第三一幕:夫婦
カーテンを締め切った部屋で、明かりも点けずテレビも点けず、ただソファに座し、魂を失った抜け殻のような身体を背もたれに預け、香織は半ば死んでいた。この数週間を、香織は変わらぬ状態でいた。主たる理由は、やはり朱美にしてしまったことである。
香織にとって、朱美への対抗意識こそが生きる活力だった。それは香織自身の意とするところではなかったが、でなければ、その惨めで酷な人生から逃避していただろう。事実、朱美という支えを失った今、香織の左腕には剃刀で切った傷が幾筋もあった。どれも辛うじて血が滲む程度の浅いものだが、自傷により傷を負うのは、何も身体ばかりではないのだった。
自殺への今一歩を踏み出さずにいられるのは、偏に横田の存在があるからだった。風采の上がらない横田との交際から結婚までに至ったのも、朱美への思いに因るところが大きいが、愛情はある。しかし女と男の間に生まれるそれとは毛色が違い、年上の横田に父性を感じているか、或いはだらしの無い横田に母性を覚えているかの、どちらかだ。性愛の対象は常に佐上一郎にあり、横田には対する愛情は、別次元のものなのである。
佐上と再会して以来、香織は揺らいでいた。もし佐上を許し、それが許されるのなら、一度背を向けたものを向き直り、今度は昔とは違った形で、互いに求め求められ、心も身体も重ね合わせたかった。歪められた愛情である。自分をレイプした男を愛するというのは、到底普通の事ではなく、詰まるところ、香織は普通の精神状態ではないのだった。
だが、誰かに執着するという点では、嫌うのも好くのも、憎むのも愛するのも、恨むのも慕うのも、同じ事なのかも知れない。
「……ただいま」
午後七時、横田が帰宅したが、香織は以前の笑顔で迎えることはしなかった。
「ご飯、作るよ」
横田は部屋着に着替えるより先に、キッチンに向かった。香織がこうなって以来の横田は、献身的だった。いや、横田という男はいつだって献身的な良き夫だった。その事に気付いていながら、今の香織は、横田が疎ましく思えて仕方がない。
横田が米を磨ぐ音がする。香織に食欲がないのも、もし食えたとしても胃が受け付けないのも知っていて、横田はせっせと食事を作っている。
「……香織」
横田が呼んでも、香織は振り向かない。それでも横田は話を続けた。
「ニュースを見たかい?」
テレビは一度も見ていない。
「逮捕されたんだ、『別れさせ屋』の元締めが。殺人でね」
香織の背中をひやりとしたものが撫でた。殺されたのは佐上だろうか。
「大丈夫、佐上じゃないよ。別の人間。この間、佐上から電話があったんだ。だから佐上は無事」
「……そう」
佐上が生きているから、何だと言うのだろう。いっそ死んでいた方が良かったと、香織は本音とは逆の事を考えた。
蛇口の閉まる音がして、横田は再度香織を呼んだ。
「……もう終わったんだよ」
横田はそう言った。
「こういう言い方をしても、君は納得しないかも知れない。でももう、全部過去の事なんだ。終わったんだよ」
「……終わった? 何が?」
何も終わってなどいない。香織の傷付けられた心は癒えず、自ら付けた傷は消えない。失ったものは取り返せず、何もかもが手の届かない遠い彼方へと去ってしまった。
「後悔したって仕方が無いよ。君がしたことは取り返しがつかないんだから」
「そんな事は解ってるよ!」
香織は声を荒げた。
「皆わたしの所為! 全部わたしが悪いんだから!!」
そう、一から十まで、全て香織のした事だった。
「……だから、終わったんだよ。もう全部終わった」
横田は変わらない調子で続けた。
「大塚さんは退院して、結婚する。佐上はどこかで生きてる。『別れさせ屋』はなくなって、もと通りじゃんか。君だけなんだ、未だに引きずってるのは」
横田は香織に歩み寄って、隣に腰を下ろした。
「悔やむなら、償うしかないよ。こうしてたって仕方ない」
「じゃあ……じゃあどうしろって言うの?」
香織は頭を抱えた。
「もう最低なんだよ、わたし。もう駄目なの。頭おかしいの。狂ってるの。どうしようもないの……!」
「君は最低なんかじゃない。君は駄目なひとじゃない。頭もおかしくないし、狂ってもいない。どうしようもなくなんかない」
横田は香織の肩を抱いた。横田からそっと身体を寄せてくるのは初めてだった。ぎゅっと抱き竦められて、香織は震える。
「君はやり直せるよ。僕が保証する。そんなの頼りにならないかも知れないけど……」
「……どうしてそんなにお人好しなの?」
「だって、君の事が好きだもん。一緒にやり直したいんだもん」
横田は愚鈍な男だ。頭の回転は遅く、冴えない男だ。仕事も大して出来ず、人付き合いも下手で、駄目な男なのだ。それでも香織がこの男と長い間一緒に居るのは、香織の前では子供の様に素直だからだった。だから、香織は横田が好きだった。
香織は横田の胸で泣いた。身体中を包み込み匂いに満たされ、香織は泣きわめいた。




