第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(2)
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宿は荷場から石段を二つ上がった通りにあった。
軒の右端だけ、新しい板が渡してある。
古い板より白く、釘の頭が三つ、曲がって並んでいた。
ブレノはそれを見上げた。
「まだ直してない」
「誰が壊した」
「俺が。先月、酔って庇に荷縄を引っかけた」
「それで壊れたのか」
「そうだ。縄のせいじゃない。俺が壊した」
リュカは白い板を見た。
「板は替えてある」
「釘が曲がってる。あれじゃ直したうちに入らない」
入口をくぐると、煮た豆と濡れた薪の匂いがした。
朝の客はもう出た後で、土間の長卓には伏せた木椀が並んでいる。
帳場の向こうで、宿の女主人が布巾を絞っていた。
「遅いよ、セルマ。塩は――」
女主人は顔を上げ、ブレノを見たまま、絞った布巾を握り直した。
「どうした」
ブレノが聞く。
女主人は濡れた布巾を卓へ置き、帳場脇の棒を手に取った。
薪をかき寄せる棒だが、人を外へ出す長さはある。
「泊まりかい」
「帰ったんだよ」
「どこへ」
「ここへ」
「うちは朝から客を取らない。夜まで待ちな」
「客じゃない。九番だ」
女主人の棒が少し上がった。
「九番をどうして知ってる」
「俺の寝台だ」
「九番には、人がいる」
「誰が」
「ブレノって荷運びが、もう六年使ってる」
ブレノの手が、腰の青い短縄へ下がった。
女主人は棒を握ったまま、入口から階段までを目で測っている。
棒の先が、入口から階段の一段目へ移った。
「そいつが俺だ」
「嘘をつくなら、もう少しましな嘘にしな。ブレノは背が高くて、肩が広くて、口の左が少し上がる」
「全部、俺だろ」
「知らないよ」
「今、自分で言った」
「知ってるのは、ブレノって男のことだけだ。あんたがそうだとは分からない」
女主人は最後の言葉のあと、帳場の奥へ目をやった。
次に階段を見て、喉を一度動かした。
二階で床板が鳴った。
七つのネルカが、片足だけ靴を履いて階段を下りてくる。
宿の女主人の孫で、朝は客の水差しを集める役目をしていた。
「ばあちゃん、青い靴がほどけた」
「上へ戻ってな」
「でも、結べない」
ネルカは階段の途中でブレノを見た。
女主人がすぐ、棒を横へ出して孫を隠す。
ブレノは一歩下がった。
「ネルカ」
「わたしの名前、どうして知ってるの」
「毎朝、水差しを俺の頭へ落とすからだ」
「一回しか落としてない」
「三回だ」
ネルカは靴を持つ腕を胸へ引いた。
「二回」
女主人が孫を振り返る。
「知ってる人なのかい」
「知らない」
ネルカは即座に答えた。
それから片方の靴を脱ぎ、手すりの隙間からブレノへ差し出した。
「でも、これ結べる?」
青い紐は、つま先側で二度絡んでいた。
普通に引けば、結び目が中へ潜ってほどけなくなる。
「投げるな。下りてこい」
「近づいちゃだめ」
女主人が言う。
ブレノは土間へ片膝をついた。
「じゃあ、靴だけ下へ落とせ」
ネルカが靴を落とす。
ブレノは受け取り、紐の根元を親指で押さえた。
二本を交差させ、一方を輪にしないまま、靴穴へ戻す。
小さな足が引っぱってもほどけず、濡れた時には片手で抜ける結び方だった。
「ブレノ結びだ」
ネルカが言った。
卓へ置いた布巾から、水が一滴落ちた。
「誰に教わった」
リュカが尋ねる。
「ブレノ」
「そのブレノの顔は」
ネルカは靴と、目の前の男を見比べた。
「知らない」
ブレノは結び終えた靴を階段下へ置いた。
「そうか」
ブレノは膝をついたまま、階段の靴を見た。
握っていた右手を、ゆっくり開いた。
女主人は棒を下ろさない。
棒の先は、入口と階段の間で止まった。
リュカが帳場脇の柱へ近づいた。
人の膝ほどの高さに、浅い欠けがある。
欠けの縁だけ、長く触られたように丸い。
「そこはブレノが蹴った」
女主人が言った。
「どうして知ってる」
「知って――」
女主人は口を閉じた。
ブレノが代わりに言う。
「冬に薪を抱えて入って、足をぶつけた。柱より俺の小指のほうが欠けるかと思った」
「笑い声がうるさかった」
女主人の棒が、帳場の上で止まった。
女主人はブレノを見直した。
次の瞬間、女主人は棒をブレノとの間へ戻した。
「誰の笑い声だい」
ブレノは柱へ手を置いた。
「俺だよ」
「あたしは、あんたを知らない」
「亭主を送った朝も、そこで俺に『薪を足せ』って言った」
女主人の指が、棒へ食い込んだ。
棒の先が、今度はブレノの胸へ向く。
「誰に聞いた」
「あんたにだ」
「あの日のことを、よそで話すもんか」
「俺は一晩、土間にいた。あんたが二階へ上がらず、階段の一段目に座ったままだったから」
「やめな」
「亭主の靴を捨てられないって言うから、俺が物置へ運んだ。右の底だけ減ってた」
「やめろ!」
棒が帳場を打った。
ネルカが階段で身をすくめる。
ブレノは口を閉じた。
柱をつかむ指へ力を入れた。
棒の先が帳場から浮かず、二人の間に残った。
「そういうことを知ってるなら、なおさら近づけられない」
女主人の声が震えた。
「あたしの亭主のことまで、どこで調べた」
「調べてない」
「じゃあ、どうして知ってる」
「ここにいたからだ」
「その顔で、いたと言うな」
ブレノは柱から手を離した。
「顔だけで決めるなよ」
「目の前の男が誰かも分からないのに、ほかの何で決めろって言うんだい」
ブレノは裂けた右手を、外套の裾へ押しつけた。
女主人は棒を下ろさず、階段の一段目へ片足を置いた。
ネルカも、その背中から出てこない。
ブレノが一歩退くと、棒の先も同じだけ下がった。
二階から風が下り、廊下に掛けてあった外套の裾を揺らした。
茶色い厚布で、左袖だけ色の違う布を当ててある。
ブレノはそれを見上げた。
「俺のだ」
「九番の客のだ」
「だから俺だ」
「持っていくなら盗みだよ」
女主人は棒を両手で持ち直した。
ブレノの裂けた手から、また血がにじんだ。
外套の裾で押さえたため、今着ている服にも赤い跡がついている。
ネルカが階段を二段下りた。
「手、痛い?」
「痛くない」
「血が出てる」
「じゃあ痛い」
ネルカはさらに一段下りた。
女主人の棒が、今度は孫を止めるため横へ動いた。
表の通りで、籠の取っ手が壁へ当たった。
「ばあさん、塩は二袋しか――」
若い女が入口へ入ってきた。
髪を後ろでひとまとめにし、片手に塩袋、もう片方に折れた庇板を抱えている。
宿の前掛けの裾には、乾いた漆喰がついていた。
女はブレノの背を見るなり、眉を上げた。
「帰ってたなら、これ持ちな」
折れた板を差し出す。
ブレノは板とセルマの顔を見比べた。
「セルマ」
「何だよ、その顔」
「俺だと分かるのか」
「朝から当たり前のことを――」
セルマはブレノの正面へ回った。
いつ帰った、と言いかけた。
だが一度まばたきをすると、差し出した庇板を胸元へ引いた。
もう一度、外套と、血のついた手と、顔を順に見る。
「……ブレノ?」
呼んだ声は、語尾だけ上がった。
「そうだ」
セルマは半歩下がった。
「違う。あんたは誰だ」
「ブレノだ。今、そう呼んだだろ」
セルマは庇板を土間へ落とした。
「待て。荷場へ行く」
「今、戻ってきた」
「ガドに会わせる」
「会ったよ」
「なら、あいつは何て言った」
「俺の名を気安く呼ぶな」
セルマの顔から血の気が引いた。
女主人が棒を下ろした。
「セルマ。この男を知ってるのかい」
「知ってる」
セルマはブレノを見た。
すぐに目をそらし、焦げた袖を見る。
「知ってるはずだ」
ブレノがセルマへ向き直った。
「どっちだ」
「今から確かめる」
「俺を?」
「違う」
セルマは落とした庇板を拾った。
握り直した指が白くなっている。
「あたしらが、何をやらかしたのかだ」
ブレノは宿の奥を見た。
煮込みの匂いも、九番へ上がる階段も、ネルカの片靴も、昨日まで自分の暮らしだった。
ブレノが一歩奥へ向くと、女主人の棒の先が床を擦った。
「行こう」
ブレノは宿を出た。
セルマが続く。
リュカも、二人の後ろへついた。
女主人は棒を帳場へ横たえた。
ただ、九番の外套を廊下から外し、見知らぬ男の手が届かない奥へ掛け直した。




