩き、二人の足運びを見ていた。
セルマは、ブレノが顔を向けるたび石一枚ぶん外へ寄る。
話す時だけ、また元の距離へ戻った。
「セルマ」
「何だよ、旅人」
「あんたは、その男の何を知ってる」
「顔以外」
セルマはすぐに答えた。
「顔だけが違うのか」
「違うんじゃない。抜けてるんだ」
その言い方をした後、セルマは自分のこめかみを押さえた。
「ブレノは、寝る時に靴をそろえない。熱い豆を急いで食って、毎回、上あごを火傷する」
セルマは庇板の曲がった釘を、親指で押さえた。
「稼いだ日は先に酒代を払って、宿代は忘れる」
「おまえが帳場で怒鳴るところまでが、俺の一日だ」
セルマはリュカとブレノを見比べた。
抱えた庇板が、一度だけ軽く揺れた。
ブレノの顔を見ると、板を胸へ抱き直した。
荷場では、外れた丸太が四人がかりで荷台へ戻されていた。
右の荷縄も締め直されている。
ガドは割れた制動棒の下へ潜り、油布で木屑を拭っている。
「戻ってくるなと言った」
荷台の下から、ブレノの靴を見ただけで言った。
「セルマを見てないだろ」
「その板を抱えて荷場へ来る女は一人しかいない」
ガドは這い出した。
「宿の庇なら午後に直す。今は手が離せない」
セルマが庇板をガドの胸へ押しつけた。
「あんた、これを誰と直すつもりだった」
「ブレノだ」
「どこにいる」
「知らん」
「探さないのか」
「朝からいない。酒場で寝てるか、またヨルの家へ――」
ガドはそこで言葉を止めた。
ブレノが一歩近づく。
「ヨルの家へ、何だ」
「おまえには関係ない」
「その続きを知ってるのは、俺だからだ」
「聞き耳まで立てたのか」
ガドは庇板を地面へ置いた。
「セルマ。そいつを宿へ戻すな。俺たちの話を知りすぎてる」
「知りすぎてるんじゃない」
セルマはブレノの右手をつかんだ。
裂けた傷に触れ、ブレノが顔をしかめる。
「悪い」
セルマは手を離しかけた。
だが、血のついた掌をガドへ向けるため、手首だけを持ち直した。
「この傷を見な。今朝、あんたと荷を止めた傷だ」
「見ていたのか」
「見てなくても分かる」
「だったら証しにならない」
ガドはブレノの手を見た。
掌の裂け目から、縄の撚りに沿って斜めの赤い筋が何本も走っている。
「荷縄で切った手だ。ここで働くやつなら誰でも作る」
「こいつの傷は、いつも右の掌が深い」
「なぜだ」
「左の親指が昔から曲がりにくいから――」
セルマはブレノの左手を取った。
親指を開かせる。
古い傷が付け根を横切り、親指は右ほど開かない。
ガドは自分の左親指を曲げた。
曲げた親指を見たまま、目を狭める。
「薪割り斧」
ブレノが言う。
「最初の年、おまえが落とした。俺が拾おうとして刃へ手を出した」
「俺は斧を落とさない」
「だから十年、黙っててやった」
粉袋の男が、担いだ袋の陰で吹き出した。
ガドが睨むと、男は袋へ口を押しつけた。
「作り話だ」
「そう思いたいなら、それでいい」
ブレノは傷ついた手を引いた。
荷車の下へ目を戻した。
「棒を替えろ」
「話を戻すな」
「戻してない。こっちが先だ」
ガドは制動棒へ油布を投げた。
「割れは表だけだ。鉄輪へ当たる爪は生きてる」
「根元まで白い木屑が出てた」
「見た」
「見たなら、なおさら替えろ」
「このまま坂へは出さない」
ガドは、荷場の上手に組まれた丸太置き台を指した。
「ここで四本を下ろす。二本になったら、人力で平場の修理小屋へ回す。輪止めは二重。後ろへ索を取る」
ガドは右輪へ顎を振った。
「右は俺が見る。左はロデンにやらせる」
呼ばれた若い荷運びが、少し離れたところで肩を強ばらせた。
荷場へ入ってまだ三か月ほどで、重い荷の下ろしはガドとブレノの動きを見て覚えていた男だ。
「あいつは合図を知らない」
「教える」
「荷を浮かせてから教えるな」
「おまえを入れる理由にはならない」
ガドは平たい鉄棒を取り、ブレノの胸の前へ横にした。
柵の代わりだった。
「何を知っていようが、俺にはおまえが誰かも分からない。そんな相手と、この荷を下ろす気はない」
「俺はおまえを知ってる」
「それがいちばん気味が悪いんだ」
ガドの声が低くなった。
「俺の腰縄の色も、昔の怪我も、ヨルの名も知ってる」
ガドは、ブレノの腰に下がる青糸縄を見た。
「なのに、おまえを見ても何も出てこない。そんな相手に背中を預けろと言うのか」
ブレノは鉄棒の向こうで、言いかけた口を閉じた。
鉄棒を握るガドの指は、節が白くなるほど強張っていた。
柵にした棒は、ブレノの胸から少しも退かない。
それでもガドは目をそらさず、唇を引き結んでいた。
ブレノは、棒へ触れかけた手を下ろした。
ガドは鉄棒を下ろさないまま、誰も立っていない荷車の右側を見た。
「朝から三度、あそこへ『右を持て』と叫んだ。一人で輪止めを外し、一人で反対側へ回った」
ガドは、楔を抱えて何度も往復した左肩を押さえた。
「その間に荷がずれた。二人でやる幅に、俺だけ立ってた」
空いた右側から、ガドは目を離せなかった。
「隣に誰かいた気はする。だが、誰だったのか思い出せない。だから、最初から一人で頼まれたんだと思うことにした」
「都合よく直しただけだろ」
ブレノが言う。
「そうしなければ、荷を動かせなかった」
「動かさなければよかった」
「材木蔵では、昼までに梁を待ってる。荷主の家は今夜、雨を受ける。俺が思い出すまで、向こうの屋根は待たない」
ガドはブレノへ目を戻した。
「そこへ、おまえが来た。俺が空けていた右側へ、最初から自分の場所みたいに入った」
ガドはブレノの足元から、顔へ視線を上げた。
「信じたいと思ったよ。一人でやらずに済むからな」
「なら、信じろよ」
「信じたいことと、信じられることは違う」
ガドの視線が、もう一度ブレノの青糸縄へ落ちた。
「ブレノって相棒がいたことは覚えてる。だが、そいつがおまえだとは思い出せない」
ガドは胸の前の鉄棒を握り直した。
「楽になりたいから決めつけたら、次は右へ入るやつを誰でもブレノにする」
ブレノは反論しかけ、やめた。
腰の短縄を握り、青糸を掌の傷へ食い込ませた。
ガドから目をそらした。
リュカが制動棒の根元へ指を当てた。
「爪はまだ鉄輪を押さえられる。でも、根元の割れは、横からこじられたらもたない」
「荷車は動かさない」
ガドが答える。
リュカは掌を荷台に見立て、左へ傾けた。
「前後にはな。だが、四本とも左の置き台へ下ろすんだろ」
「そうだ」
「なら、荷台が左へ傾いて、右輪が浮くかもしれない。輪が石へ落ちた時、鉄輪に掛かった爪が棒を横へこじる」
ガドは右輪の楔を靴先で押した。
「ここへ、もう一つ足す」
「右輪が浮けば、楔から重みが抜ける。何本足しても効かない」
ガドは油布で根元の白い木屑を拭った。
木屑の下にも、割れ目が残った。
「……後ろの索を、先に門柱へ取る」
「荷場の門柱は根が腐ってる」
ブレノが言った。
「去年、俺たちで替えるはずだった」
「また知った口を」
ガドは怒鳴りかけ、門柱の根元を見た。
靴先で蹴る。
樹皮の下から、黒い粉が落ちた。
ガドは黒い粉を見たまま、ブレノへ向けていた鉄棒を下ろした。
荷場の奥を指した。
「石切り台の鉄環へ索を取る。輪止めは三つ。四本下ろす。日が傾いても坂へは出さない」
「制動棒を先に外せ」
「外せば、荷を下ろす間に鉄輪を押さえるものがなくなる」
「割れた棒を残せば、押さえてるつもりになる」
「決めるのは俺だ」
ブレノはガドの目を見た。
「そうだな」
ブレノはガドから目を離さなかった。
鉄棒はもう下りていた。それでも、ブレノは荷車へ近づかなかった。
「なら、おまえが止めろ」
ブレノは背を向けた。
セルマが追おうとすると、ガドが呼び止めた。
「セルマ」
「何だ」
「そいつを、ヨルの家へ連れていくな」
「どうして」
「知らない男に見せる場所じゃない」
ブレノの足が止まった。
「知ってる男にも見せなかっただろ」
振り返らずに言う。
ガドは制動棒の割れへ目を戻した。
セルマは庇板を荷場へ置いた。
今度は拾わなかった。
「行くよ」
「どこへ」
ブレノが聞く。
「傷や縄だけで、あんたがブレノかどうか決めるのはやめる」
セルマは宿の裏通りを指した。
「今度は、あたしがあんたのことをどこまで覚えてるか確かめる」




