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堕ちる  作者: 熊と塩
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第八幕:ある種の決心

「よし、上がるぞ」

 終業時間ぴったり、編集長はジャケットを担ぎながら立ち上がった。パソコンを睨む記者達から、お疲れ様です、という声が掛かる。横田もそれに倣って、

「お疲れです」

 と言う。編集長と目が合って、軽く頭を下げた。

「いや、横田。今日はお前も上がりだぞ」

「へ?」

 編集長はつかつかと横田に歩み寄り、その丸まった肩に手を置いた。

「飲み行くぞ、飲み。どうせ仕事ねぇんだろうが」

 流石に編集長だけあって、横田ごとき三流記者の仕事内容もしっかり把握しているらしい。

「はあ。でも……」

「上司がサシで誘ってんだ。そこはすぐ乗れよ。出世しねぇぞ」

 編集長から誘いを受けるのは初めての事だった。とは言え、正直なところ、家で帰りを待つ香織の事を考えると、横田はあまり乗り気がしなかった。それに酒は苦手だ。しかし気の小さい横田に、押しが強い上司の誘いを断る事など出来る訳がなかった。

 半ば強引に会社を連れ出された横田は、引きずられる様にして、会社から程近い一軒のバーに入った。

 薄暗い店内には落ち着いた空気が漂っていた。各テーブルは二人掛けの対面式で、それぞれを仕切が隔てている。客層は若い様で、ちらほらとカップル客の脚が見える。メニューは洋酒やカクテルが殆どなため、横田にはその名前から味を想像するのが困難だった。言い慣れた口振りで小難しい名前のカクテルを注文する編集長に対して、横田はビールを頼んだ。

「意外だろ? 俺がこんな店で飲むなんて」

 向かいに座った初老の上司は苦笑した。横田は恐縮しながらも頷いた。

「ええ、まあ……」

「世辞の一つも言えないのかよ、お前は」

 すみません、と横田は背中を丸めた。慣れない店で上司と二人きりという状況は、居心地が悪い。首を突き出す格好で、横田は怖ず怖ずと尋ねた。

「あの、その……今日はどういったご用件で?」

「俺はお前の客かよ」

 編集長は呆れながら、上着の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

「何の事やない、仕事の話だ」

 横田は編集長から写真を受け取り、それをまじまじと眺めた。

「誰です、このイケメンは? モデル?」

 一人の男が車に乗り込もうとした姿を捉えたものだ。どうやら盗み撮りらしい。

「そいつは『別れさせ屋』だよ。聞いた事ないか?」

 横田が首を横に振ると、編集長は別れさせ屋とはどういうものかを、要約して伝えた。

「はあ、つまり……酷い商売だと」

「まあ酷い連中だな。で、その男は工作員、浮気相手役だ。こいつの所は更に酷い。脅迫なんぞは当たり前だからな」

 成る程、と横田は唸った。言われてみると、写真の男が悪人に見えて仕方がない。切れ長の目、鋭い輪郭、性分の悪さが滲み出ている顔だ。

 写真に目を落としている横田に、編集長はぐいと身を乗り出して、低い声で告げた。

「……お前、これを追ってみろよ」

「へ?」

 横田が顔を上げると、編集長はニヤリと笑った。

「どうして僕が?」

 何かを糾弾する記事は書いた経験がない。それにそんな能力があるとも、横田には思えないのだった。


「それで、引き受けたの?」

「や、考えさせてくれって答えておいたよ」

 横田は食卓の上で頭を抱えていた。帰りはさほど遅くならなかったが、香織は食事の支度をして、帰りを待っていたのである。申し訳なくなった横田は、理由の説明する意味も兼ねて、編集長からの話を香織に聞かせたのだった。香織は真剣な面持ちで、箸も動かさずに話を聞いていた。

「わたしは、賛成出来ないかな。だってそういうのって大体、その……やくざでしょ?」

 実際そうらしい。編集長が言うところには、情報源も「その筋」なのである。

 香織が心配するのは横田にも解る。自分の身に危険が及ばないとは限らないのだ。しかし、編集長の親心にも似た気遣いを無下にすることも、出来ないのだった。

 ただ、

「やってみようかな、って気持ちはあるよ」

 横田は顔を上げた。香織は、え、と聞き返した。

「でも……」

「記者なんて仕事はさ、最初からリスクは承知で始めた事だしさ。僕は……うん、やってみたいんだ」

 気弱な横田にしては力強く言った。香織は意外だったらしく、驚いた様な狼狽したような表情をした。

 横田がこれほど積極的になる理由は、他でもない香織である。その記事を書き上げれば、鳴かず飛ばずの三流記者から脱し、上手く転べば昇給も叶うかもしれない。そうなれば香織に楽をさせることが出来る。更にその自信から己の小心を克服できたなら、香織に相応しい夫になれるかも知れない。横田なりの野心である。しかしこの話を蹴ってしまえば、恐らく次はない。横田にとっては、二度とないチャンスなのだ。

「頑張らなきゃ」

 そう独りごちて、白米を掻き込んだ。

 香織は、何処か沈痛な面持ちをしていた。

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