7.朝の驚きほど心臓に悪いものはない
朝、ニコは支部長邸の廊下で壁に張り付いていた。
別に覗きをしているわけでも、聞き耳を立てているわけでもない。
ただそうしなければならない状況下にあるだけで、本当は窓の方に近寄って、暖かな陽光を浴びたいと思っている。
が、それを許さぬ者が居るのだ。
「なぁ、どうした?」
「な……何もありませんし、どうもしませんよ」
「そうか? 俺には何もないようには見えないんだがなぁ。お前が俺に挨拶もせず逃げようとするなんて――」
――おかしいと思うんだがな?
そんな嬲るような問いと共に、師匠の気配がニコに迫る。
そろそろ頭蓋骨に響くのではというほど声が近く、息遣いまでもが耳に届いた。
(ま、まずいです……)
問答するほど隙間が無くなる。抜け出そうにも、前後の退路など、とうの昔に師匠の腕が絶っていた。
救いを求めてぎゅっと閉じた目を開いてみる。すると檻の向こうでは、恐喝現場を目撃した使用人が勢いよく回れ右をしていた。
(あぁ……)
その選択は間違っていないだろう。ニコも同じ立場ならそうする。誰もこんな爽やかな朝から、余計な火の粉を被りたいとは思わない。
たとえそこで罪無き少女が小さく震えていようとも、だ。
***
何ということはない。鳥の囀りだったり、足音だったり、話し声だったり。
そういう日常に溢れる音が耳に届くようになり、ニコの意識は浮上した。
(……、あさ……?)
ぼんやりとそう思いながら、ニコは掛物の重みに抗い寝返りを打った。
差し込む明るさと、忍び寄る冷え。
それから逃れるように、もぞもぞと寝具の中へと潜り込む。すると、何かがニコの額にこつりと当たった。
(……?)
瞼を開いた先の視界はただの白。だがその寝具と同じ色から、馴染んだ熱と香りが放散されていた。
(……あぁ、おししょう、さま……)
成程なと片付け瞼を閉じれば、乗っていた重みが掛布からはみ出た背に回る。
とても、温かい。
彼には秘密にしているが、本当は保温の魔法より主の生体毛布の方がずっと良い。これには数値で表せない温もりがある、気がするのだ。
得も言われぬ心地よさと惰性に任せ、ニコは再び意識を沈め始めた。
……。
…………。
そういえば、検証を終えてからどれくらい経ったのだろう。こんな風に師匠がくっついている時は大抵休眠時間が長い時だ。使った魔法は――……と考えて、あれ、と思う。
していない。
検証をしないと言われたのだ。
同時に今居るはずの場所が頭に過ぎり、ニコは咄嗟に身を引いた。開いた空間に空気が流れ、朝の冷気が素肌を撫でる。
嫌な予感がした。
そっと掛物を持ち上げて、着衣の乱れを確認してみる。
……一つとして掛かっている釦がないではないか。
(こ、これはいくらなんでも……)
胸も腹も丸出しだ。記憶が欠けているのだが、恐らく師匠が印を描いた結果だろう。
事後処理が雑なのはよくあることとはいえ、ここは研究室でもなければ機関近くの家でもないはずだ。
整えられた室内と上質な調度類――間違いなく、メルの屋敷だ。
朝食が整えば、きっと誰かが起こしに来るだろう。そこで万が一、このような状態を見られでもすれば。
(……えぇと、距離を取りましょうか……)
誤解を招く事態を避けるため、ニコはじりりと寝台の端へ後退した。
乗った腕はそろりと下ろし、自身の身体の向きを変える。後は寝台の縁から転がり落ちれば脱走完了――と思いきや。
「ぅぐ」
重い腕がニコの身体に巻き付いた。次いで、温かい物体がニコの背に沿う。
(……、お師匠様……)
実験動物が脱走しようとする気配に気づいたのだろう。
その敏さは素晴らしいが、人の努力を完全に無駄にした。
(どうしましょう……)
益々難儀になった脱出方法を考えている間にも、師匠は弟子の首筋に顔を埋め、すんすん、と寝起きの匂いを嗅いでいる。
「――ん……ニコ……」
(……)
匂いで弟子を判別するなど、お前は獣かと突っ込みたくなる。脱力と溜め息を生みつつも、ニコが半覚醒の師匠に応えようとした――その時だ。
「――へ」
何かがするりと肌を這った。それは多分、いや間違いなく師匠の手だ。
普段紙とペン程度の物しか持たないくせに、意外と硬くてしっかりとした――。
「って、ぁ、あの……っ」
少しざらついた感触が、腰骨から下腹部へと移動していた。
そのあまりの際どさに身を捩れば、それは諦めたように臍の辺りへと戻っていく。
が、今度は反対へと動き出し。
「ひ、」
安全圏を、逸脱した。
流石の実験動物も、そこを布以外のもので包まれたのは初めてだ。
思考力が消し飛んで、ニコはかちりと固まった。
だがそうすると、その侵攻を止めるものもなくなるわけで。
ぐに、と脂肪に圧が加わって、それが二度三度と増減する。そして滑った指が起こした事態で、ニコの石化が解かされた。
「!! ――っや……、ゃぁぁあぁっ!!」
……この絶叫で、誰も飛んで来なかったのは奇跡と言えよう。ここで人に捉まりどうしたなどと問われれば、ニコは窓から飛び出していたかもしれない。
ぎりぎりのところで命を繋いだニコは、外の代わりに充てられた部屋に逃げ込んだ。震える手をなんとか動かし、必死で前を掻き合わせ、ぎゅぅっと自分を抱えて目を瞑る。
それでも、心許ないと思う気持ちは治まらない。
擦れた硬い指、円を描くように触れて包んだ温かさ。それが、今もそこにあるようで。
(――っいえ、落ち着いて、落ち着くのです……っ)
たまたま、そう、猫を撫でる間にたまっったま届いてしまったのだ。別に他意あってではない。
沈み込んだのは柔らかさのせいであり、摘まんだのはそこに突起があったからだ。
すーはーすーはーと呼吸を繰り返す。
少しずつ、どきどきと煩い音が静まっていくのにほっとして、ニコは下ろしていた瞼を持ち上げた。
ふと、開いた胸元を目を落とす。
飴色の輝きが変わらずあって、なだらかな素地はさぞ書きやすいだろうと思われた。
(……、……ち、小さかった、でしょうね……)
育っているとはいえ、クレアのように服が張るほども立派ではない。
大きな手に対しては物足りな……。
「うぅぅ……!!」
――……と、こんな行いを繰り返し。
時計の長針がくるりと一回転しようかという頃、ニコはやっとのことで平静を取り戻して部屋を出た。
勿論師匠の姿を頭に浮かべ、心の乱れが起きないよう訓練も済ませている。
……はずだったのに。
「あぁ、ニコ。おはよう」
「――っ」
思い出すなという方が無理だった。
かっと体温が上がるのに気づいた瞬間、ニコは返事もせずに走り出していて……。
だんっ!!
大きな音がしたかと思えば、何がどうなったか。
ニコは壁と師匠に挟まれ、身動きできなくなっていたのだ。
***
「なぁ、ニコ?」
「っ、そんなに近づかなくても……!」
「お前がよく見えるようにな」
「目、悪くないですよね……!?」
「じゃ、お前のその小さな声を聞くためかな」
――さぁ、正直に話せ。
そんな言葉と共に、吐く息が耳に注がれる。
触れ合ってはいない。でも、もう、隙間が。
頭が破裂しそうな感覚に、ニコは脳裏に浮かんだことをぶちまけた。
「――ぉおお、お師匠様がっ、酷い人、だからです……!」
「……、なるほど」
納得の言葉がその場に落ちて、ニコの体ががくんと揺れる。慌てて近くに手をつけば、それは師匠の肩だった。
抱え上げられている。
それに気づくと同時に見上げる師匠が目に映り、ニコの頭に血が上った。
「っな、なにゆえ……!?」
「そりゃまあ……酷いことがしたくなったから?」
疑問形で答えて笑い、師匠はニコを抱き上げたまま歩き出した。つまり向かう先は、誰にも邪魔されず酷いことが出来る個室だろう。
時折抱え直す師匠の手と腕が、足を、尻を滑って絡みつく。
「――ぅ、触らないで、下さい……っ」
「あぁ、夜中もそう言って泣いたよな。触るな、欲しがらせるなと。次に言ったら触りまくって、欲しいと言わせてやると決めたんだ」
「なっ」
(なんですか、それは……!?)
そんな痴態を晒した覚えはない。
絶対師匠の妄想だ。でなければ夢に違いない。
というか触ると言うなら、すでに寝起きに散々……。
あの感触が甦り、ニコはぎゅぅっと目を閉じ、手近なものをクッション代わりに抱き締めた。
胸元でむぐ、とくぐもった音が発生し、個室への進行が停止する。
そこへ――。
い、色んな意味で心配……。
などと言いつつ、投げ入れてしまいました。
お付き合い下さったみなさま、本当にありがとうございます♡
よいお年をお迎えください~*゜✲ฺ٩(ˊᗜˋ*)و ✲ฺ゜*




