第六幕:葛藤
「あまり辛いようなら、今日は帰って大丈夫だよ」
店主は再三再四そう言ったが、朱美はその都度平気だと答えた。体調が優れないのは確かだが、今が良くても、この先の時間を店主一人に任せる事の方が無茶だと思えたからだ。店主は店主で、他人を思いやるばかりに自分を顧みず無理をしてしまう、そういった朱美の性格を理解しているが故に、心配をしているのだった。
「いえ、大丈夫ですから、本当に……」
店主に対しそう言い張ることで、朱美は己自身に言い聞かせているのである。仕事にでも集中していなければ、頭が破裂してしまう気がするのだ。
それに、朱美にはここで帰る訳にはいかない理由、気掛かりがあった。
今店内に居るたった一人の客――佐上の事だ。
「あのお客さん、どんな仕事をしているのかしら」
話を逸らしつつ、それとなく尋ねた。佐上はゆったりとコーヒーを啜っている。
「さあねえ。夜の仕事かも知れないね。……朱美ちゃん、お客さんの詮索はよくないよ」
ええ、と頷きながらも、朱美はちらりと佐上を見た。
「あの人に興味あるの?」
店主は悪戯っぽい微笑を浮かべる。いやいや、と朱美も笑い、
「いつもこんな時間からのんびりしているから、ちょっと気になっただけで」
そうごまかした。
佐上が入店してから一時間が過ぎた。朱美の体調は良くなる気配を見せず、店主はこれからの忙しさに備えるべくして慌ただしく、そして佐上はコーヒーを飲み干して、相変わらず煙草を燻らしている。朱美はいっそそのまま居続けてくれれば良いと願った。しかしそうはならないのが世の常である。
サラリーマン風の二人組が店にやって来た。こちらの客もよく見る顔だが、佐上は客の入店を知るなり煙草を揉み消し、席を立った。
「有り難うございました」
店主が言う。通り過ぎ際代金をカウンターに置いて、一言も発しないまま佐上はまた鈴を鳴らして去って行った。朱美は何とも残念な気がした。
それから、佐上の退店を合図にしたかの様に店は俄かに忙しくなった。とは言え、小さな喫茶店がそれほど流行っている訳もなく、客入りは疎らだ。しかし次のアルバイトが入る昼までは朱美と店主だけで対応しなければならない。朱美には煩悶を差し挟む余地がなく有り難かったが、何処か満ち足りない気持ちだった。
昼、五分遅れてアルバイトが現れた。十代の女だが、学生ではなくフリーターらしい。朱美は以前に、彼女から年上の男と同棲していると聞いた。つまり、朱美と似たような境遇にある様だ。
「あれ、朱美さん顔色悪いですよ?」
開口一番にそう言われ、朱美は己の顔に手を当てた。
この時、この娘に悩みを打ち明けてしまえば少しは楽になるかも知れないと、朱美は考えた。が、しかし、そんな考えはすぐに打ち消した。
「……ううん、なんでもないの。私は平気」
この娘はまだ、男と生活するのが楽しくて仕方の無い時期だろう。だとすれば、彼女には朱美の不安など理解できないし、楽観的な言葉など聞くだけで苦痛だ。誰かに話せるのならばいくらか気は楽になるだろうが、朱美はそれを堪えるしかなかった。
「だから今日は早く帰らせたいんだけど、どうかな?」
店主が尋ねると、二つ返事で了承された。朱美が言葉を返そうと口を開きかけたのを、店主は制した。
「余力がある時に少し長くやってくれれば良いから。今日はもう帰ってゆっくり休みなよ」
店主の口調は有無を言わせないものだった。気持ちの上では働いていた方が楽だが、確かに休んだ方が身体には良いだろう。だが何れにせよ朱美の心は痛んだ。ここで店主の優しさを断って無理に働けば、親切を無駄にすることになる。朱美は仕方なく、帰宅することにした。
そうして仕事から離れてみると、酷く身体が重く感じる。更に気の重さも手伝って、朱美は家に着くなりソファに倒れ込んだ。高橋は仕事に出ていた。身体を捩って仰向けになり、天井を見上げる。そうしてぼんやりと、これからどうなってしまうのだろうかと考える。次いで、堕胎させるべきかと考えた。しかし、それで何もかもがなかった事になる訳では無い。もし腹の中で育つ命を殺してしまったら、まともな精神でいられる自信がなかった。
そうだ、と、ふとある友人の名前が朱美の脳裏を過ぎった。今でも連絡を取り合っている、古くからの唯一の友人は、既に結婚している。子供はまだ無いが、彼女に相談してみたらどうだろうかと、朱美は考えた。
天井を見上げる姿勢のまま携帯電話を取り出し、電話帳を開く。友人の名前を探し出し、躊躇なく通話開始ボタンを押す。
呼び出し音を聞いていると、また別の考えが頭を擡げて来た。朱美が友人と電話をすると友人は毎度、いつ結婚するのか、と尋ねる。そんな友人に相談したところで、自らの為にならない気がしたのである
友人が受話器を取った時、朱美は急いで別の話題を探す事に決めた。




