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エルフィーゼは通知書を取り落とした。
「あら? 奥様、お手紙が……」
「だめっ」
「まあ」
「ああごめんなさい、マリア。どうかその手紙の中を見ないで。内容も聞かないで……」
芝居がかった仕草でエルフィーゼはソファにつっぷす。そのまま一日そうして過ごし、ヴィルヘルムの相手をするため庭へ出て行った。
そうなれば好奇心でできているメイドたちは争い合って手紙の内容を知ろうとするもの。
そうしてリズ処刑の事実はシュタイン侯爵家領全体へ触れ回られることになった。
すでに死人となった平民女の息子、ヴィルヘルムが母の死を知ったのは三日後のことだった。
「うわあああああああああん」
と泣きわめく少年の声、それを宥めるエルフィーゼの声が屋敷から途絶えることはなかったという。
それからヴィルヘルムは荒れに荒れ、
「どけクソババア!」だの「お前が母上をハメたんだろ!」だの「殺すぞババアども!」だの、エルフィーゼもメイドたちもひどい目にあったのだった。肉切りナイフで斬りかかられた若いメイドさえいた。
エルフィーゼはそんなヴィルヘルムを庇い、使用人たちは増長した愛人の子に憎悪を募らせ折檻する。結果としてヴィルヘルムはエルフィーゼの膝元へ逃げ込んでくるようになった。そこが一番安全だったからだ。
口ではヴィルヘルムを庇いながらも、エルフィーゼは彼のため今のところ何もしていない。そのことに、たった五歳の頭では気づけない。
さて、リズの処刑から一月ほど経った頃。
エルフィーゼはヴィルヘルムを自室に呼んだ。少年は最近、めっきり大人しくなっていた。母の死を聞いてからしばらくは泣き喚いていたが、今では感情を表に出すことも少なくなり、代わりにエルフィーゼの後をぴったりとついて回るようになっていた。
「ヴィルヘルム様。少し、大切なお話がございますの」
「なあに、エルフィーゼ様」
彼はエルフィーゼをもう侮辱しない。おばさん、ブス、ババアと呼ばれなくなり、エルフィーゼがそれを喜んだかと言えばもちろんそんなことはない。
――母親が教えたから子供がそうした単語を使うようになったのだ。そうでないというならどうしてこんな子供がそんな単語を知り、侮蔑語だと理解して口にするのだ? おそらく、父親と一緒になって家族ぐるみで彼らはエルフィーゼをそう呼んでいた。
だから彼女にとって、ヴィルヘルムは敵である。大人たちの確執の被害者であることと、エルフィーゼの敵であるということは両立する。幼いからといってもアルベルトの子である以上、いずれシュタイン侯爵家の相続権を主張するかもしれない。エルフィーゼはこの家も領地も譲る気はない。
(敵)
に向かって、彼女は優しく微笑んだ。ソファの横をぽんぽん叩くと素直によじ登ってくる。ぷくぷくした手が器用に布地を掴んで蠢くのに、無数の虫を見たときのような怖気が走った。
「あなたももうすぐ六歳になられますわね。そろそろ、きちんとした教育をお受けになるべき年頃かと思いますの。王都の名門寄宿学校へお入りなさい。シュタイン侯爵家の男児は皆、そこへ入学するしきたりですもの」
「寄宿学校……?」
ヴィルヘルムの顔が目に見えて曇った。
「エルフィーゼ様と、離れて暮らすの……?」
今更甘ったれてくるな半平民のガキが。
「長期休暇には、ちゃんとこちらへ戻ってこられますわ。それにあなたはいずれ、シュタイン家に恥じぬ立派な殿方にならなければなりませんもの。しっかりとした教養と、礼儀作法を身につける必要があります」
庶子に相続権はない。正妻に子がない場合にのみ便宜上発生する場合もあるが、その場合はかなり特殊な例として各種機関で審議の元、国王の承認が必要となる。
エルフィーゼの目的はヴィルヘルムに由緒正しい寄宿学校で箔を付けさせることではない。むしろ逆である。
寄宿学校という場所は、一種の治外法権の土地だ。子供が子供のルールでもって相食む弱肉強食の場所。エルフィーゼは少女時代を花嫁学校で過ごしたが、そこは学校とは名ばかりの女児の女児による女児らしいいじめの巣窟だった。男兄弟から、寄宿学校はもっとひどいと聞いた。いじめによって死者が出ることさえあるという。
他の生徒たちは皆、貴族同士の婚姻から生まれた毛並みのよい少年たちである。そこへ、言葉遣いさえあやふやなヴィルヘルムを送り込む。シュタイン侯爵家の縁者として、である。跡取り息子ではなく。正妻であるエルフィーゼの家名グランディスをミドルネームにつけないことによってそれを公言する。
少年たちは正しく異物を見つけるだろう。ヴィルヘルムは死んだほうがましな目にあうことだろう。
「わたくしも、寂しくなりますわ」
エルフィーゼはさも心配そうに少年の頭を優しく撫でた。
「あなたが立派になって帰ってきてくださるのを、楽しみにしておりますからね。あなたはシュタイン侯爵家の男児です。男児は強くあらねばなりませぬ」
ヴィルヘルムはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「わかった……エルフィーゼ様がそう言うなら」
その従順さ! 母親が死んだ瞬間しおらしい。エルフィーゼは心からの満足を込めて少年を抱きしめた。
こうして、秋の終わり、ヴィルヘルムは王都の寄宿学校へと旅立っていった。馬車の窓から何度も振り返る少年の姿を見送り終えると、エルフィーゼは踵を返す。
――屋敷は当分の間、エルフィーゼだけの城になる。
舅は寝たきりのまま、意識のはっきりする時間もめっきり減っていた。専属の看護婦が甲斐甲斐しく世話をしているものの、老侯爵の命の灯は、着実に細くなっている。おそらくは息子の出征がこたえているのだろう。
(そう長くはないでしょうね)
前の生で舅を看取ったエルフィーゼにはそれがわかった。
舅には多少の恩義がある。前の生で彼はエルフィーゼに優しかった。彼が生きている間は苦しませることなく世話をするつもりである。
さて、そんなわけでエルフィーゼはユリウス・ハルヴァートへ手紙を書いて、『前回の私的な訪問において丁重にもてなしてくれたこと』へのお礼を述べた。ついでに、あくまで世間知らずな女の世間話の体裁を取った上でではあるが、今後の戦争の展望についていくつか未来を教えておいた。彼がこのことでエルフィーゼに興味を持てば、ともにシュタイン侯爵アルベルトを打ち負かす同志になれるかもしれなかったし、気づかないならないでよかった。
エルフィーゼは戦争の行く末を知っている。七年もいがみあったのに決着がつかず、領地を割譲し合って終わる不毛な未来だ。
(戦争が終われば男たちが帰ってくる。それまでに、必ず――)
地盤を固め、シュタイン侯爵家を手に入れる。エルフィーゼはそう決めている。
アルベルトが『生死不明』のままである以上、舅が亡くなればシュタイン侯爵家の当主権限は宙に浮く。エルフィーゼが当主代理の権限を振るえるのも、舅に決定権があると法律上決まっているからだ。女が、しかも血統関係のない嫁がシュタイン侯爵当主になれることはない。
彼女はもちうるすべての権限を使い、シュタイン侯爵家の資産の一部を少しずつ動かし始めた。
まず手をつけたのは、王都近郊にある古い別荘だった。もう何十年も使われておらず、書類上もほとんど忘れられかけていたその物件を、エルフィーゼは『領地本邸改修工事のための臨時収入源として売却』した。
実際に誰かに売却したわけではない。領民たち、とくに領主の保護なくして立ち行かないほど立場の弱い商業ギルドのいくつかを経由し、理由を聞かないのが取り柄の管財人の帳簿を通り過ぎ、舅の名、夫の名を経由して、その別荘は最終的にエルフィーゼ個人の名義として登記された。シュタイン侯爵家の財産としてではなく、彼女個人の資産として、である。
「戦時中は、書類仕事もずいぶん杜撰になるものね」
エルフィーゼはくすくす笑う。文字通り死ぬまで領地の収支をああでもないこうでもないとこねくりまわした記憶は忌まわしいものだが、こうして役立ってくれるなら意味はあった。
別荘の名義変更を皮切りに、エルフィーゼは少しずつ、少しずつ、シュタイン侯爵家の資産を動かしていった。
ま、やっていることは裏金づくり、横領、着服、はたまた窃盗といわれる類の犯罪である。あるいは犯罪スレスレの職権乱用。名義の乱用。己のものではない資産と名誉の切り売り。
構うものか。
あの結婚初夜でエルフィーゼの名誉は粉々に砕けた。これは夫に対する正当な仕返しである。
一つ一つは決して大きな額ではない。だがそれを何か月にも何年にもわたり根気強く、丁寧に積み重ねていく。
シュタイン侯爵家という看板そのものは、いずれアルベルトの生死が確定した時点で誰かのものになる。生還したアルベルト本人、親戚筋の男、あるいは庶子ヴィルヘルムに。
皮などくれてやる。身は渡さない。そうすれば、看板をなくせばエルフィーゼには何も残らない、ということにはならない。
(前の生では、何も持っていなかったわ。なあんにも)
あの時、エルフィーゼには、自分名義のものなど、何一つなかった。着る物も、住む場所も、すべてがシュタイン侯爵家という他人の器の中にあり、その器から放り出されれば、彼女には何も残らなかった。抵抗する気力さえ削がれ尽くしていた。死んだような日々。生きているかわからない日々。
今度は違う。
(もっと。もっと、増やしましょう)
シュタイン侯爵家を乗っ取る。それができなければこの資産を持って家を出る。
どちらに転んでもエルフィーゼが二度と誰かに踏みにじられることのないだけの金が欲しい。
窓の外では、冬の気配が近づいていた。舅の部屋からは、規則正しい、しかし弱々しい寝息が聞こえてくる。ヴィルヘルムのいなくなった屋敷は、以前よりも静かである。
半年で終わるかに思われた戦争は続いたまま、一年を超えた。




