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堕ちる  作者: 熊と塩
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第七幕:偶然(或いは必然)

 佐上が帰宅すると、リオは居なかった。恐らく学校に行ったものだろう。だとすれば睡眠を妨げる邪魔者が消えて、佐上にとっては万々歳である。ジャケットを脱ぎ捨て、シャツに皺が立つのも気にせずベッドへ倒れ込む。俯せで枕に顔を埋めると、すぐにまどろみに吸い込まれていった。

 瞼の裏の暗闇で、佐上は夢とも幻想ともつかない、不思議な映像を見た。

 世界が白く染まっている。ただただ白い大地と白い空とが無限に広がっている。その中で、佐上は独り、ブランコに座っている。ゆらゆらと身体を揺すりながら、自らの爪先に目を落としている。

 視界の上端に、佐上の方を向いた、小さな足が見えた。幼い男児が無表情に、じっと佐上を見上げている。佐上はそれを睨み返す。

 す、と男児は手を伸ばし、佐上の膝に触れようとした。佐上はそれを払いのけ、怒鳴る。

「俺に触れるな!」

 携帯電話が鳴っている。気が付けば、俯せのまま、寸分違わぬ格好で眠り込んでいたらしい。時計を見ると、短針は夕方近くを指していた。あまり眠れた気はしなかった。

「……俺です」

 電話を取ると、スピーカーは低い声を発した。

『今から出られるか?』

 佐上を使役している男、探偵、リオの父親、サイトウだ。

「平気ですよ」

『事務所で待ってる』

 この短いやり取りだけで電話は切られた。サイトウから呼び出されるということは、また仕事が入ったという事である。佐上はうんざりとしながら、ベッドから身体を引き剥がした。正直なところ、気が重かった。

 女を騙すのには慣れてしまった。誰かの恨みを買うのも、憎まれるのも、悪魔と謗られながら、他人の人生を破滅させるのも、全て慣れてしまったのだ。だが、佐上は女という生き物が嫌いでならない。女は感情で出来上がっている。婚姻、家庭。地位、名声。そういった理屈を無視してまで感情に従い尻尾を振って、自ら破滅を選ぶ。そしてそうした感情を男、佐上にまで押し付けようとする。私は全てを捨てる覚悟で貴方を愛している。そう言う。女のそういったものが佐上には面倒でならず、嫌で堪らなかった。

 にも関わらず佐上が仕事を続けているのは何故か、という話になるが、実に簡単な事だ。佐上はサイトウに借金がある。正確には、借金をしている相手はサイトウの後ろ盾になっている連中で、それは良からぬ儲けで飯を食う輩――つまり、やくざだ。

 佐上がそういう輩による金融業者、所謂闇金から借りた金は、不法金利で到底返済不可能な額にまで膨らんだ。そこで、佐上の容姿と女を虜にする資質を見抜いたサイトウは、借金の肩代わりという体の良い理由を設け、佐上を別れさせ屋に引き入れたのである。

 勿論、最初は佐上も難色を示した。しかし承諾に至るまでに葛藤はなかった。佐上としては、己の身を置ける場所があれば、何であろうと構わなかったのである。事実、今現在の衣食住には不便していない。日常生活に多少の我慢は付き物、佐上にとってはその程度の事だ。

 テナントビルの二階、「斎藤銀次郎興信所」とプリントされたドアを、佐上は引き開けた。こじんまりとした事務所の中央奥で、探偵兼別れさせ屋・斎藤銀次郎が、マホガニー製のデスクで、それらしく書類に目を落としていた。佐上の来訪にはとうに気付いているようだが、そちらの方をちらりとも見ずに、

「来たな」

 と半ば呟くように言う。

「立て続けで悪いな。取り敢えず掛けてくれ」

 言われるまでもなく、佐上は客用のソファにどっかりと腰を下ろした。斎藤は構わず書類をめくり続け、無言だった。

「……で、俺の仕事は?」

 話を切り出す素振りが見えず、佐上から尋ねる。

「もうちょっと待ってくれ。あっちにも声を掛けてあるんだ」

 それを聞いて佐上は、露骨に嫌な顔をした。

 斎藤の事務所で別れさせ屋として動いているのは二人。佐上ともう一人、女が居る。陥れる対象が男である場合にも対応するためだ。この女というのが、佐上はどうにも気に食わない。男を見下している気来がある、高飛車な女なのだ。

「男と女のどちらでも構わない、とクライアントが言うものだからな。あっちも仕事が片付いたばかりでお前と条件は同じでね。要相談、といったところだ」

 冗談じゃないと佐上は舌打ちした。顔を合わせただけで食ってかかってくる様な女とでは、話にならないのが目に見えている。何だかんだと文句を付けて、結局押し付けられるのが関の山だ。かと言って、立場上仕事を拒否出来ないというのが現実である。

 そこで、佐上は思い付いた。ならばいっそ、今この場で引き受けてしまった方が楽なのではないか。佐上はソファから立ち上がり、斎藤のデスクに両手を突いた。斎藤は漸く顔を上げ、佐上を見る。

「やるか? なら、ターゲットはこっち。女の方だな」

 書類を逆さにして佐上に向ける。書類には、高校生時分のものだろうか、制服姿で卒業証書を片手にはにかんだ笑顔で佇む女の写真があった。

 それを見た佐上は思わず唸った。

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