第十五話 幕間 余白で鳴るもの(2)
ヨルンは木盆を鍋の前へ運んだ。
盆の底を炭の線で三つの欄に分け、左から順に欄の名を書く。
泊まり。
粥待ち。
出立待ち。
「出る時刻が決まっていない客の名も、粥のあとは『出立待ち』へ移すのか」
ヨルンが聞いた。
「移せ」
リュカは寝床帳を開いた。
「作った名札は、その客を次へ引き渡すまで盆に残せ」
ヨルンは紙を三つに切った。
一枚ずつ、名を書く。
ミラ。
テオ。
ベルト。
三枚の名札を「泊まり」の欄へ並べる。
どの名札にも、昨夜ここへ入った一人の名がある。
ヨルンはミラの名札を「粥待ち」の欄へ移した。
テオも移す。
ベルトも移す。
三枚目を置いた時、木盆の底が鳴った。
こつ。
ベルトの名札だけが、「粥待ち」の欄から盆の縁へ滑り出した。
サラが杓子の柄を名札の前へ差し入れ、盆の外へ落ちる手前で止めた。
サラはそのまま、名札を「粥待ち」の欄へ押し戻した。
「朝の数から落ちてたのは、ベルトだったのか」
ミラは三枚の名札を見回した。
「三枚とも、盆に残して」
ヨルンは頷き、朝鍋帳を開いた。
「もう一度だ」
ミラ一行、三杯。
筆を離す。
こつ。
机の板は鳴った。
三の下の線に、灰色の擦れが浮いた。
だが、線は消えなかった。
木盆の上には、三枚の名札が残っている。
ベルトの名札も、「粥待ち」の欄に残っている。
「三杯」
サラが読んだ。
ヨルンは出立板の人数も三人へ直した。
今度は炭の粉が落ちても、三本目の線は板に残った。
*
帳面を直している間に、ミラとテオは、先に分けた半杯ずつを食べ終えていた。
サラは空になった鍋へ水を張り、足りなかった一杯分の粟を入れた。
火を強める。
「煮えるまで待てるかい」
ミラはテオの背をさすった。
「この子には半杯食べさせた。煮えるまでなら待てる」
その返事を聞いて、サラは木盆を鍋のすぐ前へ置いた。
サラは棚から空の木椀を一つ取り、ミラとテオの名札へまたがるように伏せた。
二人に足りない半杯ずつを足す、一杯分の印だ。
粥をよそうまでは伏せたままにし、二枚とも「粥待ち」の欄から動かさない。
サラは粥が煮えるまでの間に、鍋脇へ置いていたベルトの椀を荷車へ運んだ。
本人が椀を受け取ったのを見て、ヨルンがベルトの名札だけを右の「出立待ち」の欄へ移す。
粥が煮えるまで、伏せた椀と二枚の名札は木盆の中央に残る。
鍋の湯気を受け、椀の外側には細かな水滴が増えていく。
やがてサラが椀を起こし、煮えた粥を一杯よそった。
受け取ったミラが、空になった自分とテオの椀へ半分ずつ分ける。
ヨルンも二枚の名札を「出立待ち」へ移し、ベルトの名札と揃えた。
ミラとテオは椀へ口をつける。
三人分の粥が、ようやく三人へ行き渡った。
*
昼前、谷下の渡し守が継ぎ宿へ怒鳴り込んできた。
「おい、二人じゃないのか!」
手には、朝いちばんに宿から届いた渡し順の紙がある。
ミラ一行。
東渡し。
二人。
ヨルンはその二へ線を引き、横へ三と書き足した。
「乗せる荷は、二人分の重さを見込んで決めたぞ」
「増えたんじゃない」
ヨルンは木盆を戸口まで持ってきた。
「昨夜から三人いた。朝になったら、帳面の上だけ二人になった」
「書き損じの話なら、宿で済ませろ」
「書き損じじゃない。自分で数えろ」
ヨルンは名札を一枚ずつ盆の縁へ出した。
「ミラ」
ミラがテオを背負って立つ。
「テオ」
背の上で、テオが顔を上げた。
「ベルト」
荷車から降りたベルトが、戸口の柱をつかんだ。
三人いる。
渡し守は二と書かれた紙を見下ろし、もう一度三人を数えた。
「ベルトを乗せるなら、荷を次へ回せ」
ヨルンは渡し順の荷欄を指した。
「宿返しの空樽二つと、古い車輪金具は次の便へ回す。それでベルトを乗せられる」
「空樽の持ち主へは誰が詫びる」
「私が詫びる」
渡し守は、三人と書かれた横へ自分の印をつけた。
「三人そろってから来い。舟板でもう一度数える」
ヨルンは、三枚を盆へ戻した。
*
陽が少し傾いた頃、ミラがテオを背負い、ベルトを連れて渡し場へ向かった。
ヨルンは三枚の名札を木盆に載せたまま、渡し場まで付き添った。
舟板の手前で、ヨルンが名札を一枚ずつ読み、渡し守はそのたび本人を確かめる。
ミラ。
テオ。
ベルト。
三枚。
三人。
「助かった」
ミラはそれだけ言った。
背負い紐を引き直して舟へ乗り、ベルトもあとに続いた。
ベルトが乗ると、舟はその重みでさらに水へ沈んだ。
テオは半分眠ったまま、背の上で木椀を抱えていた。
朝には空だった椀の底に、粥が少し残っている。
*
夜、記帳机の端に木盆が残った。
泊まり。
粥待ち。
出立待ち。
左の「泊まり」の欄には、今夜受けた客の名札が二枚並んでいた。
名は聞いた。
寝床もある。
だが、明日どこへ発つかは決まっていない。
ヨルンは二枚を重ねず、「泊まり」の欄へ並べたままにした。
「残すのかい」
サラが聞いた。
「夜から使う」
ヨルンは答えた。
「朝は名札を一枚ずつ『粥待ち』へ移す。粥を渡したら『出立待ち』だ。客を次へ引き渡すまで、名札は盆に残す」
「面倒だね」
「今日から私の仕事だ」
「朝は鍋場の前へ置きな。次の鍋番にも見えるように」
サラは木盆の縁を布で拭いた。
それから、空の薬箱へくくってきた白い板切れを戸口の柱へ掛けた。
中央荷場の荷場番が、下の宿でも同じ板を作れるように渡した見本だ。
太い横線の下には、止めてから聞け、とある。
サラはその下へ、炭で一行だけ足した。
まだいる。
「荷場の言葉じゃないな」
ヨルンが言った。
「鍋場の言葉だよ」
サラが返す。
ヨルンは、次の頁から一行の合計を書く前に、同行者の名を一人ずつ確かめられる余白を取った。
表紙の裏には、名札は一枚を一人分として数え、客を次へ引き渡すまで盆に残す、と書いた。
継ぎ宿の夜風は冷たい。
だが今夜は、決まっていない客を、朝の数から先に減らすことはなかった。
リュカは戸口へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
朝鍋帳の隅に、三のいちばん下から剥がれた灰色の擦れが残っている。
擦れは杯数欄を離れ、次の頁の名前欄の手前で止まっていた。
耳を澄ませても、この宿で灰鐘は鳴っていない。
サラの荷札も震えない。
上の谷で切った、灰鐘から荷札へのつながりは、まだ切れたままだ。
ここで動いたのは、灰鐘ではない。
ほかと同じ欄に収まらない一人分を先に消す、山背継ぎの帳面に染みついた別の癖だ。
木盆の「泊まり」には、今夜の名札が二枚、重ならずに並んでいる。
灰色の擦れは、まだ誰の名にも届いていなかった。




