第十三話 灰鐘は鐘ではない(7)
シェイラは綱を腰に結び、細い足場へ出た。
左手で岩壁を探る。
靴底を横に滑らせ、一歩ずつ渡る。
途中で小石が落ちた。
霧の下から、小石が底に当たる音は聞こえてこなかった。
渡り切ると、シェイラは腰から綱を外し、その端を握った。
細い足場を挟み、シェイラは小屋側、リュカとキアラは上門側に分かれた。
薬箱はまだ、キアラの腕の中にある。
「箱を渡す前に、中身を教えな」
「私も渡ります」
「渡れないかもしれない。そうなったら、私が箱を持っていく。
薬の使い方を今教えな」
キアラは薬箱を胸に抱いたまま、シェイラを見た。
「右側に、赤い栓の小瓶があります。水に六滴です」
「咳き込んだら?」
「すぐには足さないでください。どれだけ飲んだか分からなくなるから」
「分かった」
「箱の底に薄い板があります。父に受け取りの印を入れてもらってください」
「ほかには?」
「薬が届いたら、私も水路の道から会いに行くと伝えてください」
シェイラは一つずつ頷いた。
「分かった。薬も言づても、私が届ける」
リュカは鉄輪から外した綱を、薬箱の縦と横に回して結んだ。
「俺がこっちで支える。シェイラは箱を引き寄せろ」
キアラは綱を握るリュカの手を見た。
向こう側で待つシェイラを見る。
それから、薬箱から両手を離した。
箱の重みが綱に移る。
リュカが綱を少しずつ繰り出し、シェイラが同じ速さで引く。
薬箱は岩壁に沿って進み、シェイラの腕に収まった。
「受け取ったよ」
シェイラは綱を外した。
小屋へ続く広い道まで三歩進み、薬箱を岩壁のくぼみに置く。
薬箱は、崩れかけた足場を越えた。
シェイラは細い足場の端へ戻り、綱の一端を握った。
リュカは上門側に残った端を、キアラの腰に結ぶ。
「足を滑らせても、綱で支える」
キアラは結び目を引いて確かめた。
左手で岩壁の窪みをつかみ、足場へ出る。
一歩。
右足を置いた途端、土が沈んだ。
足場の縁が崩れ、右足が霧の中へ落ちる。
左手の指も窪みから抜けた。
腰の綱が張った。
リュカは綱を両腕で引き、キアラの背を岩壁に戻した。
キアラは左膝を残った土に押しつけ、リュカのいる上門側へ這い戻った。
二人が尻もちをついた直後、細い足場の真ん中が崩れ落ちた。
上門側にリュカとキアラ。
小屋側の端にシェイラ。
薬箱は、シェイラの三歩先にある広い道に置かれている。
崩れた土の奥から、灰色の管が現れた。
管の表面には、三本の枝を編んだ山番の印が刻まれている。
管が低く鳴った。
崩れた箇所から亀裂が走り、シェイラの足元を横切った。
シェイラが立つ岩棚と、薬箱を置いた広い道の間が割れる。
岩棚が崖側へ傾いた。
シェイラは岩壁へ手を伸ばした。
指の届くところに、つかめる窪みはない。
「綱を離して! 壁につかまって!」
キアラが叫ぶ。
シェイラは綱を離し、岩壁へ両手を伸ばした。
だが、指の届くところには何もない。
シェイラの手を離れた綱の端が、岩棚から落ちた。
シェイラの靴が、傾いた岩を滑った。
リュカは、つま先を足元の土に軽くつけた。
たん。
小さな音は、崩れる石の音に紛れた。
隣のキアラも、向こう側のシェイラから目を離さない。
落ちかけていた岩棚が、不意に止まった。
「シェイラ、上へ走れ!」
シェイラは傾いた岩棚を蹴った。
亀裂をまたぎ、薬箱を置いた広い道へ転がり込む。
シェイラが立っていた岩棚は、霧の中へ落ちた。
あとには、上門側と小屋側を隔てる切れ目だけが残った。
シェイラは起き上がり、薬箱を抱えた。
「私はこのまま小屋へ行く。帰りは水路を回る」
キアラは、もう渡れない切れ目を見た。
「お願いします」
「必ず届ける」
シェイラは薬箱を揺らさないよう歩幅を小さくし、山道を進んだ。
やがて、薬箱と一緒に霧の中へ消えた。




