第三二幕:大団円
晴れ渡った青い空には、煙草の煙のように、うっすらとした雲が漂っている。昼間の街を行く人々は上着を抱えて、早足に通り過ぎて行く。立ち並ぶビルからは色とりどりの看板が突き出し、灰色に支配されがちな街中に、彩りを添えている。そんな当たり前の景色さえ、高橋朱美は美しいと思った。
自分こそが世界で一番孤独なのだと思う人には、他人で溢れたこの街を受け入れる事が出来ないだろう。だが朱美は違った。右手には夫の左手があり、緩やかな膨らみを帯びた腹の中には、まだ名前の無い子が居る。朱美の求めていた幸福が、ここにあった。
久しぶりのデートに誘ったのは高橋の方からだった。まだ気は早いかも知れないが、朱美の身体が軽いうちに、出産に備えての買い物をしようという事だった。高橋は必死に良き父親になろうと努力をしているのだ。今の高橋もまた、当たり前の中にある幸福を噛み締めているのかも知れない。
幸せを手に入れたのは、何も朱美と高橋だけではない。香織と横田の夫婦もまた、幸せなようだ。
つい先日、香織から朱美に電話があった。話し始めはぎこちなかったが、いつの間にか互いに笑い合っていた。香織は意外なほどによく喋った。今まで胸につかえていた物が取れたのか、朱美に話したくて堪らなかったのか、ここ最近の出来事を色々話してくれた。何でも、横田が余りにも臆病で奥手なために、もどかしい夜が続いているらしい。下世話でも朱美には微笑ましい限りだった。双方が手を取りたいと願えば、触れ合う事など怖くないのだ。
あの一件以来、全てが良い方に向かっている。それまでは悪い方に傾き、そこでどうにも出来ず、最悪に至らない様踏ん張るのが精一杯だった。しかし、一度倒されてしまえば、後は起き上がるしかない。そうして起き上がってみれば、転んだ傷の痛みすら忘れられるほどの、素晴らしい世界が眼前に広がっていたのだ。だから朱美は、佐上に対し感謝さえしていた。
しかし、その佐上はもう居ない。横田が言うには、失踪以来マンションの部屋には戻っていないらしい。何処かで生きているのは確かで、それだけが救いだが、一体どうした暮らしぶりかは、ようとして知れなかった。
今の朱美に満ち足りない事があるとするなら、それは佐上の幸福だ。確かに、かつて横田が言った様に、佐上はこれまでしてきた事の報い、社会的制裁を受けるべきなのかも知れない。しかしそんなものは世の中に存在する建前であって、朱美の思いにはそぐわない。朱美は佐上の幸せだけを願っていた。
「ご飯はどうしようか?」
高橋が尋ねた。
「ううん、そうね……」
昼食を取るのに手頃な店はないかと、軒並みを眺めた時、朱美のバッグから着信音が鳴った。
「あ、ごめん、電話だ」
携帯電話を取り出すと、電話帳には登録されていない携帯電話からの着信だった。朱美は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……はい?」
『俺だよ』
電話の声は、朱美の待ち望んでいた声だった。朱美は絶句した。
『今、君を見掛けたから。もう綺麗さっぱり消えようと思っていたのに、思わず電話を取っていた。番号は忘れたつもりだったのにな』
朱美は佐上の姿を探した。人通りは多く、佐上は影も形も無かった。
「何処? 何処に居るの?」
「朱美……?」
大通りには車も走る。忙しく動き続ける街で朱美は立ち止まり、ぐるりと回る。その時、動きを止めた二点が、通りを挟み、視線で繋がった。
『目の前に居る』
紛れも無い佐上がそこに居た。右手には携帯電話が、そして左手にはいつぞやの娘の手が、しっかりと握られていた。
「ああ、佐上君……!」
「あいつが……?」
佐上は携帯電話をポケットにしまい込み、代わりにその手を顔の横で振った。表情は今まで見せたことのない、いや、佐上自身そうした事がないだろう、柔和な笑顔だった。
「良かった……幸せになれたんだね」
朱美は涙を落とした。ただ一人の人間が幸せである事を喜ぶ愛情は、不倫や浮気と呼べるだろうか。
車道の信号が赤に変わり、車の列が朱美と佐上との間を阻んだ。朱美はどうにかその隙間を探そうと走ったが、佐上の姿を捉える事は適わず、遂に信号機が青色に戻った頃には、そこに佐上は、もう居なかった。
「朱美!」
高橋は駆け寄って、立ち尽くした朱美と同じ方を見遣った。
「あいつが、あの……?」
朱美は黙って頷いた。
「……何だ。もっと悪そうな奴かと思ってたのに」
高橋はそう言い、笑った。朱美の心情を何となしに理解しているのかも知れない。朱美はそんな高橋の腕に抱き付いた。
幸せに満たされていく。
「あ……」
下腹部に手を遣った。
「……動いた」
手の下で確かに、命が窮屈そうに動き回っている。
「ちゃんと挨拶しなくて良かったの?」
「良いんだ」
佐上はリオの手をしっかりと握り直した。
「もう全部過ぎた事だ。勿論自分のした事を忘れた訳じゃない。ただ、過去に囚われる生き方はもう嫌なんだ。彼女達にもそうあって欲しい」
「うん」
「もう奪い取るのも嫌だ。お前が新しい人生をくれたから、俺は沢山のものを返さなくちゃならない。俺に出来るのはそれくらいだ」
リオは頭を振った。
「あたしはもう十分貰ってるよ。一緒に居てくれるだけで十分」
「そうか……」
佐上は顔を上げ、眩しげに太陽を見た。
「……許されるかな、俺」
「大丈夫、一郎が変わっても、あたしは変わらないから」
リオは佐上と指を絡めた。
「一郎が好き。誰からも恨まれていても、世界中を敵に回しても、一郎が大好き」
「……初めてだ」
佐上は呟く様に言った。
「今、お前を幸せにしたいと思った」
長らく暗い世界に堕ちていた佐上には、この新しい世界は明る過ぎた。光はまるで突き刺すようで、目を開いているのさえ苦痛だった。だが、一度堕ちたら這い上がるしかない。どんな苦難も受け入れるしかない。
今の佐上には愛してくれる人が傍に居る。それは何にも代え難い支えとなるだろう。愛される喜び、愛する喜びを漸く知って、佐上は笑った。きっとリオは笑い返してくれる。そう信じて笑った。
「ありがとう」
平成22年1月25日 改稿
あらすじ改訂




