第五幕:ある喫茶店
朝焼けの眩しい時間、佐上一郎は車を走らせていた。結局リオの方が先に、背に張り付いたまま眠りこけてしまったが、佐上自身は一睡も出来なかった。無理矢理にでも眠れたなら良かったのだが、どうしたものか、瞼の裏の黒と壁の白どちらを見詰めていても一向に眠りに落ちる気配がなかった。それどころか目が冴える一方で、次第に息苦しさを感じ始めた。遂には跳び起き、逃れるように部屋を出た。眠気が全くない訳でも、疲労感が取れた訳でもなく、ただ、居たたまれなくなったのだ。
ハンドルを握る手は落ち着かなかった。兎に角コーヒーでも飲もう。一仕事済んだ後だ、焦らなくても休養の時間はたっぷりある。そう佐上は考えた。早朝から開けている店などそうそうありはしないが、佐上には行くあてがあった。
そこはファミリーレストランやファーストフード店ではなく、小さな喫茶店だ。店名を示す看板らしい看板は無く、正面のガラス窓に小さく「喫茶」と書いてあるのみである。もしかするとその上か下にでも店名があったものかもしれないが、月日によって失われたのだろう。大通りに面してはいるが、二階建ての建物の、一階部分の店構えはひっそりとしたものだった。駐車場らしい駐車場もなく、民家の駐車スペースのような、気持ちばかりの空間が一台分あるだけ。佐上はその狭さも慣れた様子で手早く車を停めた。
店内は暖色の明かりで満たされていた。近頃受け入れられがちな無機質な雰囲気はなく、レトロな雰囲気が漂っていて、実際長らく営業していると見える。佐上が入り口のドアを押し開けると、チリン、と軽やかな音で鈴が鳴った。それに応えるように、カウンターの向こうで店主が新聞を閉じた。店主はにこやかに笑うでもなく立ち上がり、
「いらっしゃいませ」
と静かに、それでいて低く通る声で言う。長髪を後ろに結い口髭を生やした店主は、実に弁えたもので、この時間の馴染みとなった佐上にも馴れ馴れしく接したりしなかった。佐上にはそれが心地良かった。
「レギュラーコーヒーでよろしいでしょうか?」
「いや……エスプレッソのダブル」
「かしこまりました」
佐上はカウンター席には着かず、奥のテーブル席に着く。そこが佐上の定位置だった。客は佐上一人なのだから、誰に遠慮している訳でもない。孤独を愛する人間ほど、奥まった席を好むものなのだ。
マガジンラックに新聞の朝刊や雑誌が用意されているが、佐上はそれには手を付けず、煙草を一本口にくわえた。佐上は煙草に依存している訳ではないが、煙草を吸うと胸の内のもやもやとした何かが、煙とともに吐き出される気がするから吸うのである。しかし、そうしても取れぬ胸のつかえというのはあって、今佐上の胸に立ち込めるのは、まさしくそれだった。何が原因なのか、佐上自身解っていない。そしてそれを考えるつもりも毛頭無かった。何かを思い悩むということはしない性分だ。
静かな朝だった。疎らに通りを行く車が風を押し退ける音と、その合間に極小音量でスピーカーから流れるジャズピアノの音色、それと店主が時折鳴らす靴音、食器同士の当たる高い音。それら幾つかの音の全てが、寧ろ静寂を強調するのだ。佐上はこの時間の、この店の雰囲気を好んでいた。ここだけが唯一、佐上に孤独を与えてくれるのだった。
やがて、佐上の煙草が七割ほどを灰にした頃、静寂を破って、低く声を上げる者があった。
「お待たせ致しました」
コーヒーを運んで来たのは店主ではなく、若いウェイトレスだった。すらりとした体型の彼女もまた、この時間の顔馴染みである。と言っても、佐上はウェイトレスと言葉を交わした事はなかった。特に何事かを話し掛けられることもなければ、佐上から社交辞令の挨拶を言う事もなかった。女と関わるのにはうんざりしているのだ。この日も佐上は普段通り無言を貫き、慣れた手つきでテーブルにカップを置く白い指先の、繊細な動きをただ見ていた。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言ったウェイトレスは、どこか重たげな足取りで離れていった。
カップを口元まで運ぶと、普段飲んでいるものよりも強い香りが佐上の鼻を突いた。底の見えない黒い水面に幾度か息を吹き掛け、慎重にカップを傾ける。佐上は熱いものが苦手だった。微かに舌先を濡らす程度の量しか口に含めなかったが、それだけでも苦味を口内一杯に広げ、その刺激で脳を揺さぶるには不足なかった。
カップを口から離し、ふと視線を前方に向けたとき、店主とウェイトレスがカウンター越しに何かを話しているのが目に入った。声を落としているのか、話し声は佐上の耳には届かない。また、何を話していたって関わりないと佐上は思った。しかし、互いの表情を見て、何か深刻な話でもしているものかと、佐上は佐上らしからぬ酔狂な感想を持ったのだった。




