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堕ちる  作者: 熊と塩
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第三幕:同居人

 佐上は己が腕の下から、白さを保ったままの見馴れた天井を眺めていた。自室に帰る事は少なく、睡眠と着替えのためにあるような部屋だが、佐上にとっては最も気の休まる場所だった。

 しかしそれは過去の事だ。今では、落ち着かないどころかストレスが溜まる場所の筆頭に挙げられる。

 そのストレスの大元は今、高校のセーラー服から着替えもせずに、フローリングの床に胡座をかいて、誰に宛てたものか、携帯電話でメールを打っている。そして思い付いたように、

「ねぇ」

 と佐上を呼んだ。

「ねぇ、一郎。ねぇ」

「……煩い。なんだ」

 あからさまに迷惑がっても、お構い無しだ。

「あたし超暇なんだけど」

「知るか」

 佐上はこの同居人を快く思っていない。寧ろ疎ましく感じている。

「彼氏と遊んでこいよ。好きにしろ。俺は寝る」

「あたしがそんな事したら、一郎がパパに怒られるんだろ?」

 佐上は黙った。そしてつくづく面倒な女だと思った。もともと望んで同居している訳ではない。仕事でもないのだが、近いものではある。女は舌打ちした。

 女は佐上にリオと名乗った。苗字はサイトウと言うらしいが、本名かどうかは定かでない。歳は十七、八。高校生だがまともに学校に通ってはいないようだ。髪を赤く染め、まだあどけない顔に化粧を塗りたくっている。態度は尊大。一般常識や礼儀というものを知らず、教養はない。アルバイトなどの収入がないために完全な居候だが、生活に十分な食費や小遣いなどは父親から出ている。

 リオの父親は、件の探偵だ。

 何故探偵が娘を佐上に預けたのか、その辺りの事情は佐上自身知らない。興味が無い。簡単な想像をすれば大方、母親が探偵のあまり宜しくない稼業に嫌気がさして家を出ていったのだろう。そういう事にして勝手に納得している。他人の家庭事情など知った事じゃなかった。それなのに佐上がこの迷惑な娘を預かるのを良しとしたのは、義理や恩情ではなく、承諾せざるを得ない事情があったからだ。

 漸く佐上が相手をしないと悟ったのか、リオは再び舌打ちして、おもむろに制服から部屋着のスウェットへ着替え始めた。佐上という男がすぐ横に居るというのに、少しも躊躇する様子も恥じらう気配もない。制服を脱いですっかり下着姿になったとき、ふと思い付いた様に手を止めた。

「ねぇ、一郎さ」

 そのままベッドの脇に歩み寄り、縁に頬杖を突く。

「一郎って、ホモ?」

 佐上は何と馬鹿な質問だという舌打ちをし、同性愛者がこんな仕事をやってられるかという溜息で答えた。リオは佐上の眼前で肘を内側に寄せ、わざと胸の谷間を見せ付ける。

「だってさぁ、おかしくねぇ? 普通ならとっくに手ェ出してるよ」

「……性欲の処理には困ってない」

 派手な下着で縁取られたリオの浅黒い胸元をちらりと見て、佐上は鼻で笑った。

「あー、解った。熟女趣味なんだろう。うわー、超納得。だからだなー」

 挑発的に囃した。佐上は、性的趣向などない、という旨を返そうとして、やめた。それが面白くなかったらしく、リオは再三舌打ちした。本当に面倒な小娘だと、佐上は寝返りうってリオに背を向ける。宥めたりすかしたりと女に合わせるのは、仕事だけで沢山だった。

「……あーあ、詰まんねーの!」

 大仰な声量で言う。壁に向いた佐上は完全に無視を決め込んでいた。

 そうして、暫く沈黙が続いた。リオは上下の唇をぴたりと合わせたまま、同じ姿勢で佐上の頭を見つめている。佐上の薄茶色に染められた後ろ髪は、さらりと枕に流れ落ちながら、艶やかな光彩を放っていた。その光に誘われて、リオは手を伸ばし、触れた。緩やかな曲線の中に指先を沈め、流れに従って指を滑らせると、抵抗なく指の股をすり抜けていった。

 リオはゆっくりとベッドに上がった。佐上の背中にぴたりと身体を合わせ、そして佐上の胸に腕を回す。佐上は何も言わず、そして何もしなかった。リオは佐上の髪に顔を埋めて、鼻から目一杯その匂いを吸い込んでから、一息に言った。

「別に、言い付けたりなんかしないよ」

 佐上は答える。

「……知ってる」

 押し黙ったリオが、背後でどんな顔をしていたか、佐上は知らない。

 佐上がこうまでされてリオを抱かないのは、仕事で飽きるほど女を抱いているからという、単一の理由には因らない。理解していたのだ。リオはとっくに父親から見捨てられている。それはきっとリオが悪いのではない。あの探偵にとって、娘など邪魔なだけの存在なのだ。だから佐上がリオに何をしても、父親は放っておくだろう。そこまで理解しているから、リオを抱いてやる事は出来ない。いや、したくなかった。

 佐上も父親に棄てられた人間だ。

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