4
ルドルフ・アイゼンハルトという青年がいた。アルベルトの友人と言っていいだろう、寄宿舎にいた頃の同級生である。前の生で一度、エルフィーゼは彼に会ったことがある。借金取りに追われて、アルベルトを頼り領地まで逃げてきた。だが彼が王都で優雅な暮らしをしていると知り、肩を落として帰っていった。
つまりは放蕩息子、十年後に実家からも見放される男である。エルフィーゼとしては親近感がわいてもいいところだ。同じく親から見放された者同士なのだから。ふふ。
エルフィーゼは彼に手紙を書いた。男手がなくて不安でございます、アルベルト様はあなたのことをよく噂しておりました、ぜひ一度ご招待させてください――。
まだ三十前の若さですでに借金から逃げ回る暮らしの男は、喜び勇んでやってきた。
招待状を送ってからわずか五日後。返事より先に彼はやってきた。その速さからも、彼がどれほど困窮していたかが窺えた。
「いやはや、エルフィーゼ様! お招きいただき光栄の至りです!」
馬から飛び降りるなり、大仰な仕草でエルフィーゼの手を取り、恭しく口づけの真似事をする。金髪を軽く撫でつけた、なかなかに整った顔立ちの青年だった。
着ている服こそ上等な仕立てだが、袖口や襟元が微かにくたびれている。アルベルト同様、この男の本質は何も変わらない。
「よくいらしてくださいました、アイゼンハルト様。アルベルト様が国境へ発たれてから、屋敷が寂しくて仕方がございませんでしたの」
エルフィーゼは、いかにも心細げな未亡人めいた微笑みを浮かべて見せた。ルドルフは、その表情に何かを感じ取ったのか、目をわずかに輝かせた。
「なんと、お労しい。あの朴念仁め、こんな美しい奥方を置いて戦地に赴くとは。まあ、私めがいる限り、寂しい思いはさせませんよ」
軽薄な口調だった。だが、それでいい。エルフィーゼが欲しいのはまさにこういう男。上っ面だけがいい、調子に乗りやすく隙だらけの男だ。
屋敷の中に案内すると、玄関ホールの片隅でリズが掃除をしていた。
「まあ、お客様がいらっしゃる前にすませてと言ったじゃありませんか、リズさん」
「あっ、あっ、ごめんなさいエルフィーゼ様あ……」
リズはきゃっと叫んで飛び上がった。彼女とエルフィーゼはまだそれほど多くの時間を共に過ごしていないが、すでにリズが女から嫌われる女だとわかっていたし、理由は全部、その仕草に詰まっていた。
ちなみに、この状況はもちろん、エルフィーゼがわざとこの時間帯にリズを表に出しておくよう手配していたのである。
「おや」
ルドルフの足が止まった。彼の視線は雑巾を手にしたリズへと吸い寄せられる。二人の視線が絡み合う。
「これはこれは。エルフィーゼ様、こちらの方は?」
「ああ、こちらは……」
エルフィーゼは一瞬、言い淀んで見せた。
「事情があって、しばらくうちでお世話をしている方ですの。リズさん、こちらはアイゼンハルト様。アルベルト様のご友人ですわ」
リズは慌てて雑巾を置き、深々と頭を下げた。
「リズと申します。お邪魔しております」
「これは、これは」
ルドルフは、値踏みするというより牛を買うときの農夫の視線でリズを上から下まで眺めた。素朴だが整った顔立ち、質素な服の上からでも分かる、凹凸ある身体つき。彼の目に、明らかな好奇と興味の色が浮かんだ。
「事情ってなんなんです? 差し支えなければ伺っても?」
エルフィーゼは内心でほくそ笑みながら、あくまで気まずそうな声で顔を背けた。
「その……アルベルト様の、ご友人でいらっしゃる方ですし、隠すことでもございませんわね。リズさんは――アルベルト様の、その、心を通わせていらした方ですの。お子様もいらっしゃいますわ」
ルドルフの目が、驚いたように見開かれる。だがそれも一瞬のこと。すぐに、面白いものでも見つけたかのような笑みが口元に浮かぶ。
「なんと。あの堅物のアルベルトが、そんな艶っぽい話を隠していたとは。しかも、こんなに愛らしい人を」
「ま――」
リズは頬を赤らめ、視線を泳がせた。あからさまな世辞に慣れていない様子が、かえって初々しさを引き立てていた。柱の影でメイドたちが舌打ちする。
「あ、あの、からかわないでくださいまし」
「からかってなどおりませんとも」
ルドルフはにこやかに笑うと、がらりと妙に真剣な声音に変えて言った。
「私は、思ったことをそのまま口にする質でしてね」
エルフィーゼはわたくし新妻すぎてなんのことやらわかりませんという顔で二人のやり取りを見守る。
(食いついたわね)
前の生でわずかに耳にした噂話。ルドルフ・アイゼンハルトの放蕩は、博打ではなく主に女性関係。社交界の夜会では、既婚未婚を問わず言い寄り、幾人もの女性と浮名を流してきたという。その放蕩ぶりが、いずれ実家からも見放される一因になった。
そして今の彼はその女遊びでできた借金に追われ、身も心も余裕がない。そんな状態の男の前に、『身持ちの悪い』美しい女性を置いておけばどうなるか。火を見るより明らかである。
その日の夕食は、エルフィーゼ、ルドルフ、リズの三人で囲むことになった。エルフィーゼは意図的に、二人が言葉を交わす機会を増やすよう気を配った。
「ルドルフ様は、剣がお得意だと伺っておりますわ」
「ええ、まあ、多少は。学生時代はアルベルトより俺の方が強かったくらいですよ」
「いやあん、あのアルベルト様よりですかあ」
リズが目を輝かせ、ぱしっと両手を打つ。エルフィーゼの存在に気づいたようで、はっとした顔で侯爵夫人の方を向き付け加えた。
「あの、その、エルフィーゼ様。アルベルト様は剣がお得意なのです」
「まあ、そうでしたの」
「あ。ご存知なかったですか……その。ええっとぉ。あ! ルドルフ様!」
「はい、美しいリズ殿」
「その、ヴィルヘルムが、剣に興味を持っておりますの。もしよろしければ、少し教えていただけませんか」
「ほう、坊っちゃんが。いいでしょう、俺が手ほどきして差し上げますよ」
ルドルフは軽く胸を張った。リズの息子の話に興味を示すことで、母親からの好感度を稼ごうという算段が、あまりに見え透いていた。だが、リズはそうした駆け引きに慣れていないのか、素直に嬉しそうな顔をした。
食事が進むにつれ、二人の間の空気は目に見えて和らいでいった。ルドルフは持ち前の話術で会話をリードした。王都の面白おかしい噂話や、学生時代のアルベルトの失敗談などを次々と披露する。リズは久しぶりに心から笑っているようだった。
(なんでメイドたちからいじめられるのか、本当に理解できていないようだったものねえ……)
くすり。エルフィーゼはグラスの影に嘲笑を隠す。
そもそもリズはただの平民。貴族の食事の席にいるのはふさわしくないのだが、彼女はそれにさえ気づけないのだ。ずっと特別扱いされてきた人だから。
「アルベルト様が、そんな失敗を……」
「ええ、それはもう見事な転びっぷりでしたよ。あの真面目くさった顔で、池に頭から突っ込んでね」
「ぷっ。うくくんっ。おっもしろぉーい!」
エルフィーゼはにこにことその様子を見つめる。
リズに対して憎しみはない。だがリズとヴィルヘルムの存在はエルフィーゼを損ない続ける。単なる同情で母子を屋敷に置いているわけではない。そろそろ修繕工事もすみつつあり、往年のごとく美しくよみがえりつつあるこの屋敷に。
ここは私のものだ。
アルベルトのものでもリズのものでもない。あ、舅がほしいならあげてもいい。というか元々彼のものだったのだし。
夕食後、庭に出て涼んでいたリズのもとへ、ルドルフがそっと近づいていく様子を、エルフィーゼは窓越しに見る。メイドたちと輪になって、彼女らのぺちゃくちゃ頑是ないおしゃべりに耳を傾けながら、繕いものの最中だった。実家なら体面を損ねたと打擲されただろう針仕事も、ここでは『働き者の優しい奥様』の称号に早変わりである。
「奥方様、止めてまいりますか」
「好きにさせなさい」
メイドの一人がそう囁き、エルフィーゼはそう返した。中年女は不満そうに押し黙った。
(そうよ。もっと不満を溜めなさい)
爆発するそのときのために。
こうこうと輝く満月。月明かりの下、二つの人影が寄り添うまで、あと少し。




