9
朝になった頃には、屋敷はもう静けさを取り戻していた。
エルフィーゼを裏切ったメイドは、結局、暇を出すことになった。殺しはしない。ただ、二度とどこの貴族家にも仕えられぬよう、しかるべき筋に話を通しておいた。シュタイン侯爵家で飼い殺しにするのも残酷だ。一生、どこにも働きに出られず田舎の農家で老いていくこと。彼女への罰はこのくらいでちょうどいい。
ルドルフの死は、結局、公式には公にされなかった。彼の生家も厄介者の行方を探そうとはしない。ハルヴァートの商会の手際は見事なもので、辺境の採掘場からの脱走者が野垂れ死んだという体で記録も残さない方針でいくようだ。エルフィーゼの屋敷で何が起きたかを知る者は、この世にごくわずかしかいない。
それから、時が流れた。
舅の容体は、坂を転がり落ちるように悪化していった。もともと脳梗塞で右半身の自由を失っていた身体は、加齢とともにさらに弱っていき、意識が明瞭な時間は日に日に短くなっていった。
エルフィーゼは、その間も根気強く彼の世話を続けた。前の生で培った介護の技術は、今の生でも遺憾なく発揮された。もっとも、今回は専属の看護婦や使用人たちの手を借りながらであったから、ずっと楽な看護ではあったが。
「エルフィーゼ……」
ある冬の夜、眠ってばかりいた舅がぱちりと目を覚まし、久しぶりにはっきりとした声で彼女の名を呼んだ。エルフィーゼは寝台の傍らに座り、その皺だらけの手を取った。
「はい、お義父様。ここにおります」
「アルベルトは戻らんか……」
「残念ながら」
「すまなかったなあ……アルベルトが、曲がったのは、俺の、俺のせい……」
「もう、よろしいのですよ」
咳き込みながら後悔を口にする老人へ、エルフィーゼは微笑む。舅の中にある、息子を正しく育てられなかったという悔恨は本物だ。エルフィーゼはその愚かさを含めて舅のことが好きだし、彼を許すだろう。
アルベルトのことは許さないが。
「お義父様。一つ、お願いがございますの」
エルフィーゼは病人の様子を窺いつつ、これを機にとあらかじめ用意していた書類をそっと寝台脇の小机に広げた。当主権限をエルフィーゼに完全に移譲する旨の、正式な契約書である。
アルベルトが『生死不明』のまま、戦争は五年目に入ろうとしていた。今、この老人が死ねば、シュタイン侯爵家の当主権限は宙に浮くことになる。
「どうかこれにご署名くださいませ。一生のお願いでございます。言いにくいのですが……今、お義父様にもしものことがあれば親戚筋がシュタイン侯爵家を食い荒らすことでしょう」
舅は霞む目で書類を見つめる。ぶるぶる震える手が老人性のものなのか怒りや困惑からくるものなのか、それはわからない。彼は今回も前回も、死ぬ直前まで理性を失っていなかった。身体は自由にならなくても意識はずっと鮮明なまま、自分の犯した罪をエルフィーゼを通して見つめ続ける罰を受けている。
「決して、私心から申し上げるわけではございませんわ。アルベルト様のご無事をわたくしも心から願っております」
老人の瞼が落ちた。観念したのだろう。彼にはエルフィーゼを信じるしかないのだ――たとえ、今しがた聞いた言葉がとうのエルフィーゼ自身にもしらじらしく聞こえるほど空虚だとしても。
「……わかった」
震える右手で、彼は最後の力を振り絞り、署名をした。
これにてエルフィーゼは当主代理ではなくなった。シュタイン侯爵家のすべての権限――財産、領地、爵位に付随する権利義務のすべてを、正式にエルフィーゼ・フォン・シュタインが持つことになった。戦時の特例であるが、法律的に問題はない委任状。正当な契約書。まさか妻が夫を裏切り陥れることはあるまいという前提の元認められるもの。
エルフィーゼはそれを押し戴き、翌日、自分で役人の承認を受けに行った。承認印が捺されるのを、彼女はじいっと目を見開いて見つめた。
その一週間後、舅は静かに息を引き取った。
葬儀は領地を挙げての盛大なものとなった。エルフィーゼは喪服に身を包み、黒いヴェールに視界を遮られながら涙した。その涙が本物だったかどうか、彼女自身にもはっきりとは分からなかった。
ただ一つ言えるのは、舅はいつだって優しかった。無責任で無力な立場から、エルフィーゼの苦境に同情してくれた。アルベルトにとって舅はエルフィーゼと同じく敵であったゆえ、二人は同志に近しい間柄にいた。
お別れは悲しかった。
再び夏が巡るとヴィルヘルムが帰ってくる。彼はさすがというべき成長を遂げていた。もちろん、エルフィーゼの思惑通りという意味で。
体つきが逞しくなり、言葉遣いが洗練され、反面、表情や態度に卑屈さが増した。エルフィーゼの与える金を拠り所に寄宿学校を生き延びた結果、強い者に阿り弱い者に居丈高になることへの羞恥を覚えることができなかったのだ。
エルフィーゼが金を出すときはにこにこヘイコラするが、反対に何も得られないと分かれば目に見えて不貞腐れ、ときには長期休暇を切り上げて馬車で王都へ向かったりもする。といっても休暇期間中は寄宿学校は閉まっているので、おそらくよからぬところで時間を潰すのだろう。それができるだけの金を彼女は義理の息子に与えていた。
(父親そっくり)
に、年々成長している、と思う。
アルベルトとリズが出会ったのは賭博場兼娼館だったと聞く。病気の家族の治療費を稼ぐため、泣く泣く夜の酒場で給仕の真似事をしていたリズをアルベルトが目に止め、治療費と身請け代を支払って王都の家に囲ったという美談。
その結果、没落したとはいえ由緒正しい子爵家の出の正妻を蔑ろにすることになるのだから、まったく何が真実の愛だという話にしか聞こえない。
「エルフィーゼ様は、今日もお美しい」
十代も半ばになったヴィルヘルムは、いつしか、そんな軽口を叩くことさえある。
「あら、口が達者になられましたこと」
エルフィーゼはにこにこ微笑み、もう頭を撫でることはしない。彼はすでに立派な少年だった。
(可愛いものね。可哀想で、それでいて――薄気味悪いくらいに、可愛らしいこと)
かつての生意気さも、あの惨めな怯えも表面上は見当たらない。だがその笑顔の裏に狡猾な計算が渦巻いているのがよくわかる。
そうして戦争がなし崩し的に終わった。
前の生でエルフィーゼが記憶していた通り、戦争はぐずぐずと溶けて終わった。決着らしい決着もつかぬまま、両国が疲弊しきったところで一応の停戦条約が結ばれたのである。国境地帯の一部を割譲し合い、双方が痛み分けを主張する、実に不毛な幕引きだった。
その報せが届いたのは、夏の盛りだった。ちょうど、ヴィルヘルムが長期休暇で屋敷に帰っていた頃である。今や十六歳になった彼は、寄宿学校の卒業も近い。すっかり見違えるほど背が伸び、痩せこけていたかつての面影は、もうどこにもなかった。陰険で卑屈で猫背の、そんなところが若い娘には魅力的に映るのだろう、影のある美青年。シュタイン侯爵家の庶子。それがヴィルヘルムである。
「戦争が終わったんだ……」
庭のベンチに腰かけヴィルヘルムは呟く。届いたばかりの新聞を眺め、物憂げである。
「あなたのお父様が、生きて戻られるかもしれませんわね」
エルフィーゼは彼の前に腰を下ろし縫物をしながら言う。ヴィルヘルムは弾かれたように顔を上げた。
「……戻ってきたら、どうなるんでしょう」
「さあ。それは、わたくしにも分かりませんわ」
エルフィーゼは玉止めをぱちんと切った。
彼女はこの日を待っていた。戦争の終結。その前に、すべてを終わらせるため奔走してきたのだった。舅に書かせた当主権限譲渡の契約書さえ、その前座に過ぎなかった。
舅の死後、エルフィーゼは王都の中央法務院に対し、姦しく手紙を送り続けていた。アルベルトが生死不明のまま、すでに六年以上が経過していること。戦地からの音信が完全に途絶えていること。そして――政務担当官への、それなりの額の『便宜』、『季節のご機嫌伺い』。『夫がおらず領地で不安で不安でたまらない疑似未亡人の嘆きの手紙』と『付け届け』。
法律上、生死不明者は一定の期間を経れば死亡したとみなされる。だがそのためには家族が死亡宣告を宣言する必要があった。
通常であれば七年から十年という長い年月を要する手続きだが、然るべき筋への根回しと、多少の金の力、そして戦時特殊体制下であれば――その期間は多少の短縮がきく。
戦争終結が七年後であるという情報を知っていなければ、きっとエルフィーゼは後手に回ってしまっていただろう。だが、彼女は知っていた。
担当官たちはこの疑似未亡人が焦っている理由を邪推して嘲笑った――おおかた、庶子に財産を掠め取られそうだとか、早く再婚したい男がいるのだろうとか、そんな理由で。
エルフィーゼは誰にどう思われようが構わなかった。決して不自然にはならないギリギリの押し問答を続け、最後の一押しをかけた。担当官への追加の賄賂、そして『シュタイン侯爵家の存続のために、一刻も早い正式な相続手続きが必要だ』という、もっともらしい嘆願書。
その甲斐あって――アルベルト・シュタインの死亡宣告はすでになされていた。
戦争終結の報せが新聞に載る、わずか三週間前のことだった。
正式な死亡宣告だ。すでに官報にも載り、発行されている。
つまり書類上、アルベルト・シュタインはすでに死んでいる。
れっきとした侯爵であった舅の権限譲渡の契約書。そして、現当主代理の正式な死亡宣告。こうしてシュタイン侯爵家の当主の座はすでに、エルフィーゼ・フォン・シュタイン個人のものとして確定しているのである。
ちらり、エルフィーゼは死人の息子を盗み見る。ヴィルヘルムは真剣な、青ざめた顔をして新聞を上から下へと眺めていた。頭の中にどんな皮算用が蠢いているのやら。
「お父様がお帰りになったら、あなたの成長を褒めてくださいますよ」
エルフィーゼは次の糸を針に通しながら囁いた。ヴィルヘルムの目の中に怪しい光があるのを知りながら。
さて、それからさらに十日ほどが経った午後のこと。夏のうだるような熱気がまだうずまいていた。
屋敷の門前に、一台の粗末な荷馬車が停まった。人影が降り立つ。ぼろぼろの軍服を纏い、日に焼け、痩せこけた一人の男だった。
顎には無精髭が伸び、頬はこけ、かつての整った顔立ちの面影はどこにもない。だが見る者が見れば知れただろう、その氷のような蒼い瞳だけは――間違いなく、あの男のものだった。
「エルフィーゼ!!」
男は屋敷を見上げるなり、掠れた、しかし確かな怒声を張り上げた。
「俺だ! 帰ってきたぞ! リズ! ヴィルヘルム!」
その声を聞きつけ、屋敷の中から使用人たちがざわめき顔を覗かせる。誰も得体の知れない男を出迎えに行こうとはしない。
いつものように庭にいたヴィルヘルムとエルフィーゼは顔を上げ、目を見かわした。無言のまま立ち上がって急ぐエルフィーゼに、義理の息子が続く。
いつの間にかヴィルヘルムは走り出していた。あっという間に侯爵夫人を追い抜き、玄関ホールへ。
「なんで誰も出迎えないっ! 俺だ、アルベルト・シュタイン侯爵が戻ってきたぞおおお!」
「……父上っ。父上?」
玄関ホールで、少年は棒立ちになった。勝手にずかずか上がり込んできた男は、口を開けて両翼のような階段を見上げている様子だった。だがすぐに、はっと気を取り直して少年を見つめた。
「ヴィルヘルム……! お前、無事だったのか。ああ、よかった……リズはどこだ? お母さんはどこだ?」
アルベルトはふらつく足取りで息子に駆け寄ろうとした。だがヴィルヘルムは、その場から一歩も動かなかった。父の姿をじいっと見つめ、ふいと目を逸らす。酷薄な仕草は結婚初夜の父親にとてもよく似ていた。
「ヴィルヘルム? ヴィル! どうしたんだ、こっちにこないか。お父さんだよ!」
男はわめいた。汚い身なり、しらみが飛びそうな不潔な服の裾をぶんぶん振って。
玄関先にエルフィーゼはゆうゆうと姿を現した。
七年の歳月を経て、エルフィーゼはすっかり侯爵夫人としての貫禄を身に着けていた。二十歳の小娘ではなく、大人の女である。さやさやと衣擦れの音を響かせ、優雅に足を前に出して進む。ゆっくりと階段を回り込み、その男を目にとめる。
貴婦人然としたその顔が驚いたように固まった。
「まあ」
彼女は眉を顰め呟いた。
「これは、どちら様でしょう?」
その一言に、アルベルトの足が止まった。
「……なんだと?」
「初めまして、と申し上げるべきかしら。突然、当家の門前に現れて、当主の名を騙るなど、いささか無礼が過ぎますわよ」
エルフィーゼは嘲笑を隠さず、アルベルトの顔色が青ざめるのを楽しんだ。
「な――何を、言っている」
「我が夫、アルベルト・シュタイン様は、七年前の戦争において、リンデンブルク方面にて行方不明となられ、然るべき手続きを経て、すでに三週間前、正式に死亡が宣告されておりますの」
エルフィーゼは、懐から一枚の書類を取り出した。中央法務院発行の、死亡証明の写しである。
ぱらり、白い手からそれを大理石の上に落とし、アルベルトは足の前に落ちてきたそれを屈んで拾う。わなわな震える肩は屈辱に満ちている。
「ですから、あなた様が誰であろうと――少なくとも、法律上は、アルベルト・シュタイン様ではあり得ませんの。とても残念なことですけれど」
アルベルトは目を血走らせながら、そこに記された文字を、何度も何度も読み返す。
「馬鹿な……! 俺は、生きている。生きて帰ってきたんだぞ。ここにいるじゃないか。現に、こうして、お前の目の前に立っている!」
「まあ、それは大変な誤解ですわ。もしあなたが本当にアルベルト様だとおっしゃるなら、法務院に出向いて、正式な異議申し立てをなさればよろしいでしょう。もっとも……」
エルフィーゼは眉を寄せたまま、汚いものを見る目でアルベルトを見据える。
「我が夫といえば七年もの間、戦地から一度の連絡もなく、生死さえ分からなかった方……。そんな方が今更、証拠もなく『自分は生きていた』と主張なさっても、法務院がすんなり認めてくださるかどうかは存じませんけれど」
「証拠だと……!? お、俺の顔を見ろ! 俺の声を聞け! これ以上の証拠がどこにある!?」
「顔ですって? 七年前とは随分、面変わりなさったようですけれど」
エルフィーゼは、わざとらしく首を傾げて見せた。
「戦争で行方知れずになった当主を名乗る者が、終戦した途端、浮浪者のような姿で現れるだなんて。正直に申し上げて、詐称者だと疑われても仕方のないことだと思いますわよ」
アルベルトの顔が、怒りで真っ赤に染まっていく。
「詐称者だと……! ふざけるな! 俺は、正真正銘、シュタイン侯爵家当主、アルベルト・シュタインだ。お前が誰よりもそれを知っているはずだろう!?」
「存じませんわ。わたくしが存じておりますのは――我が夫アルベルトは出征し、生死不明になった。それだけですもの。彼の人格も行動原理も、何も存じ上げません。だって――知る暇もないまま彼は王都に行ってしまったんですもの!」
くす。エルフィーゼは笑う。
かつてやられたことをそっくりそのまま当人にやり返した者が今この場にいるとするならば、それは彼女のことだった。
何とも言えない表情で立ちすくむヴィルヘルムは、父親を助けない。本当にアルベルトの顔を覚えていないのかもしれなかった。
「ちくしょう……! リズ、リズはどこだ。あの女なら俺を見分けられる! リズを出せ!」
「死にました」
「……は?」
嘆かわしい、というようにエルフィーゼは頬に手を当てる。ようやく進み出てきた侍従たちのうち、家令がこほんと咳払いした。
「奥様、ここは私が説明を……」
「いいえ。大丈夫よ――リズ様はなんというべきか、多情なお方だったようですわね。アルベルト様が出征なさってすぐ、ご友人のルドルフ様と深い仲に。ヴィルヘルム様を見捨て、お二人で立ち去ってしまわれました。その際犯した窃盗の罪で、絞首刑に」
ゆら、と足元が揺らいだ様子でアルベルトは床にへたりこんだ。汚いのでやめてほしい。
「なん……っ、なん……そんなことが、あるはずない。お前が嵌めたんだろう! そうなんだな、エルフィーゼ! お前があああっ、俺のっ、愛しいリズを!!」
「現シュタイン侯爵家当主、エルフィーゼ・フォン・シュタインに対し無礼ですわよ」
エルフィーゼの氷のような一喝に、立ち上がり彼女に掴みかかろうとしたアルベルトの動きが完全に止まった。
「今……なんと言ったんだ……」
「先代――お義父様が、ご生前、当主権限のすべてをわたくしに委任なさいました。ああもちろん、正式な契約書をもってして、ですわ。そしてあなた様が死亡宣告を受けた今、シュタイン侯爵家の当主は法律上、正しくわたくしですの」
エルフィーゼは静かに佇む。貴婦人らしく、立っているだけで優雅さを感じさせる振る舞いで。
「この屋敷も、この領地も、シュタイン侯爵家に属するすべての資産も――今は、わたくしのものですわ」
沈黙が落ちた。
アルベルトははくはくと口を開け閉めし、言葉を失っ立ち尽くした。だがやがて、顔面がドス黒く変色し、怒りのあまり震えながら頭をぶんぶん振る。エルフィーゼに詰め寄りたくても、彼女の背後に居並ぶ男たちが怖くてできないらしい。うろうろ小さな円を描いて歩き回り、叫んだ。
「――貴様っ、貴様あああああ!」
「そろそろお帰りくださいましな。当主を騙る偽物に居着かれただなんてたまりませんもの」
「貴様! 最初から、これを狙っていたのか。俺を出征させたのも、リズを……ルドルフを……全部、全部っ、貴様の仕組んだことだったのか」
「何のことかしら?」
エルフィーゼはあくまで、涼しい顔を崩さない。いつの間にかヴィルヘルムが彼女を庇うように斜め前に出てきている。エルフィーゼから見えるのは、リズの碧の目を受け継いだ、アルベルト似の少年の横顔のみ。アルベルトがそのことに傷ついた顔をするのが愉快でたまらない。
「わたくしはただ、シュタイン侯爵家の名誉のために動いたまでのこと。領地の面倒を見、当主代理として、できる限りのことをしてまいりました。恥じ入る要素はひとつもございません。ましてや、誰とも知れぬ方に責められるいわれはありませんわ」
「ふざけるな! ふざけるなあああああああッ!!」
アルベルトは地団太を踏んで喚き散らす。
「俺から全部奪う気か! 家も、財産も、地位も、名誉も! 俺が命懸けで戦っていた間に、貴様は――貴様はお飾りの妻の立場を利用して、俺の人生をそっくりそのまま奪い取ったんだ!」
「人生、ですって?」
静かな怒りがエルフィーゼの声を震わせる。年若い厩番が飛び上がるほどの声音だった。
「人生を奪われるということどういうものか、分かりますの? 奪われるに足る人生すらないということがどういうものなのか?」
「ふざけるなあああああああああああああああ、ふざけるなあああああああああああああああ」
「ああもう、耳が痛いったら。――お前たち、叩きだして」
従僕たちは正しく動いた。汚い男を輪になって取り囲み、じりじりと距離を詰めていく。
「――エルフィーゼ様。さあ、お部屋へ。お耳が壊れてしまいますよ」
ヴィルヘルムは迷う様子を見せなかった。スムーズにエルフィーゼへ手を差し出し、義理の母が笑ってエスコートを受け入れるのを笑う。
(勝った)
とエルフィーゼは思った。
これから先もヴィルヘルムを甘やかそう。そしていつか、ヴィルヘルムを次期当主に指名するのだ。もちろんギリギリまで先延ばしにする。彼がやきもきして、じりじりしながら権力に酔いしれるように。そう、かつてのアルベルトが舅に抱いていた感情を彼が彼女に抱くまで時間はかかるまい。
エルフィーゼが年老いて死んだとき、ヴィルヘルムはシュタイン侯爵家を滅ぼすだろう。そのときやっと、エルフィーゼの前の生は報われる。頑張ってよかったと、そう思うことができるだろう。徹頭徹尾、自分のことしか考えないまま、エルフィーゼは笑って死ぬ。彼女に前の生の記憶を蘇らせた、天使様か悪魔も笑うだろう――
そのときである。
アルベルトが奇声を発して複数の男の手を力任せに振りほどいた。腐っても戦場帰りということか、これが火事場のなんとやらということか。
彼は腰のベルトから短剣を取り出すと、エルフィーゼへ切っ先を向け突進する。突然のことに彼女は反応できない。使用人たちは身を挺して女主人を守ろうとした、が一歩遅い。
唯一、一番近くにいたヴィルヘルムだけが対応できた。
「う、あああ……」
ヴィルヘルムはエルフィーゼの前に立ちふさがると、アルベルトの足取りが一瞬、鈍る。その隙をついて少年はアルベルトの手を思いっきり蹴り上げた。
ばきいいいぃん、と鋭い、水晶が割れるような音がした。
「ヴィルヘルム!」
エルフィーゼは叫ぶ。
「ぐ、お、おおお……」
折れた短剣の刃が突き刺さった顎を抑えて、くらくら、アルベルトは崩れ落ちた。侍従たちが我先にと飛び掛かかり、殴ったり蹴ったりと大忙しになる。
「ヴィルヘルム」
エルフィーゼは勢い余ってつんのめったままのヴィルヘルムの腕をそっと取った。少年の汗は甘酸っぱく、見開かれた目は少女のように大きい。
「ほんとは、気づいてました」
「え?」
「エルフィーゼ様が全部、仕組んだんだろうなあって……でも、寄宿学校でやっていけたのはエルフィーゼ様のおかげだから。だから、俺」
ヴィルヘルムの目に涙が盛り上がる。綺麗な雫だった。清流のように綺麗な。
「俺、俺……父上ぇ!」
泣き出す少年をエルフィーゼは抱きしめる。
彼の頭越しに、死にかけたアルベルトへ勝利の微笑みを見せた。




