第十六話 見知らぬ顔の古なじみがいる町(1)
結論から言う。
十年一緒に荷を引いた男は、相棒の顔を忘れていた。ただ、二人で使ってきた合図だけは、まだ覚えていた。
「右が緩い!」
谷町の朝は、荷場から始まる。
北の尾根で切った丸太が坂を下り、石切り場の角材が川沿いから上がる。
まだ店を開けていない通りを、荷車の車輪が鳴らしていく。
その日も、丸太を六本積んだ荷車が、北門へ下る斜路の手前に止まっていた。
太い荷縄が二本、丸太の束を締めている。
左は荷台へ食い込むほど張っていた。
右は指一本ぶん浮いていた。
ブレノが叫ぶより先に、荷車の前にいた男は右手を上げていた。
人差し指と中指をそろえ、二度、自分の肩へ曲げる。
十年、二人で使ってきた合図だった。
片方が荷の陰へ入り、声が車輪の音に消される時、右へ寄せろ、そこを持て、と伝えるための合図だ。
男――ガドは二本指を上げたまま、ゆるんだ縄へ歩きかけた。
そこでブレノを見た。
足が止まった。
二本指が、何もつかまないまま下がった。
「何だ」
「何だじゃない。右だ」
最初、ブレノは冗談だと思った。
ガドは新人をからかう時、知らない顔をする。
荷札を逆さに渡し、気づかず読んだ相手へ、今日から字も上下を忘れたのかと言う。
ブレノも何度か同じ目に遭い、そのたび昼の酒を一杯おごらせた。
「朝飯を抜いたのか」
「何の話だ」
「腹が減ると、くだらない冗談が長くなる」
「俺は、おまえと冗談を言う仲じゃない」
ガドは左の袖口をつまんだ。
肘までまくり、手首の古い捻り傷を二度さすった。
重い輪止めを持つ前に必ずする癖だ。
ブレノは何百回も見てきた。
「手首、また痛むのか」
ガドの手が袖から離れた。
「誰に聞いた」
「誰にも。雨の前は痛むだろ」
「なぜ知ってる」
「俺が湿布を巻いたからだ。去年も、その前も」
ガドは右足を引いた。
二人の間に、半歩ぶんの隙間が開いた。
ブレノは問い返しかけ、口を閉じた。
冗談なら、ガドは先に口の端を曲げる。
目の前の男は、開けた半歩を戻さなかった。
喉の奥で、笑いそこねた息が引っかかった。
「昨日、帰りに何を食った」
「答える義理はない」
「焼き栗だ。おまえが二袋買って、一つを俺に持たせた。熱いからって」
「俺は甘い栗が嫌いだ」
「そう言いながら毎年買う」
「黙れ」
ガドの腰袋から、割れた栗の殻が半分のぞいていた。
ブレノは指さしかけ、やめた。
ガドはその手を追い、腰袋の口を掌で隠した。
ブレノは指を二本だけ残した。
ガドは合図でなく、ブレノの顔を見た。
「誰に断って入った」
「朝から寝ぼけるな。輪止めを外す前に締め直せ」
ガドは荷車の前へ回った。
だが縄へは向かわず、ブレノとの間へ入った。
「ここは荷場だ。仕事のないやつは柵の外へ出ろ」
「あるよ。今日もおまえと北の材木蔵まで二往復だ」
「俺は一人で頼まれた」
「一人で六本を下ろす気か」
「おまえには関係ない」
荷場のほかの男たちも手を止めていた。
ブレノは知っている顔を捜した。
粉袋を積む痩せた男。
荷札を木釘で留める白髭の男。
去年、酒場の喧嘩で前歯を折った若者。
粉袋の男は、袋を肩から下ろさなかった。
白髭は木槌を伏せ、前歯の欠けた若者は荷車一台ぶん後ろへ退いた。
ブレノは右の荷縄をつかんだ。
「ガド。輪止めを抜くな」
「触るなと言った」
「その前に手を出してたのはおまえだ」
「何の話だ」
ガドは首をかしげたまま、ブレノを見返した。
ブレノの背後で、木が石をこする音がした。
谷を下りてきた旅人が、荷場の入口で足を止めている。
日に褪せた外套。片方だけ擦れた靴底。旅人は揉めている二人ではなく、荷車の下を見ていた。
「輪止め」
旅人が言った。
ガドが振り返る。
右の輪止めが、半分抜けていた。
さっきガド自身が木槌で叩き、縄へ向かおうとして手を止めたところだった。
荷車が、石一枚ぶん前へ動いた。
ゆるんだ右縄が丸太の重みで伸びる。
「下がれ!」
ブレノは旅人へ叫び、荷車の右へ肩を入れた。
ガドも反対側から車輪へ飛びつく。
上の丸太が一本、束から抜けた。
旅人は身を沈めた。
丸太は外套の背をかすめ、荷場の柵へぶつかった。乾いた柵板が二枚、外へ弾けた。
ブレノは荷縄を引いた。
右手の皮が裂ける。
縄が赤く汚れた。
「ガド、楔!」
返事より早く、木の楔がブレノの足元へ滑ってきた。
ガドが荷台の下から蹴ったのだ。
ブレノは拾い、車輪の下へ打ち込んだ。
ガドは反対輪へ二本目を入れた。
荷車が止まった。
二人は、丸太の左右で同時に息を吐いた。
それも昔から同じだった。
重いものを止めた後、先に手を離して相手へ重みを押しつけないため、ひと息数えてから立つ。
ブレノは一つ数えた。
ガドも同じ時に立った。
「今のを忘れてるのか」
ガドは答えず、血のついた縄を見た。
それからブレノの腰に下がった短い縄を見る。
「その結び方」
「おまえが覚えられなかったから、俺が十年前に――」
「荷場のやつが使う結びだ。見て覚えたのか」
ブレノは言葉を切った。
ガドは結び目からブレノへ目を戻した。
ブレノは奥歯を噛んだ。
旅人が、折れた柵板をまたいで戻ってきた。
肩についた木屑を払い、荷台の下へしゃがむ。
「助かった」
旅人はブレノへ顎を向けた。
「あんた、伏せるのが遅い」
「丸太を見てた」
「見てから伏せたら遅い」
「次は声を聞いたら伏せる」
旅人は制動棒の根元を指でなぞった。
棒は荷車の腹を通り、後輪の鉄輪へ木の爪を押しつける仕掛けになっている。
根元に、髪の毛ほどの割れが走っていた。
ブレノもしゃがんだ。
「昨日より広がってる」
ガドの目が細くなった。
「なぜ昨日を知ってる」
「俺が油を差したからだ」
「この車へ近づいたのか」
「毎朝な」
ブレノは口を開きかけ、裂けた手を握った。
言葉の代わりに、掌からまた血が落ちた。
ブレノは立ち上がった。
「荷を下ろしてから修理小屋へ回せ。載せたまま斜路へ出したら、棒が折れる」
「指図するな」
「ガド」
「俺の名を気安く呼ぶな」
ブレノの裂けた右手が、腰の青糸縄を握った。
粉袋を積んでいた男が、ブレノから目をそらした。
持ち上げかけた袋を、もう一度肩へ担ぐ。
白髭の男も、荷札へ木釘を打ち始める。
槌の音は、途切れず続いた。
ガドは血のついた荷縄を指した。
「手当てをして、出ていけ。縄は弁償しなくていい」
「それ、俺の縄だ」
「荷場の縄だ」
ブレノは腰の短縄を外した。
端に青い糸が三巻きしてある。
「じゃあ、これは」
ガドはそれを見た。
見た瞬間、右の腰へ手をやった。
そこには同じ長さの短縄があり、端に赤い糸が三巻きしてあった。
ガドの指が、赤い糸を握る。
「誰から盗った」
ブレノは短縄を戻した。
「もういい」
荷場を出る時、旅人がついてきた。
「宿はどっちだ」
「泊まるのか」
「そのつもりだった」
「だった?」
「今は、あんたがどこへ戻るのか見たい」
ブレノは裂けた手を外套の裾で押さえた。
「俺の宿だ。荷場の連中がそろって寝ぼけてても、宿の女主人まで寝ぼけてるわけがない」
「名は」
「ブレノ」
「俺はリュカ」
「覚えとくよ」
そう言った後で、ブレノは振り返った。
荷車の右で、ガドが二本指を上げていた。
二本指の先には、別の男がいた。
だが呼ばれた男は二本指とガドを見比べ、首をかしげている。
ガドは上げた二本指へ目を落とした。
指を開き、掌を返してから下ろした。
ブレノは唇を閉じたまま、荷場を出て宿へ向かった。




