第四幕:横田夫妻
お前は本当に駄目な奴だと、上司にぴしゃりと怒鳴られたのは、横田勝平という雑誌記者だ。背中を丸めていかにも申し訳なさそうに頭を掻いている。背が低く腹の出た体型は達磨のようで、哀れである。だが彼の直属の上司である編集長は慣れたもので、容赦しなかった。
「お前は何年やってんだ! こんな三文記事で読者が喜ぶかよ」
横田の書いた記事は、近頃騒がれている政治家の不倫騒動に纏わるものだ。スクープ記事という花形の仕事ではないが、それだけ確実性が求められる。それを任せられるというのは、横田が信頼されている顕れだが、しかし今現在どやされていることからも解るように、横田には絶対的な実力や、目立った特質があるわけではない。寧ろ、平々凡々とした能力しか持ち合わせていない。それでも彼に仕事があるのには、理由があった。
「書き直せ。餓鬼じゃねぇんだから、ここが駄目だからこうしろとは言わねぇけどよ」
「はあ、申し訳ないです」
突っ返された原稿を手に、すごすごとデスクに戻る。恐らくその原稿のままでも、掲載するに十分な内容になってはいたはずだが、編集長は敢えて書き直しを命じたのだった。そうすることで横田は更により良くした記事を書いてくる。横田とはそういうレスポンス、努力の出来る男なのだ。事実、横田はこの日のうちに大きく添削、加筆修正した記事を書き上げ、編集長は納得してそれを受け取った。努力が出来るというのは、一種の才能なのかも知れない。
しかし横田は自分という人間を低く評価していた。努力家というのは褒め言葉にしかなり得ないが、それでよしと思えないのが横田だった。横田は常に劣等感のようなものを抱えていて、誰かを羨む事が多い。彼にとっての努力とは、他に追い付くためにしなければならない事であって、実はネガティブな感情が原動力になっている。編集長から怒鳴られれば落ち込むし、良い記事を書くのは負けん気で立ち直った結果ではないのである。よって、そんな自分がこれほど仕事を任されて良いものかと、横田は常々疑問に思っていた。
「ただいま」
そして、そんな横田が昨今首を傾げているのは、仕事の事ばかりではなかった。
「あ、お帰りなさい」
キッチンから明るい声を上げたのは、横田の妻だ。名を香織という。香織の歳は二十五。三十半ばの横田とは十も離れている。ひょいと覗いた香織の笑顔には、歳相応の若々しさと母性的な落ち着きが混在していた。
横田が疑問に思うのは、まさに香織の事だ。
香織の容姿は特に優れている訳ではないが、横田にとっては、若さも相俟って十二分に魅力的だ。それに対して、横田は太っていて歳もいっている。にも関わらず、他に行く手も多々あるだろう香織と家庭を持っている、いや持っていられるのが、横田自身不思議に思えてならなかったのだ。
しかし横田は幸せだった。目の前で、横田よりも器用な手つきで箸を操る若妻の、自分が作った料理を頬張るその所作が、なんとも幸福そうであるからだ。疑問は尽きないが、そういったものは一時的に忘れ去られていた。
横田というのは本当に幸せな男だった。横で眠る香織の寝顔を見るだけで、何もかもが満たされる気がしたのだ。そう、まさに見るだけで良かった。香織の肌に触れたこともない。出会った頃から結婚した後の現在にかけて、それは禁忌の様に守られている。性欲は人並みにある横田がそうして、そうしないでいるのには、無論の事、訳があった。
横田が香織と知り合ったのは二年前、件の編集長に誘われて居酒屋に入った時だ。当時香織はその店のアルバイト店員で、苗字はまだ中村だった。横田は注文を取りにきた彼女を一目見るなり、彼女に恋をしたのだった。風体が悪く風采も上がらない横田にはこの一目惚れは相当に衝撃的だったようで、それからというもの、毎日の様に店に通い詰め、半年を費やし、やっとのことで食事の約束までこぎつける。しかしそれからは早かった。元来人好きのする性格の横田はすぐ香織に受け入れられ、彼女のたったひとりの肉親である母親にも受け入れられた。香織の母親は病弱なひとで、横田が初めて顔を合わせたのは病室だった。そしてその母親は、ふたりが籍を入れる前に、
「香織をよろしくお願いします」
と最期の言葉を残し、逝った。
香織はこれまでろくな恋愛、いやろくな男に巡り会わなかったのだという。詳しい事情は横田も知らないが、一種の男性恐怖症に近いものにまで追い遣られたらしい。そしてそんな香織のことを、横田の人柄を見込んだ生前の母親に頼まれてしまったのである。横田はそれ故に香織をその手に抱けずにいた。いや、そうする事で香織を壊してしまうのが――家庭を破壊してしまうのが怖かったのだ。
横田は誰よりも幸せで、臆病な男だった。




