5
満月の夜から数日後、リズは以前にも増して、ルドルフの姿を目で追うようになった。彼が剣の稽古と称してヴィルヘルムに構ってやるとき、彼女は熱心に見学し、頬を染めながら拍手を送った。ルドルフの方も素知らぬ顔をしながら、確実にリズへ接近していく。
「リズ殿、少し庭を歩きませんか。月が綺麗だ」
夕食後、そんな誘い文句が交わされるようになるまで、そう時間はかからなかった。
エルフィーゼはそれを見て見ぬふりで通した――わけではない。リズを咎めた。
「あなたは母親なのですよ」
といえば、リズは悔しそうに美貌を歪め、声ばかりはしおらしく言う。
「はあい、ごめんなさい奥様……」
「あなたたちの生活費を負担しているのはシュタイン侯爵家です。それを忘れぬよう」
「お金のこと持ち出して脅すなんてずるいっ」
ぱっと顔を上げて叫んだリズに、ようやく初めて本音を言ったと思った。やれやれ。
口と態度ではリズを咎めつつ、エルフィーゼは二人が接触する機会をせっせと作ってやった。子守りを買って出て、ヴィルヘルムに新しい絵本を読み聞かせてやる。仕事をメイドたちに割り振って時間を作ってやる。彼女たちの妬みがリズに向くよう、わざとリズにお下がりの指輪をくれてやったりもした。
結果、リズとルドルフが庭でひっそりと言葉を交わす時間がたっぷり確保された。
「本当は、ずっと寂しかったんです」
とリズは言いながら、ルドルフに擦り寄っていたという。メイドの一人が盗み見して、教えてくれた。彼女らは雇い主エルフィーゼに忠実だ。そうして指輪をもらえることを期待している。
「アルベルト様は……お忙しい方でしたから、なかなか屋敷に帰ってきてくださらなくて。ヴィルヘルムが生まれてからは、もっと。あたし、いつも一人で……」
「そんな寂しい思いを、あなたのような人にさせておくとはね……奴が帰ってくるまで、私が、そばにいましょうか」
「……そんなあ」
「本気ですよ」
リズに与えた部屋の扉は今まで以上にしっかりと閉ざされたままだった。ヴィルヘルムが居間の暖炉の前で寝かされているのを目撃したメイドさえいた。使用人たちの間で、ひそひそと囁かれる噂話。エルフィーゼは内心でほくそ笑む。
幼いヴィルヘルムは母親の恋愛の代償を支払わされ、癇癪を起こす。
「母上ぇぇぇぇぇ。どこおおおお!」
朝の食堂で、ヴィルヘルムが甲高い声を上げて泣きじゃくった。母親が朝食の席に姿を見せなかったからだ。満月の夜から一か月。いまやリズは毎朝寝坊していた。
「母上はどこ! 母上を呼んで!」
「ヴィルヘルム様、リズ様は少しお休みになっておりますの」
エルフィーゼが優しく声をかけても、少年は泣きわめいて地団太を踏む。
「うそだ! いつも母上は僕といっしょに朝ごはん食べるもん! あのおじさんのところに行ったんでしょ!」
子供の勘は鋭い。ヴィルヘルムは母親がルドルフに夢中になっていることを、無邪気ながらもはっきりと感じ取っていた。父親の不在、母親の変化――幼いなりに、彼は自分の世界が揺らいでいることを察知していたのだろう。
「母上なんて嫌いだ! 父上も嫌いだ! みんな嫌いだ!」
テーブルを叩き、皿を投げつけようとする少年を、エルフィーゼは黙って見守った。メイドたちが慌てて止めに入るが、ヴィルヘルムは収まらない。
「お前も嫌いだ! ブスババア!」
「そんなことを言ってはなりませんわよ」
この子には本当に何の罪もない。ただ、大人たちの身勝手な欲望と復讐劇の狭間で振り回される本物の被害者だ。けれど。
(可哀想に、とは思うわよ。思うけれど――もうちょっと賢く媚を売ってくれたならともかくねえ)
よいしょ、とエルフィーゼは膝を折り、泣きじゃくる少年の前に屈んだ。
「ヴィルヘルム様」
「うるさい! あっちいけババア!」
「よろしければ、私と一緒に庭で花を摘みませんこと? 新しく咲いた薔薇があるんですのよ」
少年は涙で濡れた目でエルフィーゼを見上げる。エルフィーゼが母親であれば無理やりにでも朝食を食べさせただろうが、彼女は母親ではないので、少年の手を引いて庭へと連れ出した。
花をちぎって遊び、花壇をめちゃくちゃにしたあと、ヴィルヘルムは朝食を食べた。
その日の午後、屋敷に一通の手紙が届いた。差出人はアルベルト。戦場からである。
侍女から手紙を受け取ると、エルフィーゼはそれを封も切らずに自室へと持ち帰った。
夜、ようやく一人になり、燭台の灯りの下で、エルフィーゼはその封を切った。苛立ちの滲む筆跡が踊る。
『我が妻 エルフィーゼへ
貴様のやったことは、決して忘れぬ。この一件が片付き次第、必ず落とし前をつけさてやせる。だが、今は言っても仕方あるまい。
この手紙が届く頃には、私は前線からやや後方の、リンデンブルクの守備隊に配属されているはずだ。ここは比較的安全な後方拠点であり、危険は少ないと聞いている。父上には、くれぐれもよろしく伝えてくれ。
リズと息子の世話を申し付ける。決して粗末に扱うな。もし彼女らに何かあれば……』
そこから先は脅し文句がつらつら続いていた。エルフィーゼはその部分を読み飛ばした。
リンデンブルク。エルフィーゼは、その地名に見覚えがあった。前の生で聞き知ったのだ。町の女たち、老いた使用人たちが噂話として語っていたのを、断片的に覚えている。
そう――リンデンブルクは、たしか。
開戦から二か月ほど経った頃、後方拠点として油断していたそこを、敵国軍が奇襲したのだ。誰も予想していなかった侵攻ルートからの攻撃で、守備隊は壊滅的な打撃を受けた。多くの兵士がそこで命を落としたと記憶している。
エルフィーゼの顔が嬉しさに輝いた。彼女は壁掛け暦を振り返る。
(――ということは)
手紙が届くのにも時間がかかり、アルベルトが戦場で持ち場を見つけるにも時間がかかったろうから。奇襲攻撃は――半月後だ!
アルベルトはその奇襲に巻き込まれる。生きるか死ぬかは、五分五分――いや、後方だと油断していた分、生存率はもっと低いかもしれない。
静かな笑みが浮かんだ。
(死ねばいいのに)
その言葉は自分でも驚くほど、すんなりと胸の内から湧き上がってきた。
この男に同情の余地などない。前の生でエルフィーゼの人生を根こそぎ奪った男だ。愛さないと宣言し、屋敷に置き去りにし、寝たきりの父親の介護と屋敷の維持を全て押し付け、領地の諍いさえ押し付けた。自分は楽しく妻子と都会で過ごし、彼女が四十を過ぎるまで一度も労いの言葉すらかけなかった男。
その男が、戦地で命を落とす。天罰以外の何ものでもない。
翌日、エルフィーゼはリズを客間に呼び出した。窓辺の椅子に腰かけ、あくまで気遣わしげな表情を作りながら、静かに切り出す。
「リズさん。少し、お話ししておきたいことがございますの」
「はい、なんでございましょう」
リズは、少しやつれた顔をしていた。ルドルフとの逢瀬に夢中になる一方で、ヴィルヘルムの癇癪や、屋敷の中の冷たい視線にさすがに心労を溜めているのだろう。
「実は……アルベルト様から、少し前にお手紙をいただきましたの」
エルフィーゼは少し狼狽した様子をよそいながらそう口にした。リズの表情がぱっと明るくなり、若い母親は少女のように飛び跳ねた。
「まあ! アルベルト様から! あたしのことなんて言ってました?」
エルフィーゼは悲しげに首を振って見せる。
「それが……その、申し上げにくいのですけれど」
「なんでございましょう。教えてくださいませ」
「アルベルト様のお手紙は……あなた方のこと、それは心配していましたわ」
「嬉しいですう」
「でも生活費のことについて、何も書かれていなかったんですの」
「……え?」
リズの表情が、みるみる曇っていく。
「わたくし、てっきりあなた方のために、何かしらの手配をなさっているものと思っておりましたのに。お手紙には、ただ『粗末に扱うな』とだけ……具体的な生活費の工面については、何も。ひょっとして、王都のおうちの家賃が支払われていなかったのは、手違いではなかったのかもしれないわ」
エルフィーゼはさも困惑した、といった調子で頬に手を当てる。戸惑うリズへ、深いため息をついてみせた。
「あのお方は本当に……。今はこうしてわたくしがお世話させていただいておりますが、いつまでも当家の厚意に頼ってばかりというわけにも参りませんでしょう。アルベルト様は、あなた方の今後について、何もお考えになっていらっしゃらないのかもしれません」
リズはスカートをぐしゃぐしゃと掴み、唇をわなわな震わせた。
「そんな……あの人は、いつも『お前たちのことは絶対に守る』って……」
「口先だけ、というのは、殿方にはよくあることですわ」
エルフィーゼはリズに歩み寄ると、その手をそっと握った。
「わたくしも、率直に申し上げれば、同じ思いをした身ですもの。愛さないと宣言されて、それでも一応は妻としての体面だけ保たされて。あなた方のように、心を通わせた仲でさえ、殿方というのは、いざとなると自分の都合ばかり優先なさるものなのかもしれませんわね」
リズの目の中に憎しみが生まれた。そうとも。たとえ子供を授かり幸せだったとしても、日陰者であるという事実は男の想像以上に女の心を苦しめるのだ。平民が貴族と結婚するには相当な期間と努力が必要となるが、不可能ではない。顔見知りの貴族、たとえば仲人のヴァイセンベルク公爵に養子縁組をしてもらい、リズが貴婦人にふさわしい礼儀作法や知識を身につければ彼女は正妻になれた、かもしれないのだ。
アルベルトとリズはどちらもその努力を放棄した。
そして家のため、エルフィーゼがシュタイン侯爵夫人になった。
リズの中にじわじわとアルベルトへの不信が湧いてくるのが目に見えるようだ。それはすでに芽生えているルドルフへの想いを後押しするだろう。
「あたし……息子も抱えて、あたし、どうしたら」
「大丈夫ですわ。わたくしがいる限り、あなた方を放り出すような真似はいたしませんとも」
エルフィーゼはきっぱりと胸を張る。
「でも……もし、あの方が戦場で新しい人を見つけたら……考えておいた方がいいかもしれませんわね」
「えっ?」
「稀にあるお話でしてよ。戦場には騎士たちを慰める職業の女性たちが集まるといいます。過酷な日々の中で彼女たちの胸に慰められ、いつしか本気になる騎士もいるのだと……」
「そんなっ、ひどい!」
「仮にも貴族であるわたくしをさえ無碍にするお方ですもの。その、リズさんは平民ですわ」
「あたしあんたなんかより愛されてるもん!」
リズはエルフィーゼの手をぱっしと振り払った。
瞬間、あ、と気づいた顔になる。エルフィーゼは手を摩りながら微笑んだ。この馬鹿女からは悲しそうに見えているだろうか?
「ごめんなさい! エルフィーゼ様、ごめんなさい! ほんとのことを言って苦しめるつもりなんかなかったの! 友達もいなくて、兄弟とも親とも仲が悪くて、アルベルト様に愛されるためだけにシュタイン侯爵家に来たのよね? ほんとにごめんなさあい。真実だからってなんでも話していいわけじゃありませんのに、あたしったら……」
「……アルベルト様がそうおっしゃったのね」
エルフィーゼは手を胸元に抱え込み、顔を背ける。
「エルフィーゼ様あ……」
「出ていって」
さて、その夜。
エルフィーゼは窓辺からその光景を見た。隣には同じくデバカメのメイドたちが、声を潜め、身をひそめ、好奇心にらんらん輝く目をして張り付いている。エルフィーゼ自身の目も似たようなものかもしれなかった。
遠く、だが月明かりで十分によく見える庭の四阿で、リズがルドルフの胸に泣きながら縋りついていた。
「もう、こんな家、耐えられませんわ……!」
風に乗ってリズの声が届く。ルドルフは伊達男らしく前髪をかき上げながらその背中を摩る。
「奥様は嫉妬深すぎて、あたしのこといじめるんです。メイドたちを差し向けて。あたしを苦しめるの……! アルベルト様は、もうあたしたちのことなんて、どうでもいいんですわ! お金の心配すらしてくださらなかった……」
「リズ、俺と来ないか」
ルドルフの声が耳に届き、エルフィーゼとメイドたちは互いに顔を見合わせた。くす。誰かのこらえきれない笑い声。
「俺には財産はない。だが、少なくとも――お前のことを、一人の女として大切にする自信はある。あんな薄情な男よりは、よっぽど」
「ルドルフ様……」
「一緒に逃げよう。どこか遠く、誰も俺たちを知らない土地へ」
沈黙は長いようで短かった。
リズの返事は鋭かった。
「はい……! あたし、あなたと行くわ!」
数日後の未明。
屋敷がまだ深い眠りの中にある早朝。
リズは荷物をまとめ、出て行った。厩舎ではルドルフが二頭の馬を用意して待っていた。
そして出て行った。幼いヴィルヘルムを置いて。振り返らずに。
二階の私室のカーテンの隙間から、エルフィーゼはその一部始終を見下ろしていた。
「うまくいきすぎて怖いくらい……」
それから行動を開始した。いつもの起きる時間になると、家じゅうを探してリズがいないことを確認。それから、芝居がかった仕草で居間の暖炉の上にあった金の装飾品のいくつか、自身の宝石のいくつかがないと叫んだ。
もちろん、彼女があえて目につくようここに置いておいたのである。リズはともかく、金に困っているルドルフが見逃すはずはない場所へ。
使用人たちは色めき立った。平民が貴族のものを盗むのは死罪だからだ。
ただちに警邏兵が呼ばれ、屋敷じゅうの人間が聞き取り調査を受ける。そのうちにヴィルヘルムが起きてきて、自分が捨てられたことを知り泣き叫ぶ。使用人たちは上を下への大騒動。近所の農民さえ野次馬に来た。
その間、エルフィーゼは悲劇の主人公ぶっていればそれでよかった。
――これはあの男の名誉をどん底まで叩き落とすための、これ以上ない材料だ。




