第三十幕:償い
横田は発売されたばかりの新刊を眺めていた。そこにあるのは、自らが書き上げた「別れさせ屋」の記事である。編集長は珍しく横田を褒めた。横田が頭に包帯を巻いた痛々しい姿だったからかも知れない。普段なら手放しに喜んでいただろうが、横田の心は晴れなかった。
「いや、まさかお前がここまでやってくれるとは思わなかったな。この、『依頼経験のある女性』っての、どうやって取材までこぎつけたんだ?」
「はあ、まあ……その手の情報筋ってやつです」
横田は言葉を濁した。「依頼経験のある女性」とは、すなわち香織の事だった。
香織は横田に全てを話した。横田が頭に怪我を負った事に責任を感じていたらしい。しかし、それだけではない何かがあるようだった。体重が乗った分頭を打った衝撃は大きかったが、怪我は大したものではなく、気を失ったものの、脳に障害を来すほどでもなかった。だから、香織がそれほど思い悩む必要はないのだ。ないのだが、香織は未だに苦しんでいる様子だ。
これまでの明るさを失い、幽鬼が如くに変貌してしまった妻に、何かしてやれる事はあるだろうかと、横田は頭を抱えた。
内線電話が呼び出し音を立てた。
『横田さんに外線です。田中一郎という男性からです』
そんな名前の男は知らない。だが、一郎という名前には心当たりがあった。
「……繋いで下さい」
すぐに回線が切り替わったが、相手は無言だった。
「……お前、佐上一郎だろ? 死んだと思ったよ」
受話器の向こうで笑い声がする。間違いなく、佐上の声だった。
『それはこっちの台詞だな。いや、人間はそんな簡単に死んだりしない。解っていたよ』
佐上は低い声で言った。
「何の用だ?」
『あんたの記事読んだよ。よく書けていた。香織から聞いたんだろう?』
流石に当事者だけあって敏感な反応だ。
「それで恨み言を言うために電話したのか? それとも脅す為か?」
『そんなんじゃない』
佐上は即座に否定した。
『あんたに情報をやろうと思ったんだ』
「情報?」
意外だった。
『あんたのためになる情報だ』
「どうして?」
『あんたは香織の旦那だろう? あんたの成功は、香織の為になる。俺は贖罪がしたいのさ』
佐上はもっともらしく言う。だが横田は納得しなかった。
「……嘘だな」
根拠は無い。だが、嘘だと思った。
「お前は足を洗いたいだけなんだろ?」
佐上は答えなかった。
「悪いが、お前の肩を持つ義理はないんだ」
横田は受話器を置こうとしたが、佐上がそれを引き止めた。
『……待ってくれ。あんたの言う通りだ』
佐上は深く息を吐き、続けた。
『俺は今女と一緒に居る。俺を裏で操った男、黒幕の娘だ』
自分を突き飛ばしたあの女子高生の事かと、横田は相槌を打った。
『そいつの為に、俺は足を洗いたい』
「勝手な事を……」
横田ははらわたが煮え繰り返る思いだった。
「香織はどうなる? お前に傷付けられた香織は」
香織は何一つ救われない。佐上は暫く沈黙したが、やがておもむろに言葉を発した。
『……済まないと思っている。だが、俺から香織に出来る事は何もないんだ。俺が触れようとすれば、香織は余計に辛い思いをする。絶対に』
それはそうだろう。だが、
「それは、お前の身勝手な言い分を納得する理由にはならない」
『だろうな。だからせめて、俺に出来る事をさせてくれないか。俺に出来るのは、あんたに話をする事で、全てを終わらせる事だけだ。あんたが奴らを告発して、俺のして来た事を明るみにして欲しい。せめてもの、償いだ』
「償いがしたければ、死ねよ」
横田は冷たく言い放つ。しかし佐上は、それは出来ないと答えた。
『朱美に、生きろと言われた』
「大塚さんが……?」
何故だか、横田には解らない。朱美は佐上に騙されたのである。理解出来ない。
横田は苦汁を飲んだ。朱美は「別れさせ屋」の被害者であり、香織の友人だ。
「……解ったよ。で、情報って?」
佐上は、ありがとう、と礼を言った。
横田には解らない事が多すぎる。佐上という人間の事、朱美という女の事、そして、香織という妻の事。解らない事だらけのこの状況の中で、横田に出来る唯一の事は、記事を書く事だけだ。
『数日前、都内で女が絞め殺されただろう? 知ってるか』
「それはあれか? 確か痴情の縺れで別れた恋人に殺されたっていう……」
『それだ。その女の事だ』
「待てよ。一体それに何の関係があるってんだよ?」
確か容疑者は逮捕されたはずだ。容疑は否認し続けているが、目撃証言があるらしい。
『そんなたわいもない理由で殺されたんじゃない。あいつはそれほどか弱い女じゃなかった。もっとふてぶてしい女だ』
「待て、佐上。という事は、その殺された女も……」
『ああ、俺と同じ男に雇われた、工作員だよ』
慌ててメモを取り出し、ペンを走らせた。




