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そのようにして時は過ぎ、半月後が経った、その日。――エルフィーゼが計算していた通りの日に、リンデンブルクの後方拠点は敵国軍の奇襲を受けた。
誰も予想していなかった山岳ルートからの侵攻。守備隊は完全に不意を突かれ、拠点はわずか一日で陥落した。多くの兵士がその場で命を落とし、あるいは行方不明となった。
王都の軍務局から届いた通達は、簡潔だった。
『シュタイン侯爵家嫡男アルベルト・シュタイン、リンデンブルク方面にて消息不明。生死は現在確認中』
その報せを受け取ったとき、エルフィーゼは思わず舌打ちするところだった。使用人の目がなければそうしていただろう。通達を持ったままずかずか私室に上がり、沈黙する夫人を彼らは放っておいてくれた。てっきり悲しんでいると思っているらしい。
(――生死不明、ね)
死んだとは、まだ言い切れない。だが、生きているとも言い切れない。行方不明。
「くそっ」
死ねよ。悪運の強いやつ。
とはいえ、とエルフィーゼは思い直す。もし彼が確実に死んでいれば清々しい話だが、正式な戦死の証明が出るまでは、シュタイン侯爵家の当主代理としてのエルフィーゼの立場は揺るがない。――誰にも邪魔されずこの家と土地を、自分の手で作り変える時間ができたと思うべきだった。
お茶でも頼もうかと呼び鈴に手を伸ばしたとき、絶叫が聞こえて肩を落とした。屋敷に残された問題の一つが癇癪を起したのだ。
母に捨てられたヴィルヘルムである。
最初の数日、少年は泣き叫び、部屋に閉じこもり、誰の言うことも聞かなかった。使用人たちが食事を運んでも、皿を投げつけて追い返す始末だった。
「母上がいなくなったのは、みんなお前らのせいだ!」
その怒りの矛先は、時にエルフィーゼにも向けられた。だが、エルフィーゼは根気強く、毎日欠かさず彼の部屋を訪れた。
「ヴィルヘルム様。今日も、庭に薔薇を見に行きませんこと?」
「うるさい、あっちいけ! お前のせいだ、お前のせいだあああああ!」
ピエエエエエエエエエ、とシャンデリアを震わすほどの絶叫。エルフィーゼは怒らなかった。ただ少年が落ち着くのを待った。
この根気強さは演技でなかった。前の生で誰からも顧みられず、誰にも優しくされなかったエルフィーゼにとって、ヴィルヘルムの孤独は痛いほど理解できる。そしてその理解を冷徹に利用することに、何のためらいもなかった。
「あなたのお母様は、あなたを置いて行ってしまわれた」
そろそろ泣きつかれたヴィルヘルムが無表情になった頃。エルフィーゼは静かにそう告げた。少年の肩はびくりと震える。
「あなたのお父様も、今どこにいらっしゃるか分からない。もしかしたら、もう戻ってこられないかもしれない」
「……ッ、」
「でも、わたくしはここにいますわ。あなたがどれほど憎らしいことを言おうとも、わたくしはあなたを見捨てませんわ」
その言葉に、ヴィルヘルムはしばらく黙り込んだあと、堰を切ったように泣きじゃくった。エルフィーゼは、その小さな身体をそっと抱き寄せた。
それから、ヴィルヘルムは少しずつ、エルフィーゼに懐くようになっていった。彼女の後をついて回り、庭仕事を手伝い、簡単な読み書きを教わるようになった。かつて生意気な口を叩いていた少年は、今や、屋敷の中で唯一エルフィーゼに心を許す存在になりつつあった。
(可愛いものね。単純というか、素直というか)
エルフィーゼは、その変化を静かに観察しながら、内心でそう思った。よい手駒に育ってくれるといい。
さらに半年ほどが経った、ある秋の日のこと。それまでは平穏な日々が続いた。
屋敷に、思いもよらない報せが届いた。
王都からもシュタイン侯爵家領からも遠く離れた東の商業都市で、若い男女の二人組が捕らえられた。男は貴族出身を装っていたが、実際は借金にまみれた放蕩者。女は平民の出で、幼い子を捨てて男と駆け落ちしたという噂まで付随していた。
――ルドルフ・アイゼンハルトとリズ。
二人は逃亡先でシュタイン侯爵家から盗んだ品を売り払おうとして、身元がバレた。どうしてエルフィーゼが盗品を届出していないと思ったのか。警察組織が動かないと思ったのか。遠く離れてしまえば大丈夫だと高を括ったのか。戦時中だから? あるいは、エルフィーゼを心底舐めていたから? 貴族が平民に舐められて、黙っているわけないというのに。
――これで少なくともリズは処刑される。まっとうな貴族家からの盗品と一緒に見つかった平民の女。仮に彼女が無実でルドルフがそそのかしたのだとしても、罪は身分の低い女の方になすりつけられることだろう。
「まあ、なんて……お似合いの二人かしら」
愚かで、身勝手で、そして間抜け。憐れみを覚えるほどの馬鹿さ加減だった。
シュタイン侯爵家の嫡男の愛人と、その愛人を寝取った当主の友人。二人が窃盗犯として捕まったという事実は、それだけでも十分にスキャンダラスな話だ。おそらくすでに社交界に広まっていることだろう。
だがエルフィーゼ一人では力が足りなかった。シュタイン侯爵家当主代理の権限は領地において絶大だが、東の土地ではその限りではない。また、彼女がのこのこリズの首とルドルフの身柄を引き受けに行ってやる必要もない。
(やっぱりあの男に接近するべきか)
と考える。
――ユリウス・ハルヴァート。
王都でも指折りの豪商であり、平民出身でありながら、その財力と手腕で貴族社会にさえ強い影響力を持つ実業家である。
前の生で、エルフィーゼは彼と直接会う機会などなかったが、屋敷に出入りしていた行商人たちが、噂話としてその名を口にすることがあった。
「ハルヴァート様は、貴族という肩書きをそれは嫌っていらっしゃるそうですよ。特に、シュタイン侯爵家のような、由緒ばかりで中身の伴わない名家をね」
その理由も、うっすらと聞き知っていた。ハルヴァート商会はかつて先々代のシュタイン侯爵に正当な取引を反故にされ、多大な損失を被ったことがあるのだという。血筋を鼻にかけた貴族への、根深い恨み。それが、彼の商才を磨く原動力の一つになったとも言われていた。
そしてユリウス・ハルヴァートは、なんと都合がいいことか、今はシュタイン侯爵領に出入りしている。なんの商売の関係やら、エルフィーゼにはわからない。だがまるで天の采配のようではないか? ねえ?
ハルヴァート邸はこの土地の中でも一等地にある。街道の真ん前に構えられた、シュタイン侯爵邸に劣らぬ豪奢な建物だった。
シュタイン侯爵夫人の肩書きはやはり役に立ち、面会の申し込みは思いのほかすんなりと通った。
当日。エルフィーゼは新しく仕立てたドレスで彼の元へ向かった。新しい服。新しい布地、新しい縫い目。思わず心が躍ったことは白状しよう。エルフィーゼはうきうきしていた。もっとも、そんな気分はハルヴァート邸を目にした瞬間萎んだが。
「これはこれは。シュタイン侯爵夫人が私のような成り上がり者にご用とは、珍しい」
応接間に現れたユリウス・ハルヴァートは、噂に違わぬ美丈夫だった。年の頃は三十代半ばだろうか。鋭い目つきと隙のない立ち居振る舞い。貴族以上に威厳ある着こなし。成り上がりというよりは、生まれながらの支配者のような風格だった。皮肉屋らしい目は荒んでいた。
「お初にお目にかかります、ハルヴァート様」
エルフィーゼはさやさや流れるドレスのスカートを持ち上げ一礼した。
「ご多忙のところを失礼いたしますわ。――あなた様にある提案をしにまいりましたの」
「提案ですと? 侯爵夫人自らが、私のような商人にわざわざ足を運ばれるとは、余程のことのようだ」
ハルヴァートは喉でくつくつ笑うと興味深げに片眉を上げた。エルフィーゼは華やかなと評される微笑みを浮かべる。
「ハルヴァート様がシュタイン侯爵家にあまり良い感情をお持ちでないことは存じております」
「……ほう」
ハルヴァートの目に、ふっと昏い光がよぎった。
「良い感情、か。侯爵夫人は、その理由もご存知で?」
「先々代のシュタイン侯爵が、取引を反故になさったとか」
「それも、まあ、事実ですがね」
彼はテーブルの端を、指先でコツコツと叩く。
「もっと個人的な話をしましょうか。私とアルベルト殿は――同じ寄宿学校の出身でしてね」
前の生でも今の生でも、知らなかった話である。エルフィーゼは演技ではなく目を見張る。
「まあ。存じませんでしたわ」
「ご存知なくて当然でしょう。彼にとっては、忘れたい過去でしょうから」
ハルヴァートの口元に浮かんだ笑みは、もはや商人の愛想笑いではなかった。
「私の母は平民でした。父はしがない下級官吏で、爵位もない家門。それでも、当時のハルヴァート商会の礎を築いた祖父の財力のおかげで、私は特別に、あの名門寄宿学校への入学を許されたのです。もちろん――金の力でね」
「……」
「アルベルト殿は、当時から、随分と気位の高い少年でしたよ。血筋を鼻にかけ、平民の血が混じった者を心底見下していた。私が教室に足を踏み入れるたび、聞こえよがしに『商人風情が』と言い放つのが、彼の日課でしてね」
エルフィーゼは静かに耳を傾ける。アルベルトはどうやらとうの昔から、どうしようもない少年だったようだ。歪んだ選民思想を抱えた貴族のおぼっちゃん。
「ある冬のことです。私が寮の共同浴場を使っていると、アルベルト殿とその取り巻きが押しかけてきましてね。『商人の小僧が貴族と同じ湯に浸かるな』と、まあ、ずいぶんと愉快な言いがかりをつけられ、素っ裸のまま雪の積もった中庭へ放り出されました」
ハルヴァートはそう語りながらも微笑み続け、声音一つ変えなかった。まるで他人事のように。
「幸い、命を落とすほどのことにはなりませんでしたが、指先に軽い凍傷を負いましてね。今でも、寒い季節になると少しばかり疼くのですよ」
右手の小指を軽く曲げて見せる。
「それが、あなた様のおっしゃる『思うところ』ですのね」
「思うところ、もとい積年の借りと言った方が正確かもしれません。だからあなたに会うのも少しばかり躊躇いました。――ああそれと、彼が平民出の愛人を囲ったという話を聞いたときは笑いましたね」
ハルヴァートは燻り続ける屈辱を思わせる笑い声を立てる。なるほど、エルフィーゼは頷く。
「まあ、そういう次第です。それで、侯爵夫人。ご提案とは?」
「――先日、東の商業都市で、窃盗の容疑で捕らえられた男女がいることをご存知でして?」
「ああ、その話なら耳にしている。たしか、男の方は没落貴族崩れだとか」
「その男は我が夫、アルベルト様のご学友にございますの。そして女の方はアルベルト様の平民の愛人ですわ」
ハルヴァートの笑みがさらに深くなる。
「それはそれ、なかなかの醜聞だ。奥方も胸を痛めておいででしょう」
「ええ。とても悲しゅうございますわ。何よりその二人、元々はシュタイン侯爵家に滞在しておりましたもの。夫が戻りましたらどれほど厳しく叱られることでしょう。怖くて怖くて――」
そんなことはとっくに聞き知っていただろうハルヴァートだが、さも同情したというように頷きかける仕草はさすがである。
「なるほど。確かに彼は怒りそうですね」
「それはそれとして、嫁ぐ前より裏切られていた女の怒りもございます」
「……なるほど」
エルフィーゼは笑顔だった。部屋に入ったときからずっと変わらない、華やかな社交用の笑顔。
「つきましては、どうかリズとルドルフの処断にお力添えを頂戴いたしたく。判決を早め、より厳しくしていただきとうございます」
「何をおっしゃる。奥様、あなたは何か勘違いしておいでだ。一介の商人に過ぎない私に、なぜ遠方の裁判の行方を左右する力があるとお考えなのですか?」
「――ルドルフが借金していた博打の胴元は、あなた様の配下でしょう?」
エルフィーゼはわざとらしく瞬きしながら微笑んだ。
「みんな知っておりますよ。ええ、この土地にいる者でしたら皆。ハルヴァート商会のお仕事は、そうした後ろ暗い部分にまで及んでおいでだと。……ああ、どうかお怒りにならないで。わたくしは無知無学な女の身。間違ったことを申しているのでしたら、どうか優しく教えてくださいな」
にこにこ。いっそ少女じみた笑顔が男の目に不気味に映ることくらい、エルフィーゼにもわかっている。だが彼女はそのやり方を貫く。
「どうかリズとルドルフに天罰を。そしたら邪魔な女は消え、戦勝のあかつきに戻ってきた夫はわたくしを大切にしてくださるでしょう。――社交界に出られるわ。新しいドレスも何着だって仕立てられる。ああ、わたくしは歯がゆいのです。愛しい夫を平民女に寝取られ、若い時代をこうして一人寂しくもてあましているのが!」
噓八百もここまでくればみごとである。
ハルヴァートは肩を震わせ、エルフィーゼへ向かって両手を広げた。
「面白い。侯爵夫人、あなたは随分と、興味深いお方だ。てっきり貞淑で気弱な貴族の奥方かと思っていたが」
「あら。人は見かけによりませんのよ」
「同感だ――いいでしょう。私もシュタイン家という名前には、少々思うところがある。この話、乗らせていただきましょう」
窓の外では日が傾き始めていた。エルフィーゼの唇に浮かぶ笑みは、あの結婚初夜に見せた呆然とした表情とは、もはや似ても似つかないものだった。




