8
ヴィルヘルムが寄宿学校に入って初めての夏。長期休暇の時期である。彼は乗合馬車でシュタイン侯爵家に帰ってきた。
馬車から降りてきた少年の姿を見て、エルフィーゼは内心で小さく息を呑む。――半年前とは、別人のよう。
頬はこけ、目の下には薄っすらと隈が浮いている。かつては生意気に跳ねていた金髪は今や艶を失い、ぺたりと頭に張り付いていた。左腕には包帯が巻かれ、上着の袖から覗く手の甲にはまだ新しい擦り傷の跡が残っている。歩き方さえ、どこかぎこちなかった。
「エルフィーゼ様……」
ヴィルヘルムは、玄関先に出迎えたエルフィーゼの姿を見るなり、小さく呟いた。その声には、以前のような無邪気さも生意気さも欠片も残っていなかった。彼はただただ、疲れ切り思考が鈍り、ようやく安全領域に避難できたことに喜ぶ気力もない、小さな生き物だった。
(あら。思ったよりも、うまくいっているじゃない)
エルフィーゼはその変わり果てた姿を見、顔で笑いながら内心ほくそ笑んだ。半年間、名門の子弟が集う寄宿学校で彼はどんな目に遭ったというのだろう? 庶子という出自、平民のアクセントがある言葉遣い、母親が処刑された過去を持つ少年。彼が教師や先輩や同級生によってどんな扱いを受けたか――想像するのは難くない。
「ヴィルヘルム様!」
エルフィーゼは、両手を広げて駆け寄ると、少年のあえかな身体を強く抱きしめた。
「ずいぶん、痩せてしまわれて……。学校の勉強は、そんなに大変でしたの?」
「……うん。すっごく」
「まあまあ、それは頑張られましたのね。えらいこと、えらいこと――あら、包帯。こんなに運動の授業を頑張ったんですわねえ!」
にこにことエルフィーゼはヴィルヘルムの頭を撫で、通常、そんな怪我をするほどの授業はありえないのだという事実に気づかない、素朴で世間知らずな貴婦人を演じる。
おそらく怪我の原因を聞けば、この子はけなげな見え透いた嘘をつくことだろう。転んだとか木から落ちたとか。
(今となっては頼れるのは私だけですものねえ)
――『孤児』は周囲の大人たちの感情に敏感だ。
ヴィルヘルムが気づいているのかいないのか、あるいは寄宿学校で『わからされた』のかもしれないが、彼の人生がこの先どうなるかはエルフィーゼ次第である。
その日の夕食は、ヴィルヘルムの好物ばかりを並べさせた。少年は最初こそ遠慮がちにスプーンを動かしていたが、久しぶりのまともな食事に、次第に誰の声も届かない位夢中になっていった。かつてのように行儀悪く跳ねるスープの音も今は我慢できる。
「ヴィルヘルム様。これを」
食後、エルフィーゼは少年の手にずしりと重い革の巾着を握らせた。中には金貨がぎっしり詰まっている。
「え……こ、これ何?」
「あなたが寄宿学校で立派に励んでいらっしゃる証ですわ。好きなように使ってくださいませ。お友達に何か奢って差し上げるもよし、欲しいものを買うもよし」
友達などいないだろうことを、エルフィーゼは知っていた。
男の子だらけの環境で、頭の良さでも腕力でもなく保護者からもらった金の力で身を守ろうとする『卑怯者』がどうなっていくのかも。むしろそうなることを望んでエルフィーゼは金を渡した。これから先、ヴィルヘルムが望むがままに望むがものを与えるのだ――彼を決して一人前にしないために。
「エルフィーゼ様、ありがとう……」
ヴィルヘルムは巾着を胸に抱きしめ涙ぐんだ。
「あなたが幸せそうにしていてくださるのが、わたくしにとって一番の幸せですわ」
エルフィーゼは心にもないことを実に滑らかに口にした。
「わたくしはあなたの義理の母なのですもの」
ヴィルヘルムは弾かれたように顔を上げると、しくしくと泣き出すのだった。
それから休暇の二週間、エルフィーゼは、ヴィルヘルムを惜しみなく甘やかした。庭で遊ぶ時間を作り、彼の好きな菓子を用意させ、夜には物語を読み聞かせてやった。少年は少しずつ、以前の――いや、以前よりもさらに縋りつくような目で、エルフィーゼを見るようになる。母親そっくりの、媚びたまなざしで。
(結構。結構ですわ)
ヴィルヘルムにとってエルフィーゼが世界でただ一人、自分を大切にしてくれる人であればあるほど、都合がいい。寄宿学校という地獄で彼が拠り所にできるのは、もはやこの屋敷の記憶とエルフィーゼの存在だけになることだろう。
子供は無力だ。かつてエルフィーゼがそうであったように、大人によって人生を左右されてしまう。かわいそうに。なんてかわいそう。ふふ。
二週間の休暇は、あっという間に過ぎた。
馬車に乗り込むヴィルヘルムの顔は、来た時よりも幾分血色が良くなっていたが、寄宿学校へ戻ることへの恐怖を隠しきれていなかった。
「また、すぐに手紙を書きますわね」
エルフィーゼがそう言うと、少年は馬車の窓から身を乗り出し何度も頷いた。
「うん……うん、待ってる」
馬車が遠ざかっていくのを見送り終えると、エルフィーゼは笑みを消す。
(さてさて。これで、また元通り)
シュタイン侯爵家は再びエルフィーゼだけの城に戻る。舅の看護も資産の運用も、誰にも邪魔されずに続けられる。――永遠にこうであってほしい、とエルフィーゼは願う。
だが、大抵の物語がそうであるように、その静けさは長くは続かなかった。
ヴィルヘルムが発ってから数日後のこと。屋敷の門前に、豪奢な馬車が停まった。降り立ったのは整った顔立ちと、隙のない立ち居振る舞いの男である。ユリウス・ハルヴァートだった。
彼にしては珍しく、その表情には苛立ちが滲んでいた。
「これはこれは、ハルヴァート様。急なお越しで驚きましたわ。いかがなさいましたの?」
エルフィーゼが驚きながら出迎え、ハルヴァートは言葉少なに頷く。
応接間に通された彼は椅子に腰かけるなり、単刀直入に切り出した。
「ルドルフ・アゼンハルトが、私の監視下から姿を消しました」
「――まあ」
「あの男は腐っても貴族であるから盗みで処刑になることはない。しかし借金は返してもらわねば困る、ということで、私の商会の使用人として一生涯こき使ってもよいという取引を、東の法廷と交わしたのです。侯爵夫人の願い通り、より厳しい処罰という体裁でね。財産も自由もない、ただの労働力として。実質、生きたまま社会的に葬った、と言ってよかったのだが」
ハルヴァートは前髪を払うと、指先で肘掛けを苛立たしげに叩いた。
「辺境の採掘場に送っておいたのですが……昨夜、警備の目を盗んで逃げ出したという報告が届きましてね」
「そんな……」
エルフィーゼは微笑みを忘れぬまま内心で舌打ちする。ハルヴァート商会の手抜かりへの苛立ちと、やはり現実とはこういうもので、一筋縄ではいかないのだ……というかすかな興奮。
ハルヴァートが鋭い目をエルフィーゼに向け、かすかに震えながら彼女はそれを受けた。
「あの男が向かいそうな場所にお心当たりは。侯爵夫人?」
エルフィーゼの震えは徐々に収まっていった。
「知りませんわ。けれど――アゼンハルト家がルドルフを勘当したという話は耳に入っています。彼が頼れる相手など、もはやこの世にそう多くありませんでしょう。つまり――」
「ではここへ戻ってくる可能性はありますね。あなたへの復讐のため」
ハルヴァートはさらりと言ってのける。
「でしょうね」
エルフィーゼは歯ぎしりをこらえきれない。ルドルフがこの屋敷に舞い戻ってくるとするならば、それはハルヴァートの言う通り復讐のためか、あるいは――金と身の安全を求め、なりふり構わぬ懇願のためか。
どちらにせよ、都合が悪い。
あの男があの盗難劇をエルフィーゼが仕組んだものだと気づいているのか、いないのか。それを外に漏らす気があるのか、否か。状況は相手次第で変わってしまう。
「傭兵たちをお貸ししましょう、夫人。せめて身辺警護をさせていただかなくては、私としても寝覚めが悪い」
「いいえ、お気持ちだけで結構ですわ、ハルヴァート様」
彼の申し出にエルフィーゼは首を横に振る。
「使用人たちが何事かと驚きますし、この戦時に商人の方の私兵をお借りしただなどと知れ渡れば、他の貴族家の方々への聞こえも悪くなります。――当家の問題です。当家だけでなんとかしてみせますわ」
ハルヴァートはそれ以上無理強いしなかったが、シュタイン侯爵家を辞するとき、一度だけ振り返って囁いた。
「どうかお気を付けて」
「ええ」
そうして夜になった。使用人たちに厳命して戸締りをしっかりさせたものの、さてさて、どうなることやら。
夜半過ぎのことである。エルフィーゼは寝室の扉の外に、かすかな物音を聞いた。
息を潜め、ガウンを羽織り化粧台の下の引き出しを開けた。中にあるものを取って部屋を出る。廊下の先、両翼の階段――かつて朽ちていたが、今はすっかり修繕され、艶やかな手すりを取り戻したその階段の上に、月明かりに照らされた人影があった。
痩せこけ、髭も剃らず、かつての優男らしい面影が見る影もなくやつれた男。かたわらには若いメイドが一人。女主人に見つかったことにぎょっと身をすくませて、走って逃げていく。
(あとでお仕置きだわね)
場違いにもエルフィーゼはそう思った。目の前の男が恐ろしく、現実逃避したかったのかもしれなかった。
「やっぱり、いたか」
ルドルフは、ぎらついた目でエルフィーゼを睨んだ。かつての軽薄な色男の余裕は、もはやどこにもなかった。
「お前のせいだ。全部、お前のせいだ……! リズは処刑されたのも、俺が……俺が! 俺を採掘場に送ったのも、お前の仕業だろう。全部全部、お前が仕組んだことなんだろう!?」
「何をおっしゃっているのか、わたくしにはさっぱりですわ――」
「白々しいことを言うな! お前が盗難をでっち上げたんだ。あのネックレスも真珠の指輪も、サファイアもエメラルドも、お前がわざと目につく場所に置いていたものだったんだろう!」
ルドルフはキイキイ声で叫んだ。
「償わせてやる。この屋敷にあるだけの金を寄越せ。さもなくば、社交界中に――お前がどんな女か洗いざらいぶちまけてやる!!」
ぶつっと何かが切れる音がした、気がした。
エルフィーゼは両手を後手に組み、少女のようにころころ笑った。
「そんなにわたくしを脅したいならもっと近くへいらして。声が届きませんもの」
その笑みに一瞬たじろいだようだったが、ルドルフは退かなかった。もうのっぴきらなくなっていたのだろう。追い詰められたけだものはいくらでも活路を見出すものだ。エルフィーゼが観念したと思ったのか、それとも自分の手練手管なら世慣れない貴婦人の一人や二人ものにできるとでも踏んだのか。
エルフィーゼがいるのは両翼の階段の最上部。二階にある当主一家の居住空間へ続く白い大きな扉の前。そこから離れて、月明りの下、ルドルフが上がってくるだろう階段のてっぺんまで歩いていく。ゆっくりと。
修繕されたとはいえ、深夜である。月明かりのみを頼りにした足元は、決して確かなものではない。ルドルフはエルフィーゼの前までくると、ぎろりと彼女を睨みつけた。手を伸ばせば殴りつけられる距離、両手を掴めば無力化できる距離である。そもそも貴婦人がこの時間に他人の男と一緒にいること自体、人に見られればエルフィーゼは二度と社交界に顔を出せなくなることだろう。
彼はそれを知っていた。彼女もそれを知っていた。
だから男は油断していた。女は自分にそんなことができるとは思っていなかったが、それでもしなければならなかった。だってもういやだし、人生を無駄にするの。
エルフィーゼは目の前のルドルフに視線を合わせ、にっこり微笑みかけ、それから部屋を出る際にはすでに安全装置を解除していたピストルを彼のみぞおちにくっつけてぶっぱなした。
「じゃ、さようなら」
男の身体が大きく仰け反る。女性でも扱える小さな口径のささやかなピストルだ、男からすればおもちゃでしかないだろう。だがここは階段のてっぺんだった。ルドルフはもんどりうち、悲鳴を上げる暇もなくぐらりと姿勢が傾ぐ。階段の手すりを掴み損ねた指先が空を切り、そのまま石造りの階段を彼は仰向けに落ちた。幾度も頭や肩を打ち付けながら、ごろごろ転がり落ちていくその姿の滑稽さ。
そして大理石の玄関ホールに最後に響いたのは、鈍い、固い、重い音だった。
屋敷は静寂に包まれた。
エルフィーゼは、階段の下に横たわる男の姿を無感動に見下ろす。手のピストルは煙を吹いている。ええっと、残りの弾は……撃ち方は知っていたけれど撃ったあとどうすればいいのか知らないわ、困った。
ルドルフはぴくりとも動かない。ぐぎっと音がした。きっと首の骨が折れた音だ。あの高さから落ちれば、まず助かるまい。
困ったことにエルフィーゼは動揺していなかった。精神年齢はずいぶん上なので、これが年の功というやつかもしれない。
(――さて)
次にすべきことは決まっていた。
エルフィーゼは私室に取って返し、鈴をちゃりんちゃりん鳴らして屋敷じゅうを起こした。舅以外の全員がドタバタ駆けてきたのは、まあ、当主夫人とルドルフが繰り広げる楽しい寸劇を楽しむ者がそれだけ多かったということだろう。
感心なことにルドルフを引き入れたあの若いメイドは真っ先にやってきて、泣きながらエルフィーゼの足元に跪いた。
「お前の沙汰は追って知らせます。自分の大部屋で謹慎しておいで」
というと、えぐえぐ泣きながら引き返していく。周りを走る同輩たちが侮蔑の視線を投げかけたり、励ましの言葉をかけたりする。まああんな小者は本当にどうでもいい、今は。
従僕の一人を使者として走らせ、ハルヴァート邸へと密書を届けさせた。数刻後、まだ夜明け前にハルヴァートは屋敷の裏門から入ってきた。
「これは、これは」
階段の下に横たわる死体を一瞥し、ハルヴァートは口笛でも吹きそうな調子である。深刻さは感じられなかった。やはり昼間のあの表情も声音も、本心ではないとは言いきれないが、商売上の手抜かりを取引相手に詫びるようなポーズだったのだろう。
「ずいぶんと思い切ったことをなさいましたな」
「わたくしは正当に自分の身を守っただけ。元はと言えばあなた様の不始末ですわよ」
「仰る通りだ。では、私が始末をつけましょう。私の商会には、こうした後始末に慣れた者もおりますのでね――が、失敬。いったんそれを預からせてください」
「ピストル? 助かりますわあ。これどうやったら手から離れるんですの」
ハルヴァートは残念そうな面持ちで、慎重にエルフィーゼの手から凶器を引き剥がす。その段階になってようやく、彼女はピストルがおかしいのではなく自分が指を強く握りしめすぎてそれを離せなくなっていたのだと気づいた。
「まあまあまあ」
「やれやれ。若いご婦人がこんなもの持つべきじゃありませんよ」
「正当防衛のためです」
「どこでこんな物騒なもの扱い方を覚えたんです?」
「ないしょですわ」
エルフィーゼはウインクした。
――前の生で戦争が終わったあと、シュタイン侯爵家領は一時的に治安が悪くなったことがあったのだ。御者兼庭師で腰が曲がった八十過ぎのヨーゼフ、今回の生ではとっくに隠居してエルフィーゼが与えた安楽な管理人生活を別邸で送っているだろう老爺が、最低限の護身として教えてくれた。
まさか使う日がくるとは思わなかったし、その当時の自分がまだ心のどこかで、でも本当に危なくなったらさすがのアルベルトも領地の様子見に来て、私を連れ出してくれるだろう……なんて考えていたことを思い出してちょっと吐き気がした。
ハルヴァートが呼んだ部下たちが到着すると、そこから先は速かった。死体は手早く運び出され、ピストルは取り上げられどこかへ消え去り、血の跡は拭われ、大理石のへこみを特殊な粘土で補修し、まるで最初から何もなかったかのように、玄関ホールは元の静けさを取り戻していく。
その一部始終を見届けたあと、ハルヴァートはエルフィーゼと向かい合った。
「さて、侯爵夫人。本日はこれでお暇するつもりです」
すでにしらじらと夜が明け始めていた。エルフィーゼは頷いた。
「どうか目立たず立ち去りなさってね。噂になってしまいますから」
「――手厳しい。ええ、きっとそうしましょう」
そして彼らが去ってしまうと、エルフィーゼは息つく暇もなくメイドたちの寝泊まりする部屋へ向かう。
エルフィーゼを裏切り、ルドルフにそそのかされて彼を引き入れたメイドに罰をくれてやらねばならない。彼女の怠慢によってエルフィーゼの侯爵夫人としての体面は、あやうくなりかけたのだから。




