第二幕:朱美という女
紫煙、毒を撒き散らす。毒は男の肺を満たし、女の鼻を容赦なく刺激した。
テレビ、テーブル、ソファ――家財を無理に押し込んだような狭いダイニングキッチンには、女がたてる包丁の音だけが、まるで時間を刻むように鳴っていた。
「今日はカレーだから」
唐突に言う女の言葉に、ソファに腰掛け、天井の白さを気にもかけず煙草を吹かしている男は、声も上げなかった。男が、女の作るカレーが好きだと言ったのは、今にすれば遥か昔の事だった。
公団マンションの一室。表札は連名である。
「高橋恭介
大塚朱美」
結婚はしていない。二人ともまだ二十代と若いが、同棲中の恋人と言うのは、少しニュアンスが違う。「内縁の夫婦」というのが近い。籍は入れていないが、高橋と朱美は互いに互いを伴侶と思っている。
いや、そう思っているのは、もう朱美だけなのかも知れない。朱美は高橋から、以前の情熱を感じられなくなっていた。一緒に生活し始めて一年と半年、新婚と呼べる期間はとうに過ぎていて、長らく寝食を共にすればそうなるのが自然だろうか。だが朱美は高橋との間に温度差を感じずにはいられなかった。
朱美という女は、不平不満を並び立て、更には浮気に走ってしまうような、自分本位の軽薄な女ではない。高橋の気持ちが離れていってしまうのは、己の努力が足りない所為だと、そう思っている。だから朱美は料理を始め家事に手を抜いたことはないし、高橋の気に入る女であろうと外見にも常に気を遣っている。もともと器量が良く、なんでもてきぱきとこなせる朱美を、高橋がどう不満に思っているのか解らない。解らないから、朱美はひたすらに、がむしゃらに献身するしかないのだった。
カレーの鍋に火を掛けた所で、朱美は米を磨ぎ始めていた。部屋は相変わらずの無音。米の擦れる、しゃきしゃきという歯切れの良い音だけが鳴っている。立ち上っていた煙は、靄のように視界をぼやかすだけのものに変わっていた。
ふと、朱美の手が止まり、同時に米を磨ぐ音も止んだ。代わりに衣擦れと、朱美の耳元をくすぐる鼻息が静寂を支配した。
「……まだ料理中だから」
朱美は訴える。しかし腰を伝ってエプロンの下に差し込まれる高橋の手を制止させるには、弱々し過ぎた。
耳を噛まれ、朱美は身震いした。身を捩って些細な抵抗を見せるが、高橋は構わなかった。冷たい指先が服をめくり上げ腹に触れても、朱美は高橋を止め得るだけの拒否はしなかった。
そのままリビングに引きずられ、ソファに抱き倒される。ここまで高橋は始終無言だった。そして黙したまま、さもそうするのが当然かのように、朱美の服を脱がし始める。朱美もここに至り、抵抗する真似事はやめた。
その間、朱美は色々なことを考える。例えば、自分は高橋の性欲を処理するための道具に成り下がっているのではないか、だとか、いや、これが高橋という不器用な男の出来る精一杯の愛情表現なのではないか、だとかの、概ね疑念と打ち消しを繰り返す支離滅裂を極めたものだ。兎に角その最中に、まともな思考を巡らせる事など不可能だった。
避妊はされなかった。流されるままの事が終わって、朱美は無心になる。そして己が酷く醜い生き物に思えてくる。身体を縛り付けるような倦怠感の中で、高橋にしている隠し事が膨張し、今にも裸の胸が張り裂けそうになる。
朱美は妊娠していた。自覚のある限りでは、およそ一ヶ月半。普通なら喜ぶところかも知れないが、朱美は恐怖していた。妊娠を高橋に打ち明けて、もしその時高橋に拒絶されたら、いや、されるだろう。それは朱美にとって身の破滅に等しい。言い出せる訳がなかった。
子はかすがいという言葉もある。だが朱美の不安を和らげる為には、あまりに古い言葉だ。
時間は解決してくれない。寧ろより事態を悪化させていく。
逃げ出したい。朱美は心の内で絶叫した。
しかし自分の内なるものから逃れる術など、ありはしないのである。




